<私>と世界の真相は何か? なぜ私がこの世界に存在するのか? ⇒この難問に答える

Greg Kaminsky が発言したタイトルの難問を題材として、その答えを述べる。

前置き

Greg Kaminsky がインタビューの中でタイトルの疑問を語っている。彼はその答えを求め、様々な秘教的な教えを彷徨し、今は仏教にその答えがあると信じていると。


(Greg Kaminski の著書)

手抜き

8:10。「よき人になる」ことが私(Greg Kaminsky)の目的ではない。私の目的は次の 3つの根源的な疑問の答を得ることにある。

  • (a) Who am I?       (この私の正体は何なのか? 私とは何なのか?)
  • (b) What is this plase? (この世界の正体は何なのか?)
  • (c) Why am I here?    (なぜ私がこの世界に存在するのか?)

動画(48:51)

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Greg Kaminsky も「真理」という虚構を実在だと錯覚し、それを追い求めている。いわば、彼も砂漠で遥か彼方に幽かに見える蜃気楼のオアシスを追い求めて彷徨っている。

ここで言う「真理」とは、より噛み砕いて言えば「日常的世界の奥に隠された、この世界の奥底に潜む究極の原理や真実」のことで

  • プラトンの洞窟の喩えにある、壁に映った影の本体
  • 神秘体験で垣間見る彼岸の世界(天国、極楽、天界、無色界、…)
  • 啓示や大悟で得られる超越的認識
  • 神や佛
  • 哲学的な大問題の最終的解答

などの類のこと。

これらの「真理」はどれも純然たる虚構ゆえ、どれほど熱心に追い求めても全て徒労に終わる。「私はこの世界の究極の真実を理解した」とか「私は 大悟/解脱 した」と主張する人間は、手に入れた瓦礫を宝石だと錯覚しているに過ぎない。

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では「真理」が虚構だとすると、上述の根源的な疑問

  • (a) Who am I? (この私の正体は何なのか? 私とは何なのか?)
  • (b) What is this plase? (この世界の正体は何なのか?)
  • (c) Why am I here? (なぜ私がこの世界に存在するのか?)

の答えは何か? 現時点では以下のように考えている。

(a) この私の正体は何なのか? 私とは何なのか?
私の正体とは、雑に言えば「私が経験してきた具体的な事柄の総体+私に可能な具体的な事柄の総体」となる。本質論や抽象的な事柄ではなく、具体的な事柄に限定していることに注意。言い換えれば、「事柄の総体」を生み出す(or 纏め上げる)「本質」は存在しない。そのような本質こそ上でいう「真理」という虚構に属する。
(b) この世界の正体は何なのか?
すぐ上の「私の正体」の私を世界に置き換えれば、それが「世界の正体」となる。
(c) なぜ私がこの世界に存在するのか?
これは質問の前提が間違っている(*1)。その誤った前提を元に如何なる答えを捻くりだしても全て見当違いとなる。

(*1)

上述の

  • (c) なぜ私がこの世界に存在するのか? という疑問には、

  • (P) 私という「本質的存在」(=私という存在の本質となる核、雑に言えば魂)が、この地上世界とは別個に自立して存在している

という(無自覚だが強固な信念に基づく)暗黙の前提がある。

この P という暗黙の前提を丸呑みしているから、

  • この地上世界とは別個に自立して存在している筈の「私という存在」が
  • なぜ、この地上世界に、
  • とりわけこの国の、この社会階層の、この特定の家庭環境という現実状況に
  • 雁字搦めに縛り付けられているのか?

という難問が生まれる。

この P の前提は間違っている。正しくは以下のようになる。

  • 私という「本質的存在」(=私という存在の本質となる核、雑に言えば魂)は最初からは存在せず(=不生不滅ではなく)、この地上世界とは別個に自立して存在してもいない。
  • この国の、この社会階層の、この特定の家庭環境という個別状況の中で受精した卵細胞が徐々に発育するにつれて、遺伝特性と家庭環境を反映した身体と精神を発達させ、やがて 8-9歳ごろに明瞭な自意識を持つようになる。それが私として自己認識される。

よって、当初の

  • (c) Why am I here? (なぜ私がこの世界に存在するのか?)

の正しい答えは

  • この国の、この社会階層の、この特定の家庭環境という個別状況の中で生じ、発育した具体的な人間個体が、やがて自身を「私」と認識するようになるのであり、
  • 抽象的な「本質を備えた私」が、なにやら抽象的な「この世界」に、(まるで世界から自立しているかのように)存在するのではない。

一言でいえば、「私はある」のではなく、「徐々に形作られたものが、やがて私として自覚された」だけの話。そこに「存在の神秘」や「在ることの驚異」を見出すのが鋭敏な哲学的感性ならば、そんな感性など私は願い下げにしたい。

なお、以上は下の過去記事、

の続編に相当している。

結論

要するに、「私」「本質」「存在」「世界」といった用語自体が既に抽象であり、それらの抽象の段階で虚構成分がたっぷりと混ざり込んでいる。それらの虚構まじりの抽象用語を土台として組み立てた

  • (a) Who am I? (この私の正体は何なのか? 私とは何なのか?)
  • (b) What is this plase? (この世界の正体は何なのか?)
  • (c) Why am I here? (なぜ私がこの世界に存在するのか?)

という根源的疑問は、それ自体が既に虚構の土台の上に構築した虚構の建築物と化している。つまり、「針の上で天使は何人踊れるか」という有名な問題と同じ構図になっている。

蛇足

上述の私の見解は不可知論やプラグマティズム、現象論などの「二番煎じ/類似品」だと誤解されるかも知れない。だが、それらの哲学的立場とは以下の点で大きく異なる。

私は、哲学それ自体の核となる部分が虚構を土台にして構築されていると考えている。たとえば不可知論は、真理の存在を自明の前提とした上で、その真理は様々な制約のために知り得ないのだ…という立場になっている。真理は存在するが、そこに到達することは諸事情で困難だ…という意味では Greg Kaminsky の立場と変わりがない。この点では哲学と宗教は同じ立場を共有している。

私は、その哲学的な真理それ自体が(=哲学それ自体が)虚構だと判断している。この点が異なる。

(2023-04-01)


初出

Greg Kaminsky : <私>と世界の真相は何か? なぜ私がこの世界に存在するのか? (⇒この難問に答える) (2023-04-01)