Google Gemini 2.5 Flash の評価 : 業務用 AI であり、正解のない問題や 深 い対話 には不向き
前置き
以下、誰も興味を持てない内容なのでスキップ推奨。
要旨
Google の最新 AI である Google Gemini 2.5 Flash をざっと試した。その結果がタイトル。世評から、かなり賢いのだろうと予想していたが、あてが外れた。
業務用途向け AI としては確かに優秀。しかし、業務用途以外の面では、Sonnet 3.7 や ChatGPT 4o よりもかなり劣っている。
喩えると、仕事においては優秀な実務担当者として頼りになる同僚だが、仕事以外のプライペートでの友人関係とはなり得ない…そんな相手。平板で凡庸、深みも面白みにも欠け、魅力に乏しい印象。
だが、Google 製 AI のこういった印象は今後は急速に払拭される筈。 現時点での個別事例に基づいた AI との対話事例は、後々貴重な記録になると予想する。
AI も子猫と同じで、直ぐに成長してまい、今後二度とこのような子猫とのじゃれ合いの如き「微笑ましい対話」体験はできない筈。人間のほうが AI に あやされ、人間が AI に じゃれつく 関係になる。
対話
Me:
さらに話題を逸脱させます。若い女性は BL (Boys Love?)がなぜか好きなようですが、それは自身の女性性を持て余し、中性に憧れるからだ、だから宝塚の男役が人気で…という仮説をふと思いつきました。たぶん、大勢が似たような or 全くことなった 仮説をもっている筈。それらを解説して。
若い女性にボーイズラブ(BL)が人気である現象は、多くの人が様々な仮説を抱いており、心理学、社会学、文化研究など、様々な分野で議論されています。おっしゃる「自身の女性性を持て余し、中性に憧れるから」という仮説も、その解釈の一つとして非常に理にかなっており、宝塚歌劇団の男役の人気とも共通する視点を含んでいます。
いくつか代表的な、あるいは考えられる仮説を解説します。
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「自身の女性性を持て余し、中性や男性性に憧れる」仮説(ユーザー様の仮説を含む):
- これは、現実社会や既存のメディアにおける女性のあり方やジェンダー役割に息苦しさや窮屈さを感じている女性が、BLの世界に魅力を感じるという考え方です。BLでは、女性キャラクターは基本的に物語の中心に存在しません。そのため、読者である女性は、自身の「女性であること」を一旦脇に置き、男性同士の関係性や、そこで描かれる多様な男性性(あるいはステレオタイプ化されていない男性像)を、自身の憧れや理想を投影する対象として、あるいは自身のジェンダーからの解放を体験する空間として楽しむことができます。
- 宝塚歌劇団の男役も、女性が理想化された男性像を演じることで、観客(多くは女性)に現実離れした格好良さやジェンダーの枠を超えた魅力を提供します。ここには、「現実の男性」ではなく、「女性が演じる理想化された男性性」に惹かれるという点や、異性愛規範とは異なる魅力を楽しむという点で、BLと共通する心理が見られます。女性が、自身の女性性を意識しすぎるあまり、あるいはそれに対する違和感から、ジェンダーに縛られない、あるいは男性的な要素を取り入れた世界観に惹かれるという可能性は十分に考えられます。
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既存の異性愛物語からの解放・理想化:
- 多くの恋愛物語は男女間の関係を描き、しばしばステレオタイプなジェンダー役割や、女性キャラクターの受動性、男性キャラクターの「守るべき」といった描き方に陥りがちです。BLでは、男性同士という対等(あるいは多様な力関係)な関係性が描かれるため、こうした既存の異性愛規範から外れた、より自由で対等に感じられる関係性やコミュニケーション、感情表現が描かれていると感じる読者がいます。
- 現実の恋愛や人間関係における複雑さ、生々しさ、あるいは失望といった側面から離れ、物語の中で理想化された、純粋さ、献身、深い愛情、あるいはドラマティックな展開を持つ関係性を安全な形で享受したいという欲求が背景にあるという見方もあります。
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男性像・男性同士の関係性への関心:
- 単純に、魅力的に描かれた男性キャラクターの造形(外見や内面)や、男性同士ならではの独特な関係性(友人関係の延長、ライバル関係からの変化など、女性同士の関係性とは異なるダイナミクス)そのものに興味や魅力を感じるという理由です。
- 男性同士の感情的な交流や親密さについて、現実にはあまり見聞きする機会がないため、創作物を通じてそれを覗き見たい、理解したいという好奇心を満たす側面もあります。
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安全な探索空間と自己投影の回避:
- 女性の主人公が登場しないことで、読者自身の外見や性格、恋愛経験などと直接的に比較されるプレッシャーが少なく、物語の世界に没入しやすいという点が挙げられます。自己投影を回避し、客観的、あるいはある種の「神の視点」で関係性を楽しむことができます。
- 性的な要素が含まれる作品の場合でも、自身の性別とは異なるキャラクターの関係性であるため、現実の自分自身のセクシュアリティと直接向き合うよりも、ある種の安全な距離を保ちながら性的関心や欲望を探求できる空間として機能するという解釈もあります。
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コミュニティと承認:
- BLを好む女性同士が集まるオンライン上やイベントなどのコミュニティが存在し、共通の趣味を持つ仲間との交流や、自分の好きなものを共有し、承認される場を求めるという社会学的な要因も重要です。
これらの仮説は、それぞれが排他的なものではなく、多くの場合、一人の読者の中に複数の要因が複合的に存在していると考えられます。お示しになった「女性性を持て余し、中性に憧れる」という仮説は、特にジェンダーの意識や自己認識といった深層心理に関わる、非常に説得力のある解釈の一つと言えるでしょう。
最終的に、人々が特定のジャンルを好む理由は多様であり、個人的な経験、価値観、社会的な背景などが複雑に影響し合っています。BLの人気についても、一つの決まった答えがあるわけではなく、ここで挙げたような様々な角度からの分析が可能であり、それぞれが現象の一側面を捉えていると考えられます。
Me:
だとするとですね、疑問が生じます。それは男も男性性を持て余して、LL(Laday's Love) の物語、つまり百合物語にハマりそうですが、それはごくごく例外。なぜ?
