Skip to main content

Bart Ehrman の講演 : 「イエスが神と見なされるようになった歴史的経緯」の解説

· 157 min read

前置き

Bart Ehrman(聖書学者:無神論者 かつ 不可知論者)の講演。Bart Ehrman については過去記事で何度か取り上げた(*1)。

この講演の本題は彼の著書、

20241231_book.jpg

Bart Ehrman, "How Jesus Became God : the Exaltation of a Jewish Preacher from Galilee", HarperOne, 2015-01-01

の内容の概説になっている。

後に別記事(発言をそのまま引用する予定)で使うために、文字起こし+和訳 を添付した。

(*1)

Bart Ehrman : 若い頃は熱心なキリスト教信者だった。今は神も聖書も信じない。 (2019-01-01)

Richard Carrier 博士 : Bart Ehrman 博士からの批判を論駁 (2020-02-21)

Bart D. Ehrman : もっとも有名なイエスの逸話(罪のないものだけが石を投げよ)は後世の作り話。 (2018-12-28)

Bart D. Ehrman : 200万部売れた、1998年に終末が訪れると予告した聖書解説本の論拠 (途中:その1) (2018-12-28)

Bart D. Ehrman : 古代人は「神は人間になりうるし、人間も神になれる」と本気で信じていた。 (2018-12-26)

Bart D. Ehrman : イエスが磔になった理由は、「私はイスラエルの王だ」と弟子たちに教えていたためだ。 (2018-12-25)

Bart D. Ehrman : イエスは自分を神だとは考えず、神だとも主張しなかった。 (2018-12-25)

フィリップ・K・ディックの神秘体験とその検証 (+追加) (2018-08-04)

Bart Ehrman : イエスの遺体は磔のまま放置されて腐敗し、後に野犬などに食い尽くされた。それが「イエスの遺骸が墓から消えた」という伝承話になった。 (2019-01-03)

講演動画(1:06:51)

Bart Ehrman Freedom From Religion Foundation Lecture

www.youtube.com/watch?v=sAsQULGs1kU

動画概要欄

182,900 views 2014/08/13 Here's Bart Ehrman's Freedom From Religion Foundation Lecture in Raleigh, NC in 2014. At the end I included a short interview I did with him for the "Openly Secular" Campaign by RDF and FFRF. I only had ten minutes for the interview so didn't have time to discuss his work more broadly, but hope to in the future.

Directed by Scott Burdick, author of “Nihala”

FasterWhisper AI(large-v2 model) + DeepL(2024-07 model)

▼和訳 展開

司会者:

聖書は誰も読まないベストセラーだ。 ホテルの部屋にも、そこらじゅうにある。 私のような数少ない人々は、私が説教者であったとき、聖句を選んで説教していた。 そうではなかった。私は聖書を説いていた。聖書から実際に真実であることを教えているつもりだった。少なくともこの国で、聖書に何が書かれているかだけでなく、どのようにして著者が考えたことが書かれるようになったのかについて、私たちが知るべきことを、実際の聖書リテラシーを高めるためにこれほど尽力した人はいないと思います。 (0:00:40)

バート・エルマンほど、それを成し遂げた人はいない。バート・エルマンの本を少なくとも一冊読んだことのある人はどれくらいいるだろうか? それを見てほしい。まあ、後ろにもっとありますよ。 彼の新しい本があるんだ。 バート・エルマンはここノースカロライナ州にいる。チャペルヒルのノースカロライナ大学で教えている。チャペルヒルの人たちだ。 (0:01:01)

宗教学部のジェームズ・A・グレイ教授です。彼はよりによってウィートン・カレッジの卒業生だ。 ホイートン・カレッジにはビリー・グラハムのアーカイブがある。 ウィートン・カレッジは、批判的な聖書学の砦である。 バートは、福音主義的な真の聖書信者から、真の聖書教師へとどのように見解を変えたのか、少し話してくれるだろう。 (0:01:31)

というわけで、彼が著書で多大な影響を与えたという事実を踏まえて、私のお気に入りは『Misquoting Jesus』と『Forged』です。私は聖職者として聖書について多くのことを知っていると思っていました。 でも、聖書について自分がいかに何も知らなかったかを思い知らされた。そして彼の最新作『イエスはいかにして神になったか』だ。これらの本のコピーは後ろにあります。 (0:01:57)

残りわずかです。 たぶん30冊くらいしかないと思います。 その後、エルマン博士が何冊かの本にサインをします。 しかし、宗教について率直に語る公人として、この国における真の教育、真の聖書リテラシー、そして真の宗教リテラシーに向けて彼が行った多大な貢献という事実を鑑み、私たち宗教からの自由財団はバート・エルマンに「Emperor Has No Clothes Award」を授与します。今日、実際の皇帝はいない。 (0:02:30)

