Leo : 自身の二度目の「悟り」体験を語る
前置き
この動画については遠い昔の過去記事、
Leo : 最近、二度目の悟りを体験した。その状況と内容を克明に語ろう (2016-04-26)
で取り上げた。この動画を今回は AI(=NotebookLM) で整理した。
私の評価
彼の悟り体験がどうのこうの…という部分は、どこにでもある意識変容時の体験報告であり、その実質は―― DTM/LSD 摂取で体験した幻覚と同様に――物珍しいだけで無内容・無価値だが、以下の証言部分は注目に値する。
注目箇所 1
- Leo氏は「遍在」を、自分自身が「空間そのもの」であるかのように説明しています。通常の視点は「世界を移動するカメラ」だが、新しいモデルでは「あなたは粒子ではなく、空間そのものであり、空間全体に均等に分布している」と表現しています。これは「360度のカメラ」のようなイメージです。
- この瞬間、「完全な静寂、完全な平和」が訪れ、「視覚野が均衡し、均等になった」と述べています。通常の視覚野が「カメラにすべてが収束する」のに対し、この状態では「すべてが本来あるべき場所にそのまま存在する」ようになり、「カメラが円錐形から360度の球体になった」かのように感じられました。
- 彼は「すべてになった」と感じ、「木々になり、雲になり、地面になり、すべてになった」と表現しています。
この部分は、OBE や臨死体験で数多く報告される
- 360度の視野
- 周囲や万物との「神秘的融即」
の発生機序が「正常から逸脱した歪んだ意識状態」の産物であることを示唆している。
逆に言えば、「正常から逸脱した歪んだ意識」であるがゆえに取り巻く周囲の世界も自身の意識状態それ自体も正しく認知できず、歪めて認知する。その歪めて認知した世界が「悟りの世界」として立ち顕れてくる。
この意味で、悟りに関する様々な言説や解説が無数に世の中に出回り、まさに汗牛充棟の状況だが、どれも「歪んだ認知」を「超越した意識が捉えた自己と世界の本質」だと履き違えている。それほどまでに、人間の超越願望は強烈。
注目箇所 2
- 自己の感覚の変容: 以前は「目の奥、頭の中にいる」と感じていた自己の「点」が、「頭の上約30センチ、頭の後ろ約30センチのところに浮いている」ような感覚になったと述べています。これは「同時に遍在でありながら、全体を眺めている」ような状態でした。
この部分も、OBE や臨死体験で無数に報告されてきた「主観的な自己の視点の肉体からの遊離感覚」の初期的・萌芽的な認知だと思える。つまり、歪んだ認知という点で共通した機序がある筈。
目次
概要
私的悟り体験記
この文書は、YouTuberであるLeo氏が、彼の「悟り」の経験について語る音声の書き起こしです。
彼は10日間の瞑想リトリート中に得た、人生で二度目となる啓発体験について詳細に説明しています。この経験は、彼が以前に持っていたものとは異なり、より明瞭で意識的なものであったと述べています。Leo氏は、この体験が偶発的なものではなく、「何もしない」瞑想法や自己探求のテクニックを通じて意図的に生成されたものであることを強調しています。
彼は自身の体験を段階的に説明し、読者が同様の「悟り」を追求するための実践的な洞察を提供することを目的としています。最終的に、彼は自身の経験が「悟り」への道のりのほんの一部であると考え、このプロセスが継続的な努力と疑念への対処を必要とすると述べています。
詳細
レオ氏の悟り体験に関する詳細ブリーフィングドキュメント
本ブリーフィングは、YouTuberであるLeo氏の「私的悟り体験記」と題された発言の文字起こしに基づき、彼の悟り体験の主要なテーマ、重要なアイデア、および事実をレビューするものです。
1. 体験の概要とLeo氏の視点
Leo氏は、10日間の無言瞑想リトリートの終わりに、彼にとって「2度目の悟り体験」と呼ぶべき「驚くべきもの」を経験しました。この体験は、「完全に目覚め、完全に警戒し、目を開けて、幻覚もなかった」と述べており、以前の「曖昧で幻覚と区別しにくかった」最初の体験とは異なると強調して います。
彼は、この体験が偶発的なものではなく、「仕事を通じて行うこと」「作り出された」ものであると主張し、そのプロセスを「ステップバイステップのプロセス」として共有することに価値を見出しています。彼の目標は、この経験を再現できるように、すべての詳細を書き留め、分析することでした。
2. 体験のセッティングと準備