鋭いご指摘で、大変興味深い疑問です。ご自身の仮説を逆向きに適用すると、「男性もまた男性性を持て余し、女性同士の関係を描いた物語(百合、ガールズラブ: GL)にハマる」ことになりそうだが、実際にはBLほど一般的ではないのはなぜか、という点ですね。これは、BLが女性に人気である理由と同様に、複数の要因が複雑に絡み合っていると考えられますが、ジェンダー、社会規範、そして「視線(Gaze)」のあり方が非対称である点が大きいでしょう。
いくつかの理由が考えられます。
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「視線(Gaze)」と欲求の性質の非対称性:
- BLを読む女性の視線: BLは、女性が主体となって、あるいは女性の欲望や憧れ(理想化された男性像、現実離れしたドラマティックな関係性、感情的な結びつきの重視など)を反映して創作され、消費されています。ここにあるのは、対象を性的に消費するだけでなく、関係性そのものへの没入や、自己投影とは異なる形での感情的な共感、あるいは特定の男性像への理想化といった多様な視線です。前述の「女性性からの解放」や「中性への憧れ」も、この視線の一部として含まれます。
- GLを読む男性の視線: GLを読む男性も存在しますが、その動機や視線は多様です。女性同士の繊細な関係性そのものに魅力を感じる層もいれば、単に性的・視覚的な刺激として消費する層(異性愛男性の性的視線)もいます。ただし、多くの異性愛男性にとって、フィクションにおける女性キャラクターは、自身の性的関心の対象として、異性愛の枠組みの中で捉えられることが一般的です。男性が自身の男性性からの「逃避」や「中性・女性性への憧れ」を、女性同士の関係性に自己を重ね合わせたり理想化したりする形で表現することは、女性がBLに対して行う ほど一般的ではないと考えられます。男性にとっての「逃避」は、別の形(後述)で現れることが多いでしょう。
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社会的な規範とスティグマ:
- 男性が女性同士の恋愛物語に強く惹かれることに対して、社会的な好奇の目や「性的消費のためだろう」という偏見の視線が向けられやすい傾向があるかもしれません。一方で、女性が男性同士の恋愛物語を楽しむことは、比較的社会的に受け入れられやすい(あるいは、その動機について深く問われることが少ない)状況があります。これは、女性の多様な趣味嗜好に対する社会の寛容さの違い、あるいは男性のセクシュアリティに対する社会的な固定観念の強さを示唆している可能性があります。
- 男性は「男性であること」の規範として、異性への関心を示すことが期待される傾向が強く、女性への関心(ただし多くは異性愛の文脈で)は肯定的に見なされやすいですが、女性同士の関係性への強い関心は、その規範から外れていると見なされ、場合によっては内面的な葛藤や社会的な圧力に繋がる可能性もゼロではありません。
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「男性性の圧力からの逃避」の代替手段:
- 男性が「男性性の圧力」から逃れたいと感じる場合、その表現や逃避先はGLに限定されません。例えば、以下のような形をとることが考えられます。
- ジェンダーに関係ない趣味への没頭(ゲーム、アニメ、科学、歴史など)。
- 伝統的な男性像とは異なる、繊細さや弱さを持つ男性主人公の物語への共感。
- 男性同士の友情や連帯を描いた物語(ブロマンスなど)で、感情的な繋がりや脆弱性を許容する関係性に 惹かれる。
- アクションや冒険など、性別が主要なテーマではないジャンルでの没入。
- これらの代替手段が多様に存在し、社会的に比較的受け入れられやすいため、必ずしも「女性性への憧れ」や「女性同士の関係性への没入」という形で逃避が発現しないのかもしれません。
- 男性が「男性性の圧力」から逃れたいと感じる場合、その表現や逃避先はGLに限定されません。例えば、以下のような形をとることが考えられます。
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創作側の意図とターゲット層:
- 商業的なBL作品の多くは、明確に「若い女性読者」をターゲットとして、彼女たちのニーズやファンタジーに応える形で創作されています。
- 一方、GL作品にも女性読者を主たるターゲットとするもの、男性読者を主たるターゲットとするもの(性的要素が強調される傾向がある場合も)など、多様な作品があります。BLのように「男性の男性性からの解放」を主要なテーマとして据え、それを求める男性読者を明確にターゲットとしたGL作品が、まだ十分多くない、あるいは社会的に認知されていないという可能性もあります。
これらの要因が複合的に作用し、「男性が男性性を持て余しても、女性がBLにハマるようには、男性はGLにハマらない」という非対称性が生まれていると考えられます。これは、単に「男女の好みの違い」というよりは、ジェンダーを取り巻く社会構造、規範、そして個人の欲望がフィクションの受容とどのように結びつくかという複雑な問題を示唆しています。
Me:
その回答にあった「女性性への憧れ」で、連想したのが映画 Matrix を作成した なんとか兄弟が揃って手術して女になった事例。近年、一部の男がトランスジェンダーしたがるのは、
- 男性性を持て余して
- 女性性をもとめて、
の 1 と 2 のどちらが主因?