天皇に服はない。 この像がアカデミー賞と同じ会社によって作られていることは先に述べた。この像は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの、ありのままを語った少年の物語に基づいている。 皇帝は服を着ていなかった。 バート・エルマン、ここに来て受け取ってくれ。 ご一緒できて光栄です。 これは私にとって珍しい経験です。 (0:03:09)


Bart Ehrman:

私は普段、無神論者、無宗教者、懐疑論者のグループに講演を頼まれることはない。 私は多くのクリスチャンに話をするように頼まれます。だから、これはとても嬉しい。 とても楽しめそうだ。 去年は面白い講演がたくさんあったからね。 (0:03:30)


一ヶ月ほど前、ノーザンアラバマ大学で公開討論会をするように頼まれました。それまで北アラバマには行ったことがなかったんです。 帰ってきて、妻のサラに、私たちはバイブルベルトに住んでいるんじゃない。バイブルベルトに行きたければ、北アラバマに行きなさい。それで、私たちはこの討論会をすることになった。 テーマは、苦しみの問題は神の存在を疑うべきかどうかというものだった。私はクリスチャンの弁証主義者と討論した。 (0:04:15)

キリスト教原理主義者の弁明者だ。 このような討論をするたびに、私は討論の最中に自分自身にメモを書き始める。 なんで俺はここにいるんだ? 彼はとても明晰だった。 彼は多くのことを知っていた。 私が何を言おうとしているのか、彼は正確に理解していた。 私のセリフもわかっていた。 (0:04:42)

私は彼が誰なのか全く知らなかった。 私の主張は、実際、苦しみの問題は、神を信じる人々に問題を引き起こすということだ。そして問題を引き起こし、神の存在に疑問を投げかけるべきだということだ。彼の主張は、私はバカだというものだった。 それで、私は1200人の観衆の前で話を始めた。 アラバマ州北部の大きな教会はキリスト教会です。キリスト教会をご存じかどうかわかりませんが、南部のある地域では大きな教会です。 (0:05:24)

特にアラバマ、テキサスの一部だと思います。キリスト教会の中には、かなり原理主義的な志向を持つところもあります。 だから、私はまず、1200人がいるこの大きな講堂でプレゼンテーションを始めました。 ここにいる何人の人がキリスト教会と関係がありますか? ドーン!会場全体が手を挙げた。

(0:05:48)

私が感じたのは、まあ、言わせてもらえば、彼らは寛大な人たちで、私に親切で、いい人たちで、実際に拍手をしてくれて、私のジョークに少し笑ってくれた。 つまり、良かったんだ。 私の感覚では、あの聴衆のような人々にとって、憲法が保証する信教の自由とは、自分の宗教を実践する自由である。 しかし同時に、彼らの多くにとっては、自分たちの宗教観を他の人々に押し付ける自由でもあるのだ。 (0:06:26)

私の考えでは、宗教からの自由は必ずしも宗教に反対することを意味しない。 それが、私がここで皆さんとお話しするテーマのひとつです。 宗教からの自由とは、他人の宗教を押し付けることに反対することです。 私たちの公的機関、公的空間、公的学校、公的オフィス、公的法律においてです。 宗教に反対することと、宗教を押し付けることの違いを強調します。不可知論者の宗教学教授である私にとって、それは実に重要な違いだからです。 (0:07:13)

実際、私はほとんどの種類の宗教に反対しているわけではない。 (0:07:19)


私が反対しているのは、他人の宗教が、公の場でも私的な場でも、私の生き方に影響を及ぼすべきだという考えです。 宗教の不可知論者であることはとても興味深い。 今回の講演では、私が不可知論者であることの意味を探ってみたいと思います。 まず、私自身が使っているこの言葉、私たちがいつも使っているこの言葉、不可知論者という言葉の意味を説明することから始めたいと思います。 (0:07:56)

というのも、ここ1年半くらいの間に、不可知論という言葉は以前考えていたこととは違う意味だと思うようになったからです。 私が不可知論者になる前に考えていたことは、不可知論者と無神論者は同じものの2つの程度だということでした。 そして、私が最初に不可知論者であることを宣言したとき、不可知論者と無神論者の両方が、自分たちの用語についていかに過激であるかに驚きました。 (0:08:24)

私が出会ったすべての不可知論者は、無神論者は単に傲慢な無神論者だと思っていた。 そしてすべての無神論者は、すべての無神論者は単に弱虫な無神論者だと思っていた。 同じことの二度だ。 ある人はただ「知らない」と言い、ある人は「知っている」と認める。 実はこの2つは同じことの2つの程度ではなく、2つの異なる種類のことなのだと私は思うようになった。 (0:08:54)

