大悟した禅匠が観る「事事無礙法界の風光」の正体は、制御された意識障害の副産物だ

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履歴

(2023-05-31) 追加。

(2023-04-07) 追加。大悟した禅匠が観る「事事無礙法界の風光」の正体は、制御された意識障害の副産物だ(途中 2) (2023-04-07)

(2022-08-26) 作成。大悟した禅匠が観る「事事無礙法界の風光」の正体は、制御された意識障害の副産物だ(途中1) (2022-08-26)


前置き

最初に、井筒俊彦が格調高い文章で綴った、
  ・大悟した禅匠が観る「事事無礙法界の風光」
を引用する。

その上で、その
  ・事事無礙法界の風光
の正体は「制御された意識障害」の副産物(=制御された幻覚)に過ぎないという仮説を述べる。

それに基づいて、よくいわれる宗教的・哲学的な真理や実相、真如といった「この日常世界の奥底に実在する本質」なるもの はどれも虚構であり、井筒俊彦らの穿った見方は逆立ちしている(=虚構と実在を真逆に取り違えている)ことを指摘する。

引用

20220826_p112_.jpg 112頁


20220826_p114.jpg 114頁


20220826_p164_.jpg 164頁

出典

20220826_book.jpg

『井筒俊彦全集 第6巻 意識と本質』、慶應義塾大学出版会、2014-07

日常世界の奥に存在の驚異を観るのは「意識の深化」ではない

(後日、詳細を記述)

制御された意識障害

(後述部分で具体的に記述を追加した)

悟りは有害かつ無益

(後日、詳細を記述)

(2022-08-26 end)


(2023-04-07 begin)

前置き

これまで、書籍など日本語文章の引用の際には scan 画像で済ませてきた。日本語文章、それも縦書きの scan 画像から、OCR 処理によって日本語テキストを生成するのが手間ばかりかかって満足な成果が得られないため。数年前に試した時には商用の OCR ソフトでさえ、膨大な事前処理の手間を要する割に低品質な結果しか得られなかった。

だが、最近になって Microfoft が無料で提供している "Text Extractor(PowerToys)" がある程度実用になると判明した。そこで上に添付したスキャン画像のテキスト化を行った。それが下。

テキスト化した文章を音声合成ソフトに貼り付けて喋らせ、それを聴きながら元の scan 画像を読むことで簡単に OCR 結果をチェックできる。「入」と「人」、「一」と「―」のような微妙な違いは目視だけでは見逃しやすい。

OCR によるテキスト化

 たしかに禅も、経験的世界を一度は徹底的にカオス化する。一切の存在者からその「本質」を剥奪することによって、である。庭に撩乱と咲く牡丹の花を指さしつつ、「時の人、この一株の花を見ること夢のごとくに相似たり」とさりげなく洩らした南泉普願の言葉を憶いだす。世上一般の常識的人間が見ているこの花は、まるで夢の中で見る花のようなものた、というのである。もともとこの言葉、肇法師の「天地と我と同根」(天地万物と我とは根柢において一体である)という命題の意味がどうもびたりとわからないといって禅師に教示を求めた御史大夫陸亘の質間にたいする答えだから、重点はむしろ、花を見る我と見られる花、主体と客体、意識と対象、の根源的一体性の問題にあるが、しかし同時に、そのように主客対峙する状況において成立する客観的対象、「花」、そのものが、本当は実在性の極度に稀薄な、無にひとしい、夢の一片のようなものだと南泉は言いたいのだ。なぜ知覚的に認識される花が無にひとしいのかといえば、もともとありもしない花の「本質」を意識主体が妄想して、花である実体として描きだした虚像で、それがあるからにほかならない。

 こうして禅は、すべての存在者から「本質」を消去し、そうすることによってすべての意識対象を無化し、全存在世界をカオス化してしまう。しかし、そこまでで禅はとどまりはしない。世界のカオス化は禅の存在体験の前半であるにすぎない。一たんカオス化しきった世界に、禅はまた再び秩序を戻す、但し、今度は前とは違った、まったく新しい形で。さまざまな事物がもう一度返ってくる。無化された花がまた花として蘇る。だが、また花としてといっても、花の「本質」を取り戻して、という意味ではない。あくまで無「本質」的に、である。だから、新しく秩序付けられたこの世界において、すべての事物は互いに区別されつつも、しかも「本質」的に固定されず、互いに透明である。「花」は「花」でありながら「鳥」に融入し、「鳥」は「鳥」でありながら「花」に融入する。まさに華厳哲学にいわゆる事事無礙法界の風光、道元禅師の言う「水清くして地に徹す、魚行きて魚に似たり。空闊くして天に透る、鳥飛んで鳥のごとし」(「坐禅箴」)の世界。

 鳥が鳥である、のではなくて、鳥のごとし、という。しかもその「鳥のごとし」が無限に遠く空を飛ぶ。鳥としての「本質、が措定されていないからである。この鳥は鳥という「本質」に縛られていない。だが、「本質」がないのに、この鳥は鳥として分節されている。禅の存在体験の機微に属するこの事態を、禅独特の無「本質」的存在分節と私は呼びたい。


(1) の場合のように存在の局所的限定ではない。すなわち、現実の小さく区切られた一部分が断片的に切りとられて、それが花であったり鳥であったりするのではない。現実の全体が花であり鳥であるのだ。局所的限定というものが入りこむ余地は、ここにはまったくない。つまり無「本質」的なのである。