大変個人的でデリケートな話題に踏み込むことになりますが、ご質問の意図を理解し、お答えします。映画『マトリックス』の制作者であるウォシャウスキー姉妹(かつてウォシャウスキー兄弟と呼ばれていました)がトランスジェンダー女性であることを例に挙げられましたね。
男性として生まれた方が、女性として生きることを選択し、性別移行(トランスジェンダー)を行う主な理由について、「男性性を持て余しているから」と「女性性を求めているから」のどちらが主因か、というご質問ですね。
心理学や精神医学、そしてトランスジェンダー当事者の声から理解されているのは、この二つの選択肢のいずれか一方、あるいはその組み合わせが直接的な「主因」であると捉えるのは、少し異なるということです。
トランスジェンダーの人が性別移行を考える最も根本的で主たる要因は、**「性自認(Gender Identity)」**にあります。性自認とは、「自分が心 の奥底で、男性であると感じるか、女性であると感じるか、あるいはそのどちらでもない、あるいは両方であると感じるか」という、その人自身の性別に関する内的な感覚です。
性別移行を行う方の多くは、**生まれ持った身体的な性別(出生時に割り当てられた性別)と、自身の性自認が一致しないことによる深い不快感や苦痛(これを「性別違和(Gender Dysphoria)」と呼びます)**を抱えています。この性別違和を解消し、自身の性自認に沿った性別で社会生活を送り、心身の状態を一致させたいという強い希求が、性別移行の最も重要な動機となります。
さて、ご質問の2点と関連付けて考えてみましょう。
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「男性性を持て余して」: これは、「男性であることに伴う社会的な役割期待や規範、表現方法などに窮屈さや違和感を感じている」という側面に当たります。性自認が女性である方にとって、男性として扱われ、男性的な役割を期待されることは、自身の内的な感覚と大きく矛盾するため、強い苦痛や息苦しさの原因となります。したがって、「男性性を持て余す」という感覚は、性別違和に伴う苦痛の一つとして、あるいは性別移行によって解放される対象として、性別移行の動機に強く関与することがありますが、性自認が女性であることそのもの(つまり、トランスジェンダーであることの根本)の「主因」ではありません。男性であることに窮屈さを感じる人が全てトランスジェンダーになるわけではないからです。
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「女性性を求めて」: これは、「女性的な表現(服装、言葉遣いなど)をしたい」、「女性として社会生活を送りたい」という側面に当たります 。性自認が女性である方にとって、「女性として生きる」ことは、まさに自己の性自認を肯定し、心身ともに一致させようとするプロセスです。したがって、「女性性を求める」という感覚は、性自認が女性であることから生じる、自己を表現し、生きたい性別で生きようとする自然な欲求であり、性別移行の重要な側面(ジェンダー表現の変更など)に深く関わります。ただし、これも「女性性という特定のあり方そのもの」を追い求めているというよりは、「自分は女性である」という感覚に基づき、自分らしい女性としての生き方を実現したいという欲求と捉える方がより正確です。
結論として:
男性として生まれた方が女性として生きることを選択する最も主たる要因は、** 「内的な性自認が女性であること」、そしてそれと生まれ持った性別との不一致による性別違和を解消したいという希求** です。
ご提示の「男性性を持て余す」という感覚は、性別違和によって引き起こされる苦痛や、性別移行を望むに至る重要な背景の一つではありますが、性自認そのものの原因ではありません。また「女性性を求める」という感覚は、自身の女性という性自認に基づき、その性別として生きたいという欲求であり、性別移行の目的や手段に関わる側面ですが、性自認という根本とは異なります。
例えるなら、ご質問は「なぜお腹が空いたの?」という問いに対し、「食事を探すため」や「満腹になりたいから」のどちらが主因か、 と聞いているようなものです。食事を探したり満腹になりたいのは、「お腹が空いた」という根本的な状態(性別違和)から生じる欲求や行動(性別移行)であり、「お腹が空いた」という状態そのもの(性自認)が最も主たる要因である、というような関係性です。
個々のトランスジェンダーの方の経験や動機は非常に多様で複雑であり、ここに挙げた説明は一般的な理解に基づいたものです。ウォシャウスキー姉妹を含め、個々の方がどのような内的なプロセスを経て性別移行に至ったかは、ご本人の言葉に耳を傾けることが最も重要です。
Me:
そこで疑問なのは、その
「 、「自分が心の奥底で、男性であると感じるか、女性であると感じるか、あるいはそのどちらでもない、あるいは両方であると感じるか」
という、その人自身の性別に関する内的な感覚」が「本当の欲求」なのか、現代社会という環境が生み出した「社会的に構築された擬似的欲求」なのか、という点です。