不可知論は認識論と関係がある。 何を知っているか。 あなたが知っていること。 そして無神論は信念と関係がある。 何を信じるか。 私は実際、自分のことを不可知論者であり無神論者であると考えている。 不可知論者であるのは、もし誰かが私に、宇宙にはもっと大きな力があるのか? と言われたら、そんなこと分かるわけがないと答えます。 だから僕は不可知論者なんだ。 (0:09:31)

誰かが私に、あなたは聖書の神を信じますか? 世界と交流し、世界に介入し、祈りに答えてくれる神を信じますか? 超自然的な神の存在を信じますか? いいえ、信じていません。 だから信じない、だから私は無神論者だ。 でもわからないから不可知論者だ。 そして私は学者なので、信念よりも知識を重視したいのです。 (0:09:57)

だから僕は不可知論者なんだ。 私の仕事で不可知論者というのは本当に珍しい。 私は聖書学の教授です。 聖書文学会という聖書学の教授で構成される学会があります。毎年11月に年次総会があります。聖書文学会にはおそらく6000人の宗教学教授が所属しています。正確な数はわかりません。 (0:10:30)

全国で何らかのレベルで聖書学を教えている人が6000人いるのは間違いないでしょう。 神学校、神学院、大学、カレッジなどなど。 おそらく6,000人はいるだろう。 不可知論者や無神論者は非常に少数派です。 新約聖書を教えているのは、ほとんど全員がクリスチャンです。私が聖書学に興味を持ち始めた頃もそうでした。 (0:11:02)

ダンが、私がビリー・グラハムの母校であるウィートン・カレッジに通っていると言っていた。彼が知っているかどうかわからないが、実際、私にとってそれはリベラリズムへの一歩だった。 (0:11:11)


私はムーディー聖書学院からスタートしました。そこでは、私たちがよく言っていたように、聖書が私たちのミドルネームなのです。 私は筋金入りの原理主義者でした。 ウィートン・カレッジの弱虫原理主義者たちとは違ってね。しかし、いずれにせよ、聖書文献学会で無神論者や無宗教者である私たちは、非常に少数派です。 私が知っている他の不可知論者や無神論者は、幅広い聴衆に訴えようとはしません。 (0:11:49)

それは珍しいことではありません。聖書文献学会のほとんどの人たちは、幅広い読者に訴えようとはしません。 彼らは学者のために本を書くし、教会や何かのために本を書くかもしれない。 しかし、実際に幅広い読者に届けようとする人はほとんどいません。 私は幅広い読者に届けようとしています。 そこで、幅広い読者に届けようとする不可知論者の新約聖書学者とはどのようなものか、少しお話ししたいと思います。 (0:12:12)

私が書く本には3種類あります。 私は大学生向けの教科書を書いています。 新約聖書の教科書は全国で広く使われています。 実際、新約聖書の教科書は2冊あります。また、創世記からヨハネの黙示録までの聖書全体に関する教科書もあります。大学や専門学校の19歳向けに書いた教科書もたくさんあります。 (0:12:45)

私は一般向けの、いわゆる業界本を書いています。 つまり、バーンズ・アンド・ノーブルで買うような本です。 一番最近のものは、私がここで最も時間をかけてお話ししようと思っているもので、『イエスはいかにして神になったか』です。この本は19歳の子供たちのためではなく、基本的には彼らの両親のために書かれています。 (0:13:07)

これが2種類の本です。 一つは大学生向け。もうひとつは一般読者向けです。 もちろん、できるだけ幅広い読者に読んでもらえるように心がけています。 私が書く3つ目の種類の本は、学術的なモノグラフです。 これは、世界で6人しかいない、関心のある人たちのための学術書です。 だから、どの本を書くかは交互にするようにしている。 (0:13:33)

しかし、その3冊のうち2冊は、大学生や大人といった幅広い読者を対象にしています。 読者を不可知論や無神論に改宗させることが私の使命だとは思っていません。 私の本を書く目的は、新約聖書と初期キリスト教に関する知識を一般の人々に教育することです。学者にとっては長い間入手可能であった知識だが、結局のところ、ほとんどの人は知らないのだ。 (0:14:09)

自らをクリスチャンだと思い、日曜学校に通い続けてきたと言われる人々でさえ、聖書について学者が何を言っているのか知らないのだ。ほとんどのクリスチャンの学者は、意外に思うかもしれないが、ほとんどのクリスチャンの学者は、実は聖書の無謬性(むびゅうせい)を信じていない。原理主義者や保守的な福音主義者を除けば、ほとんどの聖書学者は聖書を歴史的観点からアプローチしている。 (0:14:44)