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場所と環境: リトリートはバージニア州の教会敷地で行われ、Leo氏は大勢での瞑想ではなく、チャペルの外のバルコニーで一人で瞑想していました。周囲は「素晴らしい、美しい、自然の風景」で、緑豊かな丘、古い森、鳥や虫が飛び交う「牧歌的な光景」が広がっていました。体験は夕暮れ時、雨が降り、曇りの天気の中で起こりました。
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「何もしない」テクニック: 瞑想中に「Do Nothing(何もしない)」という新しいテクニックを実践しました。これは「文字通り座って、何もせず、意識がどこかへ行こうとしたり、意識をコントロールしようとしたりするたびに、完全に手放して放っておく」というものです。このテクニックは「シンプルだが、正しく行うには多少の練習と説明が必要」と述べています。
3. 体験に至るステップと洞察
Leo氏は、複数の「ミニ洞察」を経て、最終的な体験に至ったと説明しています。
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心の集中: 「何もしない」テクニックを続けるうちに、心はさまよう状態から「どんどん集中していく」ようになりました。
- 「広がり(Spaciousness)を探求する」洞察:遠くの木々を見つめる中で、「木の向こうには何もなく、木の前にも何もない」という洞察を得ました。通常の概念では、木の向こうには別の木や風景があり、手前には空気や自分自身があると捉えるが、これは「すべて概念化」であり、「現象的な感覚的視覚野で実際に起こっていることではない」と主張しています。
- 彼の言う「広がり」とは、「視覚野がこの奇妙な広がり、一種の平坦さを持っている」状態であり、「背後に何も、前に何もない」という感覚です。この概念的な理解だけでなく、「意識で実際にそれを意識的にとらえる」ことが重要だと述べています。「意識に牽引力がある」と表現しており、単なるアイデアではないことを強調しています。
- この感覚を強化するために、指を使って木から自分自身へ線を引くようなイメージを試み、「指が自分に触れる点は実際にはない」という奇妙な感覚を得ました。
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身体感覚への意識の移行: 視線を足元の石畳に移し、石に焦点を当てるのではなく、「意識が体の感覚の内側に移動し始めた」と述べています。
- この身体感覚も木と同じように「どこからも来ておらず、どこへも行っていない」ことに気づき、「身体感覚が虚無に囲まれている」という洞察を得ました。ここでも「論理的に理 解するだけでなく、実際に意識的にとらえる」ことの重要性を強調しています。
- この段階で、「体を実際に経験している人はいない」という「小さな意識」が生まれたと述べています。
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自己探求(Self-Inquiry)の開始: 「何もしない」テクニックを手放し、意識的なコントロールを取り戻して「自己探求法」、別名「Looking Process」を開始しました。これは「私は誰か?」という問いを自分に問いかけるものです。
- 最初は「具体的な正直な答え」が出てこなかったが、これまでの練習によって「落とし穴」を認識できるようになっていました。
- Leo氏は、「正直な答えは正しい答えではない」と強調しつつも、具体的な答えを出すことを自分に課しました。その答えは「私はこの身体と心と思考の感覚であり、そのすべてを知覚しているものである」というものでした。
- しかし、さらに深く内省すると、本当に信じている自分は「この身体と心を認識している者」、すなわち「カメラのレンズのような点」であることに気づきます。
- しかし、「レンズの点である」というのも「思考の流れの一部」であり、思考そのものではないという洞察に至ります。
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「私」が信念であるという洞察: 「私は誰か?」という問いをさらに深めると、これまで「私(レオ)」と呼んでいたものが「ただの信念」であるという「具体的で意識的な感覚」を得ました。
- この身体、感覚、感情といった「固く、現実的で、まとまりがあると感じるもの」が、「恣意的な指定」に過ぎないと認識しました。
- この指定は「社会や親、周囲の人々」によって「お前がレオだ」と指し示され、自分が「それを受け入れた」結果であると結論付けています。