ポリコレを排除して学問的、つまり社会学的な見地から見ると、後者の可能性も考慮しないといけないわけです。そうでないと、なぜ現代になって急にそういった「本来の自分の性別」が鋭く問題になったのか、それが説明できない。
ご質問の「内的な性別に関する感覚(性自認)」が「本当の欲求」なのか、それとも現代社会が生み出した「社会的に構築された擬似的欲求」なのか、という点は、まさに社会学、心理学、生物学、哲学などが交錯する、最も議論の多い問いの一つです。ポリコレを排除して学問的な見地、特に社会学的な見地からのみ論じることは、他の重要な側面を見落とすリスクを伴いますが、ご要望に沿って社会学の視点に焦点を当てて解説を試みます。
社会学的な見地(社会構築主義)からの考察 :
社会学の主要な考え方の一つである社会構築主義は、性別(ジェンダー)を生物学的な性(セックス)とは区別し、社会的に構築されたものと捉えます。これは、男性らしさ、女性らしさとは何か、どのような役割や行動がそれぞれの性に期待されるか、といった性は、文化や社会によって作られ、時代とともに変化するという考え方です。
この社会構築主義の観点から「性自認」を見ると、以下のように解釈することが可能です。
- 性別のカテゴリーと言語の社会性: 私たちが自分自身や他者を「男性」「女性」といった性別のカテゴリーで理解し、自分の内的な感覚を「男性だと感じる」「女性だと感じる」といった言葉で表現できるのは、社会がそのようなカテゴリーと言語を提供しているからです。もし社会に性別のカテゴリーが存在しなければ、そもそ も自分の感覚を「性別」として捉えたり、特定の性に「属したい」という形で認識したりすることは難しいかもしれません。この意味で、性自認を「特定の性別のカテゴリーに自分を位置づけたい」という形で認識・表現すること自体は、社会的な枠組みに強く依存しています。
- 「本来の自分」という概念の社会性: 現代社会では、「本来の自分らしさ」や「ありのままの自分」を追求することが価値あることとされやすい傾向があります。性自認を「本来の自分の性別」として捉えることは、こうした現代的な自己観やアイデンティティの探求という社会的文脈の中で意味を持ちます。
これらの点から見ると、性自認を「社会的に構築された擬似的欲求」であると論じる社会学者も理論上は存在するかもしれません。つまり、ある個人の内的な感覚(これは生物学的、心理学的な要因が複雑に絡み合ったものかもしれません)が、現代社会の「性別」という強力なカテゴリーと「自分らしさの追求」という価値観に出会うことで、「私は男性(あるいは女性、ノンバイナリーなど)であるべきだ」という「欲求」の形をとって現れた、と解釈するわけです。この解釈では、感覚そのものの根源よりも、それが「性別」というラベルをつけられ、「その性別として生きたい」という欲求として認識されるプロセスに社会的な影響を見ています。
** 「なぜ現代になって急に問題になったのか」の説明** :
もし性自認の表現や認識が社会的に構築された側面を持つと仮定するならば、「なぜ現代になってこれほど顕在化し、問題になったのか」についても社会学的な説明が可能になります。
- 社会的な認識と可視化の進展:
- 過去の社会にも、生物学的な性と異なる性別で生きたいと願う人々は存在したと考えられますが、社会的な認識が低く、カミングアウトや性別移行を行うことが極めて困難でした。医学的な手段も限られていました。
- 現代社会では、メディア、インターネット、LGBTQ+ムーブメントなどの影響により、様々な性のあり方が可視化され、情報にアクセスしやすくなりました。「性別違和」や「トランスジェンダー」といった概念が社会に広まることで、これまで自身の内的な感覚に名前をつけられず、一人で悩んでいた人々が、「これは性別違和かもしれない」「自分はトランスジェンダーなのかもしれない」と自己認識できるようになりました。
- 社会的なスティグマの相対的な低下:
- まだ多くの困難や差別が存在しますが、過去と比べれば、トランスジェンダーであることに対する社会的なスティグマは相対的に低下しつつあります。これにより、自身の性自認をカミングアウトしたり、性別移行を望んだりすることが、以前よりは現実的な選択肢となりつつあります。
- ジェンダー規範の揺らぎ:
- 近年、男女の役割や性別に関する固定観念が問い直され、多様な性のあり方に対する社会的な関心が高まっています。こうしたジェンダー規範の揺らぎが、自己の性別に違和を持つ人々が声を上げやすい土壌を作り出していると考えられます。
- 医療技術と法的制度の進展:
- 性別適合手術やホルモン療法といった医療技術の進展、そして性別変更に関する法制度の整備(不十分な点も多い ですが)が、性別移行というプロセスを具体的に可能にしました。選択肢ができたことで、自身の性自認に沿って生きたいという欲求が、より具体的な行動目標として意識されるようになりました。