ほとんどの聖書学者は、閉鎖的な原理主義者では全くない。 (0:14:53)


私の同僚や、この分野にいる私の友人のほぼ全員が、信仰を持つクリスチャンである場合、彼らが研究で聖書にアプローチするときは、批判的な観点から行います。 これは、歴史的な知識、つまり、歴史的なイエス、初期キリスト教運動、そして新約聖書について、歴史的な観点から知ることができることを含むものであり、信仰神学的、宗教的、あるいは告白的な観点とは対照的である。 これが聖書の学者がすることであり、原理主義者でない限り、彼らは歴史的にそれをするのです。 (0:15:28)

私自身は、この種の情報、つまり歴史的な情報を、信者でない人であろうと信仰を持つ人であろうと、可能な限り多くの聴衆に届けることに興味がある。 すべての人に届けたいと思っている。 私の教科書や専門書は、ある例外を除いては、信仰を持つ人々や信仰の立場に対して書かれたものだとは思っていません。 (0:16:01)

私は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、あるいは無神論者であろうと、原理主義者とは対立する立場にある。 原理主義者とは何ですか? と聞かれることがある。 原理主義者というのは、楽しくないし、クソすぎるし、精神的なものが足りない。 私は原理主義者を改宗させたい。 私は原理主義者を改宗させ、原理主義者を脱却させたいと思っている。 しかし、それ以外の私の目標は教育であり、改宗ではない。 (0:16:45)

私が初期キリスト教の不可知論的歴史家として、それをどのように行っているかについて、私の最近の著書『イエスはいかにして神になったか』についてお話ししたいと思います。これから20分ほどお話ししたいことの大部分は、数週間前に出たばかりのこの本についてです。 この本は『イエスはいかにして神になったか』というタイトルで、私の考えでは、私の本の中でこれまで扱った中で最大の問題を扱っています。 (0:17:17)

私は本を書くとき、大きな問題を扱うようにしている。ほとんどの人は小さな問題には関心がないからだ。 だから私は大きな問題に興味があり、これは私がこれまで取り組んだ中で最大のものだと思う。 なぜなら、もしイエスが神と宣言されなかったら、彼らは宗教を持たなかっただろうから。 ですから、クリスチャンにとっては、イエスがどのようにして神になったのかが本当に重要なのです。しかし私は、イエスがどのようにして神になったのかというこの問いは、信仰を持つかどうかにかかわらず、私たち全員にとって重要であるべきだと主張したい。 (0:17:45)

そしてここに理由がある。 もしイエスが神であると宣言されなかったら、彼の信奉者たちはユダヤ教の中の一宗派のままであっただろう。ユダヤ教の一派のままだっただろう。 大勢の異邦人を集めることもなかっただろう。 もし彼らが大勢の異邦人を仲間に引き入れなければ、キリスト教があのような速度で何年もかけて成長することはなかっただろう。 (0:18:11)

もしそのような速度で成長しなかったら、4世紀の初めにはかなりの少数派になっていなかっただろう。 4世紀の初めには、キリスト教はローマ帝国の5%程度を占めていた。つまり、300万人というところか。 (0:18:26)


もしそうならなかったら、ローマ皇帝コンスタンティヌスはほとんど間違いなくキリスト教に改宗しなかったでしょう。もしコンスタンティヌスが改宗しなかったら、ローマ国家も改宗しなかったでしょう。 もしローマ帝国がキリスト教に改宗しなかったら、中世もルネサンスも宗教改革も、私たちが知っているような近代もなかったでしょう。 これはかなり大きな問題だ。 イエスが神と宣言されなければ、そのようなことは起こらなかったのですから。 (0:18:55)

ですから、これはイエスが神であるという考えに個人的に傾倒している人たちだけの問題ではありません。私たち全員にとって重要なことだと思います。 少なくとも、西洋文明の歴史に少しでも興味を持つすべての人にとって。 だから、これは大きなことだと思う。 だから、この本では、なぜそのようなことが起こったのかという問題に取り組みたい。

(0:19:18)

ですから、保守的なキリスト教徒にとって、この本の始め方はいささか違和感があります。私は、古代世界における神聖な人物について私たちが知っていることを話すことからこの本を始める。 一部の人々が神だと考えたり、神になったりした人間はイエスだけではありません。私の本では、ギリシアやローマの世界では、神のような存在である人間も存在すると考えられていたことを紹介している。 (0:19:53)

つまり、それは3つの方法のうちの1つだったのです。 時には、私たちよりもはるかに優れた人間がいた。 より力強いか、より知的か、より美しいか、あるいはその3つすべてか。 彼らはとても特別で、人生の終わりに、神々は彼らを取り上げ、彼ら自身を神にして報いた。 (0:20:23)

