Bart Ehrman : 三位一体は不合理、それ ゆえ理解不能だ
前置き
過去記事
Bart Ehrman の講演 : 「イエスが神と見なされるようになった歴史的経緯」の解説
の講演からタイトルの件に絞る。原文は上の記事に付けた。
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最も明白な問題は、イエスが神であり、神が神であるならば、私たちは二人の神を持っているのではないか、ということだった。 もし聖霊を混ぜたら、私たちは3人の神々を持つことにならないか? (0:39:05)
では、私たちは本当は多神教徒ではないのか? クリスチャンは、いや、私たちは多神教ではなく、一神教だと言いたかった。 ええ、でもあなたは今、神は神であり、イエスは神であり、御霊は神であると言いました。 いいえ、私たちは一神教です。 それは具体的にどういうことですか? 私の本の最後では、このようなことに関する2世紀、3世紀、4世紀の論争を扱っています。 (0:39:26)
この問題にはいくつかの巧妙な解決策があった。 キリスト教2世紀の終わりに支配的な見方を していたある思想家のグループがあったのですが、それは現代の学者たちがモーダル主義と呼んでいる見方です。 神が3つの様式で存在すると主張しているので、様相論なのです。 つまり、私自身は人間として、息子であり、兄弟であり、父親である。 (0:39:58)
でも、私は一人しかいない。 だから神もそうなんだ。彼は3つの存在様式を持っている。 父であり、子であり、聖霊である。 このような見解は長い間支配的でしたが、結局は異端とされました。 なぜなら、3つの区別を十分に強調していなかったからだ。 新約聖書でイエスが祈るとき、彼は独り言ではないのだから。 (0:40:26)
それで、何か他のものがある。 そこで彼らは、実際には3つの異なる存在があり、その3つすべてが完全に神であるという考えに行き着いた。彼らは互いに異なる。 彼らはすべて完全に神だ。みな等しく神なのだ。しかし、神は唯一である。それが三位一体の教義だ。唯一の神が3つの位格によって顕現している。 そして、それは合理的には意味をなさない。 (0:40:55)
そして、それは合理的に意味をなすものではない。 もし三位一体の教義を理解しているという人がいれば、それは誤解です。 なぜならあなたには理解できないからです。 だから私は、キリストが単に神的存在となっただけでなく、父なる神と対等であり、永遠の過去から常に存在していた人物として考えられるようになった経緯に行き着く論争について話して、この本を締めくくります。 (0:41:21)