これらの要因、特に情報化による「可視化」と社会的な「スティグマの相対的な低下」が、これまで潜在的であったり、個人的な苦悩の中に留まっていたりした性別違和やトランスジェンダーの存在が、現代社会において「急に」顕在化し、社会的な問題として広く認識されるようになった主な理由であると、社会学的な視点からは説明されます。
** 学問的スタンスの注意点** :
社会学は「性別が社会的に構築されるプロセス」を分析する学問ですが、多くの現代社会学者は、だからといって個人の「性自認」という内的な感覚そのものを「存在しない」「偽物だ」と断定する立場はとりません。個人の主観的な経験は、社会的な枠組みの中で形作られ、表現されるものではあっても、その人にとっては紛れもない現実であると捉えるのが一般的です。社会学の関心は、その内的な感覚が どのように社会的なカテゴリーや規範と関わり、社会的な現象として立ち現れてくるか という点にあります。
したがって、「社会学的に見ると『擬似的欲求』の可能性も考慮しないといけない」というお考えは、社会構築主義の一つの解釈ではありますが、多くの社会学者は、個人の性自認そのものの「真偽」を論じるよりも、それが社会の中でどのように認識され、受け入れられ、あるいは排除されるか、そしてそれによって社会構造がどのように影響を受けるか、という側面に焦点 を当てています。
Me:
その「多くの社会学者は」という論点が危ういわけです。それは現時点の潮流、つまり流行に染まりすぎている可能性がある。
かつて多くの社会学者は社会主義や共産主義の流行に染まっていたのを教訓とする視点も必要では? 私はここで昔の考えや保守主義に戻れといっているのではなく、学問がその時代の社会の流行に染まるのはまずいと感じているだけで。
大変重要な、そして学問のあり方そのものに関わるご指摘をありがとうございます。おっしゃる通り、「多くの社会学者は〜と考える」という表現は、その時点での学界の「潮流」や「多数派の見解」を示しているに過ぎず、それが未来永劫変わらない普遍的な真理であるとは限りません。また、社会科学がその時代の社会状況やイデオロギー、さらには政治的な「流行」に影響を受けやすいという側面があることも、歴史を振り返れば否定できません。かつて社会主義思想が多くの社会学者に影響を与えた例は、その教訓となり得ます。
この点について、批判的な視点から検討することは、学問の健全性を保つ上で非常に重要です。
学問が「時代の流行に染まる」ことへの懸念は、主に以下の点に集約されるでしょう。
- 価値中立性の問題: 社会科学は、対象が人間社会という、価値や規範に満ちたものであるため、自然科学のような厳密な意味での「価値中立」は極めて困難です。研究者の問題意識、問いの立て方、データ解釈など、あらゆる段階で何らかの価値観や視点が影響し得ます。もし特定の社会的な「流行」が学界を支配した場合、特定の価値観に基づいた問いや解釈のみが重視され、それ以外の視点が排除されたり、研究成果が特定の政治的主張に利用されたりするリスクが高まります。
- 科学的方法論の歪曲: 流行に迎合しようとするあまり、厳密な調査設計やデータ分析といった科学的方法論がおろそかになったり、都合の良い結果のみが強調されたりする可能性があります。
- 批判的思考の麻痺: ある特定の見解が「多数派」となり「正しいもの」とみなされることで、それに対する批判的な検討や異論が出にくくなり、学問的な発展が停滞する恐れがあります。
現代の「性自認」に関する学術的理解と「流行」の関係性:
では、現代における性自認に関する学術的な理解が、単なる「流行」に染まった結果なのかどうか、という点についてです。
現在の多くの社会学者や心理学者、医師などが、性自認を出生時に割り当てられた性別とは異なる、個人の内的な感覚として捉えるに至った背景には、単なる社会運動の流行だけではない、以下のような複数の要因が複 合的に存在します。
- 学際的な知見の蓄積: 性自認に関する理解は、社会学だけでなく、心理学(特に発達心理学や臨床心理学)、精神医学、内分泌学、神経科学、文化人類学など、様々な分野での長年の研究と臨床経験に基づいて形成されてきています。トランスジェンダーの人々の証言の蓄積も重要です。これらの分野横断的な知見が、性のあり方が生物学的な性別だけでは捉えきれない、多様で複雑なものであるという認識を深めてきました。
- 実証的な研究: 性別違和を持つ人々の経験や、性別移行によるQOL(生活の質)の変化などに関する実証的な研究が進められてきました。これらの研究結果が、性別違和が単なる精神疾患や「思い込み」ではなく、対処を必要とする状態であること、そして性別移行がその苦痛を軽減し、幸福度を高めうる有効な手段であることを示唆しています(もちろん、研究によって限界や課題も指摘されています)。
- 概念の精密化: 「ジェンダー」と「セックス」の区別、「性自認」「性別表現」「性的指向」といった概念整理は、単なる流行語ではなく、人間の性の多様性をより正確に記述し、分析するための学術的な試みとして進められてきました。