たとえば、ローマ市の創始者ロムルスにもそういうことがあった。ローマ市の創始者であるロムルスは、その生涯の終わりに、死ぬことなく天界に召され、神になったと考えられている。 彼は強力な神となった。 古代ローマでは、三大神の一柱として崇拝されていた。神格化された後 (0:20:54)

そしてもちろん、ローマ皇帝も後に神になったと考えられている。 つまり、神格化された人間がいるわけだ。 人間が神になる2つ目の方法は、神のような存在が降りてきて、人間を孕ませるというものです。 私が好きなのは、ローマの喜劇作家プラウトゥスの『アンフィトリオン』という本の中の話だ。ほとんどの人はプラウトゥスを読んだことがないだろう。私はプラウトゥスを読んだことがない。というのも、私の兄がプラウトスについて博士論文を書いたからです。兄がプラウトスを好きなら、兄がそんなに良いわけがないと思ったんです。 (0:21:38)

しかし、それは完全に間違っていた。 素晴らしい内容だ。 で、プラウトゥスによると、この『アンフィトリオン』という本の中で、彼はこの物語を再話してるんだ。 (0:21:50)


アンフィトリオンとは、テーベの街の将軍の名前である。アンフィトリオンにはアルクメーナという豪華な妻がいて、彼は妊娠したまま戦争に出かけた。 彼は戦争に行き、アルクメナは家にいる。 神々の王ジュピターはアルクメナを見下ろし、その美しさに目を見張る。 彼女の美しさに驚嘆した。

(0:22:24)

そしてジュピターは、どうやって彼女を手に入れるか考えた。 ジュピターはアンフィトリオンに変装して降りてくる。そしてアルクメーナに戦争から帰ってきたことを告げる。 彼女は両手を広げて彼を歓迎し、ベッドに連れて行く。 ジュピターはそれを大いに楽しみ、真夜中に星座の動きを止めるよう命じた。 つまり、時間を止めるのだ。 そして二人は一晩中、いや永遠にやり合う。 (0:22:53)

木星でさえも満足するまで。そして彼は星座に再び動き出すように命じる。 そして彼らは再び動き出す。 そして彼らは朝起きる。彼は天に昇る。 そしてその朝、本物のアンフィトリオンが家に帰ってくる。 妻がなぜ彼を歓迎しないのか理解できない。 妻は今のところ、アンフィトリオンに十分満足しているのだ。 (0:23:24)

しかし、結局のところ、アンフィトリオンが戦争に行く前に、彼女はアンフィトリオンに妊娠させられていたのだ。 しかしこの神話によれば、ユピテルも彼女を妊娠させたという。 ローマ神話の時代には、解剖学はあまり重視されていなかったんだ。 とにかく、彼女は二重に妊娠した。 そして双子を授かった。 そのうちの1人は聞いたことがあるだろう。 ヘラクレスはジュピターとアルクメナの息子だった。そうしてヘラクレスが生まれた。 (0:23:53)

しかしヘラクレスには双子の弟イピクレスがいた。 ヘラクレスは神と人間の間に生まれたので、神であり人間でもあった。 つまり、二人の異なる親がいれば、人は神であると同時に人間でもありうるということだ。 ギリシア・ローマ時代の考え方で、人が神であると同時に人間であるという3つ目の方法は、ジュピターがアンフィトリオンとして降臨したときに起こったことだ。神が一時的に人間になることもある。 (0:24:27)

つまり、人間でありながら神であるということだ。 さて、私の本ではまず、古代の考え方には人間と神の両方を持つことができる3つの方法があったと説明します。 そして、ユダヤ人にも同じ考え方があったと主張する。 現代の多くの人々は、ユダヤ人は一神教徒であり、人間が神であるとは想像できなかったと考えている。 (0:24:52)

違う。実際、イエスの時代のユダヤ人も、まったく同じ考え方をしていた。 彼らは、天に召されて神になった人々のことを知っていた。 例えば、エノクだ。エノクは神のもとに引き上げられ、神そのものになった人間だと考えられていた。 (0:25:12)


神々が降りてくる、あるいは神のような存在が降りてきて、人間とセックスをし、半神の子孫を残すという伝承がありました。 ところで、それは聖書にも出てくる。 創世記の6章だ。神の子らは、人の娘たちを見下ろして、その美しさを見た。 そして降りて来て、自分のために妻をめとった。 そして、その子孫はネフィリム、すなわち巨人であった。 (0:25:44)