こうして、無分節の直接無媒介的自己分節として成立した花と鳥とは、根源的無分節性の次元において一である。つまり、a と b とは、a と b とであるかぎりにおいては明らかに区別されているが、空円においては一である。宏智のいわゆる「百川同一味」。「青青たる翠竹、鬱鬱たる黄花、手に信せて拈じ来れば、随処に顕現す。了に他自無し。誰か根塵を作さん。独り本身を露かして自然に物を転ず」という、これもまた同じ宏智正覚禅師の言葉(「広録」)。このような境位において、このような形で分節された諸物相互の間に、存在相通が成立するのは当然のことだ。花が咲き鳥が啼く。鳥と花とは互いに透明であり、互いに浸透し合い.融け合い、ついに帰して一となり、無に消える。だが、消えた瞬間、間髪を容れず、また花は咲き鳥は啼く。

電光のごとく迅速な、無分節と分節との間のこの次元転換。それが不断に繰り返されていく。繰り返しではあるが、そのたびごとに新しい。これが存在というものだ。

(2023-04-07 end)


(2023-05-31 begin)

前置き

井筒俊彦の描写した「事事無礙法界の風光」、つまり

花が咲き鳥が啼く。鳥と花とは互いに透明であり、互いに浸透し合い.融け合い、ついに帰して一となり、無に消える。だが、消えた瞬間、間髪を容れず、また花は咲き鳥は啼く。

電光のごとく迅速な、無分節と分節との間のこの次元転換。それが不断に繰り返されていく。繰り返しではあるが、そのたびごとに新しい。これが存在というものだ。

という非日常的な認知が発生するメカニズムの素描的モデル(仮説)を以下で説明する。

今は時間がとれない無いのであくまで素描。たぶんすぐ忘れるので、手抜きの素描だが記録しておく。

「事事無礙法界の風光」の素描モデル(仮説)

(1) まず、事物(例:花、鳥)の意味や概念を構成する 小ネットワーク(SNW):花-SNW, 鳥-SNW が無数に存在し、互いにリンクしあうことで事物の認知がなされる。

(2) さらに、それぞれの SNW にはその上位概念、類概念などのより大きなネットワーク(LNW)群にリンクしている。具体例でいうと…

  花→植物、色鮮やか…  
  鳥→動物、空を飛ぶ…  
  月→天体、夜、満ち欠けする…  

(3) 正常な意識状態では '→'(=意味や概念を構成するネットワーク間のリンク)がほぼ固定され、それが花や鳥の安定した意味を構築している。つまり、下の状況。

  花→植物、色鮮やか…  
  鳥→動物、空を飛ぶ…  
  月→天体、夜、満ち欠けする…  

(4) ところが、「制御された意識障害」が発生すると(=修行によってダメージを受け、大悟、解脱した脳では)この '→'(=概念を構成するネットワーク間のリンク)の固定が外れ瞬間、瞬間で無秩序に接続先が跳躍する。つまり、下の状況。

  時刻 t1 t2 t3 t4 t5  
  花→植物→月→水→私→鳥  
  鳥→動物→庭の木→花→山  

(5) なお、全ての小ネットワークのリンクが無秩序に接続先の跳躍を起こすのではない。あくまでその時々で注意を向けている対象の小ネットワークのみで起きる。花に注意を向ければ、花の小ネットワークのリンク先が無秩序に跳躍し、鳥に向ければ鳥のそれが跳躍する。その結果、注意を向けた対象全てが「事事無礙法界の風光」に観えてしまうことになる。

(6) この「意味を構成するリンク」の無秩序な跳躍は日常意識より下のレベルで起こるが、日常意識による強力な支配・制御下にある。これが「制御された」意識障害の意味。そのため、錯乱したり、発狂には至ることは通常はない。

とりあえずの 小まとめ

上の素描モデルによって、過去記事で取り上げたよくある神秘体験(*1) の発生メカニズムが説明できる筈。眼の前の木と自分が同根不二だというような体験や梵我一如も同様。

井筒俊彦も禅のタワゴトにすっかり騙されている。意識障害による認知機能の混乱を「意識の本質、存在の本質」だと思い込んでしまっている。つまり、虚構を本質だと錯覚している。

(*1)

  クリシュナムルティの神秘体験 (2013.05.14)

  Jurgen Ziewe:「インドラの宝網」を体験した。 (途中:その1) (2018-05-25)

  Sadhguru :自己と世界が一体であることを実感すれば、倫理やモラルはもう不要だ。 (2019-05-10)

  Akos Mondovici : 全てを知ったと主張するルーマニアの若者 (2020-12-27)

  Grant Cameron : 「全てはひとつ」…これが UFO/ET のメッセージの核心だ。(途中1) (2021-03-26)

  単なる思いつき:集団行動によるトランス体験と見性体験の類似性 (2011-12-21)


おまけ:映像的な比喩

井筒俊彦の描写した「事事無礙法界の風光」を敢えて動画映像で比喩するとなると、たぶん以下の映像がやや近いのではないか。

実際は、花や鳥が視覚レベルで以下のような無秩序の映像の変貌・遷移を脳内で起こしているとは思わない。あくまで先に述べた「概念を構成するネットワーク間のリンク」が無秩序に跳躍しているのだと考えている。つまり視覚レベルではなく、意味レベルで混乱(=意識障害)が生じている。

動画(4:12) Deeply Artificial Trees (excerpt)

動画(4:17) Deep Dream: Weird Woods

動画(9:20) DeepDream 2

動画(2:46) Pouff - Grocery Trip

動画(9:37) DeepDream through all the layers of GoogleNet

動画(2:07) Vincent Van Gogh in Google DeepDream Space

動画(5:36) Journey on the Deep Dream

動画(5:36) Google Deep Dream Zoom "Inside an artificial brain"

(2023-05-31 end)


初出

❑ 大悟した禅匠が観る「事事無礙法界の風光」の正体は、制御された意識障害の副産物だ(途中 3) (2023-05-31)