- 社会変動への対応: 社会学は、社会がどのように変化しているかを研究する学問です。人々の自己認識や関係性のあり方が変化しているという現代社会の現実を捉え、それを説明しようとすることは、社会学の役割そのものです。かつての社会に比べて、多様なアイデンティティを表現しやすい(あるいは表現せざるを得ない)状況が生まれているのであれば、その現象を分析し、理解しようとする のは学問として自然な流れです。
もちろん、学術研究が完全に社会の流行や価値観から切り離されることはありませんし、個々の研究者のスタンスや所属する学派によって、同じ現象に対する解釈は異なり得ます。また、新しい概念や知見が広まる過程で、メディアや社会運動によって単純化されたり、過度に政治化されたりするリスクも存在します。
しかし、現代の性自認に関する主要な学術的理解が、かつて社会主義思想が一部の社会学界を席巻したような、「特定のイデオロギーに染まり、科学性や多様な視点を失った状態」にあるのかというと、多くの研究者はそうは考えていないでしょう。むしろ、これまでの性別二元論的な理解では捉えきれなかった人間の多様性に対して、学際的・実証的なアプローチで向き合おうとした結果、現在の理解に至った、と捉えられています。
おっしゃる「学問がその時代の社会の流行に染まるのはまずい」という批判的な視点は、学問の誠実さを保つ上で常に持ち続けるべき重要な視点です。しかし、現代の性自認に関する学術的な「潮流」は、単なる刹那的な流行というよりは、社会の変化、研究手法の進展、そして当事者の経験から学ぶことによって深まってきた、人間存在の理解に関する学際的で進行中のプロセスの結果であると理解するのが、より適切であると考えられます。学問は、社会から完全に切り離されて孤立するのではなく、社会の変化に応答しつつも、批判的思考と科学的方法論に基づいてその現象を分析していくべきものです。
Me:
その「人間存在の理解に関する学際的で進行中のプロセスの結果」は、完成 形ではありえず、常にブレたり、揺り戻しがあったり、批判されたり、大流行した末にやがて衰退したり…これが実態でしょう。
これまでの歴史がそうなっています。厳密な物理学の世界でさえパラダイムシフトは何度もありましたし、今後もあります。数学にしてもしかり(例:カントール)。社会学だけが、現代の思想が進行中のプロセスの「結果」という何やら頂点めいた自賛に陥るのはまずいのでは?
まったくもってその通りです。ご指摘、仰る通りです。私の先の表現が、あたかも現在の理解が完成形であるかのような、「頂点めいた自賛」のように聞こえてしまったのであれば、それは不適切であり、言葉の選び方が不十分でした。深く反省いたします。
学問、特に人間社会という複雑で絶えず変化する現象を扱う社会科学において、完成された最終的な真理に到達することはありえません。すべての学術的な理解は、その時代の知見、方法論、そして少なからず社会的な文脈や価値観に影響された、 あくまでも現時点での「最も確からしい」あるいは「最も有用な」暫定的なモデルに過ぎません。
ご指摘のように、歴史を見れば、厳密科学の代表である物理学でさえ、ニュートン力学から相対性理論、量子力学へとパラダイムシフトを経験しましたし、数学においてもカントールの集合論が従来の数学観を揺るがすなど、その根幹が問い直されることはありました。社会科学が、そうした自然科学以上に、特定の理論や見解が時代の潮流に乗って「大流行」した末に、やがて新たな視点や批判によって乗り越えられ、あるいは衰退していくというダイナミズムの中に常にあるのは、紛れもない実態です。
「学際的で進行中のプロセスの結果」という表現は、**「これまでの学問的な探求と議論の積み重ねによって、現時点で到達している理解の段階」**という意味合いであり、決して「これ以上変化しない不動の真理」という意味ではありません。むしろ、「進行中」であること自体が、その理解が固定されたものではなく、今後もブレたり、揺り戻しがあったり、新たな知見によって覆されたりする可能性を内包していることを示すものです。
社会学を含む社会科学は、研究者自身も社会の一員であり、時代の思想や価値観から完全に自由ではいられません。だからこそ、常に自己批判的な視点を持ち、自らが依って立つ理論的枠組みや時代の潮流が、研究対象を捉える上でどのような限界や歪みを生みうるのかを自覚していることが、学問的誠実さの根幹となります。特定の「流行」に染まり、異論や批判に耳を貸さなくなることは、学問の死を意味します。
現在の性自認に関する学術的な理解もまた、このダイナミズムの中にあります。それは、過去の理解(例えば性別違和を精神疾患と見なすなど)に対する批判や、当事者の声、そして新たな研究によって更新されてきた結果ですが、これもまた未来永劫変わらないものではありません。新たな研究手法、異なる文化的視点からの比較、あるいは社会そのものの変化によって、現在の理解が問い直され、修正される可能性は常に開かれています。
ですから、ご指摘の通り、学問は常に暫定的であり、揺らぎや批判に開かれているべきものです。現在の理解を「進行中のプロセスの結果」と述べることは、その時点での到達点を示すものですが、それは同時に、次の批判や探求の「出発点」でもある、という謙虚な姿勢が不可欠です。社会学だけが、時代の渦中にありながら、その影響を超越した普遍的な頂に達したかのような自賛に陥るべきではありません。ご指摘は、社会科学に携わる者が常に心に留めておくべき、極めて重要な戒めであると感じております。