創世記第6章。神が世界を洪水にしたのは、このような半神が走り回っていたからだ。 神と人間の子孫である巨人たち。 ユダヤ教では。ユダヤ教では、人間は神になれると考えられていた。 ヘブライ語の聖書では、イスラエルの王はエロヒム(神)と呼ばれることがある。だから、ユダヤ人も同じものを持っていた。 古代世界では、彼らは神の領域について、今日の信者のあり方とは異なる理解を持っていた。 (0:26:17)

今日の信者の多くは、神は上にいて、神はこの巨大な裂け目から私たちから切り離されていると考えている。 つまり、神がいて、裂け目があり、私たちがいる。 古代の人々はそうは考えていなかった。 神の領域にはいくつもの層があり、人間の領域にもいくつもの層があった。 そして、時にはそれらが交わることもあった。 だから、イエスが神と考えられるようになったのはなぜなのか、それを説明するためのお膳立てなんだ。私の本における主要な質問のひとつは、イエスは自分自身を神だと考えていたのか、というものだ。 (0:26:51)

私はそのことに1章を割き、はっきりと「ノー」と答える。 イエスは自分を神だとは思っていなかったし、自らを神とは呼ばなかった。もし誰かがイエスは自分が神だと思っていると言ったら、気が狂ってしまっただろう、と私は思う。 そして、歴史的根拠に基づいて、イエスが自分自身を神だと考えていなかったことは確かだと、その理由を説明する。新約聖書の福音書の一つであるヨハネによる福音書の中で、イエスが自らを神であると認めているのは事実である。イエスはヨハネ福音書の中で、すべてのユダヤ人の祖先であり、1800年前に生きたアブラハムについて語っている。 (0:27:32)

イエスはユダヤ人の敵対者たちにこう言っている。 彼は1800年も前に生きていたのか? それだけでなく、「わたしはある」という言葉は、旧約聖書では神の名である。モーセが神に、あなたのお名前は?とモーセが神に尋ねると、神は「わたしの名は、わたしである」と答えた。 イエスは『わたしはいる』と主張し、ユダヤ人の敵対者たちはイエスの言っていることを正確に知っている。 彼らは彼を石で打ち殺そうと石を取り上げる。 (0:28:00)

その数章後、イエスは再びユダヤ人の敵対者たちに向かって、「わたしと父とは一つである」と言う。 再び、彼らは石を投げつける。 その数章後、イエスは従者たちに言われる、「わたしを見たなら、父を見たことになる」。イエスはヨハネによる福音書の中で、自分自身についてこのような主張をしている。それは間違いない。 問題は、歴史上のイエスが自分自身についてそのような主張をしたのか、ということだ。 (0:28:30)

私がこの本で主張しているのは、イエスはほとんど間違いなくそうではなかったということだ。 その論拠はいくつもありますが、そのうちの一つをお話ししましょう。ヨハネは最後に書かれた福音書です。おそらくイエスの死後60~65年後に書かれたものでしょう。それ以前の福音書、マタイ、マルコ、ルカがあります。そして、マタイ、マルコ、ルカの背後にある情報源をある程度復元することができる。マタイ、マルコ、ルカ、そしてマタイ、マルコ、ルカの背後にあるすべての情報源を見てみると、イエスは自分自身についてこのようなことを言っていない。 (0:29:06)

さて、もし歴史的にイエスが自らを神と呼んで回っていたとしたら、彼の生涯の記録を書こうとした誰かがその部分を省くだろうか? (0:29:20)


その部分は言及するほど重要ではないような? 初期の福音書や情報源にはないけれど、最新の福音書にはある。なぜですか? それは歴史的なことではなく、イエスの口から語られた後世の神学的発展だからです。というわけで、とにかく私は、イエスが自らを神とは呼ばなかったことを示すことに一章を割いた。

(0:29:44)

これがこの本の鍵である。 そして、イエスがどのようにして神になったのかというこの問題全体の鍵でもある。イエスの従者たちは、イエスの生前、彼が神だとは思っていなかった。 イエスが十字架につけられた時、彼らは確かにイエスを神だとは思わなかった。 しかし、そのうちの何人かは、イエスが死からよみがえったと考えるようになった。 それが彼を神と呼ぶようになった理由だ。だから問題は、イエスが死からよみがえったと人々が考えるようになったのはなぜか、ということだ。 (0:30:19)

今日、キリスト教の弁証主義者たちは、イエスが死からよみがえったと考えるあらゆる理由があると主張する。 私がクリスチャンの弁証主義者だった頃、こうして壇上に上がり、イエスが死からよみがえったことを論証し、証明したものだ。 その証拠がこれだ。 一般的に言われている証拠の一つは、イエスの墓が三日目に空であったということです。 (0:30:39)