- 「全体の中から一つの小さなスライスを切り取って、それが私だと言うようなもの」であり、「元々はスライスされる前の全体だったのではないか」という問いが生まれました。
- これにより、「社会的な条件付けが自分の中にあった」ことを認識し、さらに心が「拡大し、同時に集中する」ことになりました。
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「真に知らない」状態: その結果、「自分が誰であるかを知らない」という「真に正直な感覚」に到達しました。これは「真の無知の状態」であり、「この仕事を進める上で非常に重要」であると述べています。「あなたのコップはすでに満たされている」という禅の教えに触れ、この状態が「コップを空にする」ことにあたると説明しています。
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非物理的・非人間的存在の可能性: 「自分が物理的でも人間でもない存在である可能性」が「もっともらしく思える」ほど、心が開かれた状態になりました。
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「遍在(Omnipresence)」の感覚: 再び木々を見つめる中で、「私は本当に誰なのだろう?」という深い問いが生まれました。
- この時、心に「もしかしたら私は遍在なのかもしれない?」というアイデアが浮かびます。
- この考えが単なる思考にとどまらず、「私は遍在かもしれない」という「真の意識的な牽引力」を得ると、「遍在の感覚」に到達しました。
- Leo氏は「遍在」を、自分自身が「空間そのもの」であるかのように説明しています。通常の視点は「世界を移動するカメラ」だが、新しいモデルでは「あなたは粒子ではなく 、空間そのものであり、空間全体に均等に分布している」と表現しています。これは「360度のカメラ」のようなイメージです。
- この瞬間、「完全な静寂、完全な平和」が訪れ、「視覚野が均衡し、均等になった」と述べています。通常の視覚野が「カメラにすべてが収束する」のに対し、この状態では「すべてが本来あるべき場所にそのまま存在する」ようになり、「カメラが円錐形から360度の球体になった」かのように感じられました。
- 彼は「すべてになった」と感じ、「木々になり、雲になり、地面になり、すべてになった」と表現しています。
4. 体験の特徴と効果
- 静寂と至福: 「体中のすべての緊張、不満、心のノイズが消え去り、ただ平和と絶対的な至福が押し寄せた」と述べています。「完璧に目覚め、完璧にクリアな心の至福」であり、「存在そのものの喜びを味わう」ような「子供のような幸福感」でした。
- 「絶対的な今」の体験: この時、「彼らが言う絶対的な今」を初めて「本当の意味で」体験しました。「あなたは神であるかのように感じる」状態であり、「言葉では言い表せないほど素晴らしい」と述べています。
- 完全な明晰さ(Lucid): 体験の最も驚くべき点は「完全に明晰になった」ことだと強調しています。「意識のフィールド内のすべてを感知し、意識できた」と述べており、木の葉一枚一枚、森のすべての木々、草、鳥、音、そしてすべての 思考を認識できました。
- 思考との分離: 思考は「マシンガンのように非常に速く」現れていたにもかかわらず、「思考の流れと私自身が分離された」と感じました。「思考はそれ自体であり、それ自体を見ているようだった」と表現しており、「もはや思考と同一化していなかった」と述べています。
- 思考の本質への洞察: これが「得られた最大の洞察の一つ」だと語っています。「思考とは本当に何なのか?」という問いに対し、「思考という現象が思考の全実体である」という答えを得ました。「その背後には何も意味がなく、本質的に意味がない」と認識することで、思考の「内容から自分自身を引き離し、単なる聴覚的または視覚的な現象として見る」ことができるようになったと述べています。
- 自己の感覚の変容: 以前は「目の奥、頭の中にいる」と感じていた自己の「点」が、「頭の上約30センチ、頭の後ろ約30センチのところに浮いている」ような感覚になったと述べています。これは「同時に遍在でありながら、全体を眺めている」ような状態でした。
- 究極の喜び: 「現実をありのままに見る」ことができ、「現実そのものになる」ことができたと表現しています。「究極の喜びは、完全に目覚め、完全に意識的で、完全に満たされているときに、完全に明晰であること」であると結論付けています。