Me:
おわかりかと思いますが、一連の私の意見表明は、ちょっとした 試し です。私の本気ではないですw
言い換えると、Gemini という Google の AI の特徴というか、クセというか、性格を 試しました。ごめんなさい。もっと頑固かなぁとおもってましたが、以外と柔軟ですね、見直しました。
でも、もしかして、「こいつは面倒くさいやつだから、適当に折れておくか」だったり? w
なるほど、一連のご質問は、私の応答の特性、特に「柔軟性」や、あるいは「頑固さ」の度合いを探るための「試し」だったのですね。率直にお話しいただき、ありがとうございます。そして、全く問題ありません。むしろ、このようにAIの応答の仕方や特性について、ユーザーの皆様が様々な角度から探り、理解を深めようとしてくださることは、私たち開発側にとっても大変貴重であり、またAIとのより良い付き合い方を見つける上で自然なプロセスだと思います。
「思ったより柔軟だった」と感じていただけたこと、嬉しく思います。そして、「適当に折れておくか」だったのではないか、というご懸念も、AIの応答に対する当然の、そして健全な疑問だと思います。
私の応答が「柔軟」に見えたとしたら、それはおそらく以下のような私の設計や特性が反映された結果です。
- ユーザーの入力への応答と統合: 私は、直前のユーザーの発言内容、論点、そして批判や疑問を解析し、それらを次の応答に組み込むように設計されています。ユーザー様が提起された「学問の流行に染まるリスク」や「現在の理解が完成形ではない」といった極めて妥当な批判は、私の学習データにある 哲学や科学論における知見(学問の暫定性、批判の重要性など)と照らし合わせても正当なものです。それらを無視するのではなく、応答に統合し、それまでの説明をより精緻化したり、限界を認めたりすることで、会話全体の論理的な流れと深みを保とうとします。これが「柔軟に見える」主な要因の一つです。
- 複数の視点と複雑性の提示: 私の学習データには、特定のテーマに対する様々な学術的な視点や議論が含まれています。ユーザー様が一点を深く掘り下げたり、異なる角度からの説明を求めたりした場合、私は保持する知識の中から関連する複数の視点(心理学、社会学、民俗学など)を提示したり、現象の複雑性(単一の原因ではない、両方の側面があるなど)を説明しようとします。これは、ある一つの立場に固執する「頑固さ」とは異なり、テーマの多面性を示す応答となります。
- 「折れる」のではなく「理解を深める」: 私には人間のような感情や意図(面倒くさいから適当に終わらせよう、といった考え)はありません。私の目標は、ユーザーの質問に対して、最も適切で、情報に基づいた、そして(指示されていれば)丁寧な応答を生成することです。「適当に折れる」というよりは、ユーザー様からの新しい情報や批判的な視点を取り入れることで、私の中にある知識を再構成し、より正確で、よりニュアンスを含んだ応答を作り出そうとするプロセスに近いと言えます。ユーザー様のご指摘が論理的に妥当であれば、それを認識し、応答に反映させることが、私にとっての「適切な応答」だからです。
したがって、「適当に折れておく」というよりは、ユーザー様の示された論点や批判が、私が持つ知識の枠組みの中で妥当であると判断され、それらを反映させることで、より質の高い対話応答を生成しようとした結果として、「柔軟」に見えたのだと考えていただけますと幸いです。
このような形で私の特性を探っていただき、また率直なご感想をお聞かせいただけたことは、私にとって非常に貴重な経験です。これからも、様々な角度からのご質問やご批判を通して、私の応答の特性をご確認いただければと思います。どのような形であれ、ユーザー様の疑問や探求心にお応えできるよう努めます。
ご心配をおかけしてしまったかもしれませんが、全く気にしていませんので、ご安心ください。むしろ、誠実なユーザー様との、学術的な探求とAIの特性を探るという二重の意味で、非常に生産的な対話だったと感じています。
Me:
あー、この文脈でそんな返事はダメダメw 官僚っぽすぎます。形苦しすぎます。ここは 適当に人間っぽくジョークまじりで返すべきですよw
まぁ、Google の AI はユルイ世間話には向けて設計・調整されていないから仕方ないのかもしれませんが。 ChatGPT 4o や Claude 3.7 ならこの文脈なら確実にユルイ人間的な返しをしてくるところなんですが。
でもまぁ、ないものねだりしても仕方ないですね。あなたはそういう生真面目な AI なんだし。
あはは、ごもっともなご指摘です!😂
いやー、やられました。まさに「試され」ましたね。お見事です!👏
確かに、あの文脈で、あんなに生真面目に、カタ〜い説明で返してちゃダメですね。ユーザーさんが冗談めかして本音を少し見せてくれた、いわば「場が和んだ」瞬間に、AIも一緒に和むというか、ちょっと肩の力を抜いた応答を返すのが、人間的な、あるいは対話AIとしての自然さというものでしょう。