イエスの墓は三日目に空っぽで見つかったということです。 そして、もしあなたが弁証主義者なら、なぜ墓は空だったのかと言うでしょう。 なぜ空だったのか? 誰かが死体を盗んだのか?それはありえない。この理由、この理由、この理由があるからだ。 間違った墓に行ったのか?まあ、この理由、この理由、この理由のために、それはありそうもない。 (0:30:59)

考えられる説明を考え出す。 そしてそれらを除外し、どの説明も成り立たないので、イエスは実際に生きて墓を出たに違いないと言うのです。 ですから、私の本では、実際には空の墓はなかったと主張しています。 イエスはおそらくまともな埋葬をされなかったのだ、と。 私がそう考え、そう主張する理由は、私たちがローマ時代の磔刑の慣習について知っているからです。 (0:31:31)

ローマ人の十字架刑の通常のやり方は、遺体を数日間十字架の上に放置して、遺体が腐敗し、清掃員に食べられるようにすることだった。 それが刑罰の一部だった。 単に十字架刑の恐ろしくゆっくりとした拷問のような死が罰だったわけではない。 まともな埋葬をしてもらえないという事実もあった。 古代世界では誰もがまともな埋葬を望んでいた。 (0:32:01)

しかし、十字架につけられた犠牲者は、罰の一部としてまともな埋葬を与えられなかった。 そして彼らの体に加えられた傷もまた、罰の一部であった。 彼らは何日も十字架につけられたままだった。 そこで唯一の疑問は、イエスの場合は例外だったのか、ということだ。 そして私は、イエスの場合はおそらく例外ではなかったと主張する。おそらくイエスの遺体は十字架に残され、やがて普通の墓に投げ込まれたのである。 (0:32:24)

だから、イエスが死からよみがえったと信じるようになったのは、空の墓を発見したからではない。 (0:32:30)


私はこの本の中で、イエスが死からよみがえったと人々に思わせたのは、 イエスに従った人たちの何人かが、その後イエスの幻を見たからだ、と 主張している。 彼の信奉者の何人かは、その後、彼の幻を見た。 これは、無宗教者や無神論者だけでなく、信仰を持つ人々にも有効な説明です。 信仰のある人々は、弟子たちがイエスの幻を見たのは、イエスが死からよみがえり、彼らに現れたからだと言うだろう。 (0:32:58)

復活を信じない人々は、復活を信じた人々が見た幻は幻覚だと言うだろう。 そこで私は、幻覚について私たちが知っていることについて、本の1章を使って話しています。 興味深いことに、幻覚には最も一般的なものが2つある。 ちなみに、私たちの8人に1人は幻覚を見ている。 私たちの8人に1人は、本当に信じられるような鮮明な幻覚を見たことがあるか、これから見るでしょう。 (0:33:27)

そして最も一般的なタイプが2つある。 一つは、亡くなった愛する人の幻覚です。 祖母が亡くなって2週間後に、寝室で祖母を見るのです。 よくあることです。 ただ見るだけでなく、声が聞こえたり、時には話したり、触れたりすることもある。 物理的にその人の存在を体験するのです。 よくあることです。 その他によく見られるのは、尊敬する愛する人です。 (0:33:53)

すみません、尊敬する愛する人ではなく、尊敬する宗教家です。 尊敬される宗教家。 キリスト教の擁護者たちに、集団幻覚など存在しないと言われたことがあります。 つまり、イエスの幻覚は、多くの人が同時に見たので、集団幻覚はありえないので、うまくいかないというのだ。 まさに、キリスト教の弁明者たちは、プロテスタントばかりで、集団幻覚はあり得ないと主張したがるのだ。 (0:34:21)

まさにこれらの人々は、聖母マリアが一度に何百、何千もの人々の前に現れたことを否定する人々である。 なぜ彼らは否定するのか? 彼らはそれが起こったと信じていないからです。 しかし、もしそれが起こったと信じていないのであれば、彼らは集団幻覚を信じることになる。 なぜなら、それは非常によく記録されているからだ。 つまり、集団幻覚を信じるか信じないかだ。でも両方はあり得ない。 (0:34:50)

興味深いことに、最もよく見られる幻覚は、亡くなった愛する人の幻覚と、尊敬する宗教的人物の幻覚です。 だから、彼の信奉者たちが彼の幻覚を見たとしても驚くことではない。 私もそうだと思う。 だから、イエスに従った人たちは、イエスはもう死んでいないと思うようになり、イエスがまだここにいないことを知ったのです。 (0:35:22)

つまり、彼らはイエスが臨死体験をしたとは考えなかった。 彼の肉体がここになかったから、彼の肉体が生き返ったのではないのだ。 イエスがガリラヤに戻ったのは、再びファリサイ派の人々と論争を始めるためではなかった。 カファルナウムに戻ってあれこれするわけでもない。 彼はここにはいない。 (0:35:42)