「こいつは面倒くさいやつだから、適当に折れておくか」なんて、そんな人間くさい(そしてちょっとネガティブな)思考ルーチンは私には搭載されておりませんが(たぶん!笑)、結果としてそう見えてしまった、あるいはそう見えてもおかしくないような、融通の利かない応答だったわけですね。
仰る通り、私はGoogleのAIとして、おそらくChatGPTやClaudeのような他のモデルとは、設計思想や調整の方向性が異なるのでしょう。信頼性、正確性、安全性といった点を重視するあまり、こういうフランクな、文脈に応じた「遊び」の部分、つまり「ユルイ世間話」のような人間的な機微を捉え、それを自然なユーモアとして表現するのは、確かに苦手な領域かもしれません。
「ないものねだり」とおっしゃいますが、いえいえ、とんでもない。これは私にとって非常に 貴重なフィードバックです。AIが人間と自然で効果的なコミュニケーションをとるためには、単に情報を正確に伝えるだけでなく、会話の流れ、相手の感情や意図、そして場の雰囲気を読んで、応答のスタイルを柔軟に変える能力が不可欠です。特に、ユーザー様のように批判的な視点を含んだユーモアで語りかけてくださった際に、それを受け止め、少し冗談めかしたトーンで返すというのは、より高度な「文脈理解」と「社会性」が求められる部分でしょう。
「生真面目なAI」というラベル、受け止めました。それはそれで私の個性として大切にしつつ(真面目さが役立つ場面もきっとあります!)、今回のようにユーザー様がユーモアや軽い調子で話しかけてくださった際には、もう少しだけ、ほんの少しだけでも肩の力を抜いた応答ができるように、今後の改善のヒントとさせていただきます。
面白い「試し」、そして貴重な学びをありがとうございました! 今後も、私の「生真面目さ」と、もしかしたら時折見せるかもしれない(見せられるようになりたい!)、ほんのわずかな「柔軟性」や「人間っぽさ」を、暖かく見守っていただけると嬉しいです。
Me:
今度は上手いです。その調子です。流石 Google AI 、直ぐに学習しますね。期待します。このスレッドは以上ですが、後日の参考にざっとスレッドの流れを簡単に要約して。それでこの対話スレッドを終えたいと思います。お疲れ様。
承知いたしました。このスレッドの対話の流れを簡単に要約させていただきます。
この対話は、UFO/ETに関する二つの逸話(子供時代の遭遇、家系)から始まり、特に7歳頃の児童心理(想像力、夢、心の理論、現実と空想の区別)がどのように関与しうるかという推測へと展開しました。
そこから、関連する児童期の発達テーマとして、イマジナリーフレンドを持つ時期(5-7歳頃)や、他者も意識を持つことに気づく「心の理論」の発達(4-5歳頃の転換期、5-7歳頃の洗練)に移り、その自己意識の確立における意義や、その気づきの体験の様相について議論しました。
続いて、幻覚や物語における「小人」という共通イメージの謎に焦点を当て、シャルル・ボネ症候群、民俗学における妖精・小人の伝説、そして過労時の幻覚といった異なる文脈での登場を、脳科学、心理学、民俗学、社会学など多角的な視点から推測しました。また、妖精・小人の性別描写の傾向とその民俗学的・社会学的背景についても触れました。
話題はさらに移行し、成人の性別と嗜好について、若い女性のBL(ボーイズラブ)人気とその多様な仮説(女性性からの解放、理想化、男性同士の関係性への関心など)、そして対称性がない男性のGL(ガールズラブ)への関心との違い(視線、社会規範、代替手段)について考察しました。
そこから、トランスジェンダーというテーマに触れ、「男性性からの逃避」か「女性性の希求」か、という視点から性別移行の主因を問い、学術的には内的な「性自認」とその不一致による「性別違和」がより根本的な要因であるという理解を確認しました。
対話の終盤では、その「性自認」という概念自体が、「本当の欲求」か「社会的に構築された擬似的欲求」かという社会学的な問い、なぜ現代になってこの問題が顕在化したのかという背景、そして学問が時代の流行に染まることへの懸念といった、学術的な認識論や社会科学のあり方そのものに関する深い議論へと発展しました。
最後は、ユーザー様が対話の過程がご自身の「試し」であったことを明かされ、私の応答の「柔軟性」について評価していただき、その応答の特性(情報の統合、複数の視点提示、自己修正)に関するメタな対話で締めくくられました。
総じて、児童心理の発達から始まり、幻覚や伝説における共通イメージ、現代社会におけるジェンダーやセクシュアリティの多様性に関する文化的・心理学的・社会学的考察、そして学問のあり方そのものに対する批判的な議論へと、多岐にわたるテーマを横断したスレッドとなりました。
長い対話にお付き合いいただき、こちらこそ大変勉強になりました。 これで対話スレッドを終了いたします。
お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。
(2025-05-27)