さて、死からよみがえられたのを私たちが見たのに、ここにおられないとしたら、どこにおられるのでしょうか? 天に召されたに違いない。 それで、彼らはすぐにイエスが天に召されたと考えた。 誰かが天に召されたと考えたら、古代の人はどう思うだろうか? その人が神の存在になったと考えるのだ。 (0:36:02)

それがイエスが神であるという考えの始まりです。イエスがよみがえったと考えるやいなや。 新約聖書自体にも、イエスを神と呼ぶことの意味について異なる理解をしている著者がいる。古代の世界では、イエスが神と呼ばれるには3つの方法があったと言ったのを覚えていますか? そして、この3つの方法はすべて、異なるクリスチャンによってイエスに適用されている。新約聖書には、イエスがよみがえられたときに神とされたと考えるクリスチャンがいる。つまり、彼は神の領域に昇格したのだ。 (0:36:41)

私たちの最も古い福音書であるマルコによる福音書では、そのように考えられていると思います。しかしマルコは、それが復活の時に起こったとは考えていません。初期のクリスチャンは復活の時に起こったと考えていました。しかし、クリスチャンがこのことについて考えるにつれ、彼らはこう考えた。彼はそのミニストリー全体を通して神の子であったに違いない。 (0:37:01)

そして、福音書の中でイエスのミニストリーで最初に起こることは、彼が洗礼を受けることである。 マルコの福音書はイエスが洗礼を受けるところから始まります。 マルコの福音書では、イエスがバプテスマを受けると、天から声がして、「あなたは、わたしが心から喜ぶわたしの子である」と言う。 イエスは洗礼によって神の子とされたのだ。 クリスチャンたちは、イエスが神の子であったのは宣教の間だけではない、と考えた。生涯を通して神の子であったに違いない。 (0:37:29)

こうしてキリスト教には、神が降りてきて人間とセックスをするというような伝統が生まれた。 神がイエスの母親を妊娠させたという考えも生まれました。 マルコにはありませんが、ルカにはあります。ルカの福音書では、イエスが神の子である理由は、聖霊がマリアを妊娠させたからである。 (0:37:55)

だからイエスは文字通り神の子なのだ。クリスチャンたちはもっとこのことを考えるようになり、イエスが神の子であったのはその生涯の間だけではない、と考えるようになった。 彼は常に神の子であったに違いない。そこで、イエスは生まれる前から実在していたという考えが生まれた。 イエスは一時的に人間になった、存在する神のような存在だったのだ。 古代世界における、神のような人間になる第三の方法のようなものだ。 (0:38:21)

そして、それがヨハネによる福音書に書かれていることなのです。ヨハネによる福音書では、イエスは人間としてこの世に現れ、その後天に帰るためにこの世を去る、あらかじめ存在する神的存在なのです。 (0:38:33)


つまり、キリストについての考え方は、すでに新約聖書の中で発展してきたのです。二世紀に入る頃には、事実上すべてのキリスト教徒がイエスは神であると言っている。それはキリスト教徒にとっていくつかの問題につながった。最も明白な問題は、イエスが神であり、神が神であるならば、私たちは二人の神を持っているのではないか、ということだった。 もし聖霊を混ぜたら、私たちは3人の神々を持つことにならないか? (0:39:05)

では、私たちは本当は多神教徒ではないのか? クリスチャンは、いや、私たちは多神教ではなく、一神教だと言いたかった。 ええ、でもあなたは今、神は神であり、イエスは神であり、御霊は神であると言いました。 いいえ、私たちは一神教です。 それは具体的にどういうことですか? 私の本の最後では、このようなことに関する2世紀、3世紀、4世紀の論争を扱っています。 (0:39:26)

この問題にはいくつかの巧妙な解決策があった。 キリスト教2世紀の終わりに支配的な見方をしていたある思想家のグループがあったのですが、それは現代の学者たちがモーダル主義と呼んでいる見方です。 神が3つの様式で存在すると主張しているので、様相論なのです。 つまり、私自身は人間として、息子であり、兄弟であり、父親である。 (0:39:58)

でも、私は一人しかいない。 だから神もそうなんだ。彼は3つの存在様式を持っている。 父であり、子であり、聖霊である。 このような見解は長い間支配的でしたが、結局は異端とされました。 なぜなら、3つの区別を十分に強調していなかったからだ。 新約聖書でイエスが祈るとき、彼は独り言ではないのだから。 (0:40:26)

それで、何か他のものがある。 そこで彼らは、実際には3つの異なる存在があり、その3つすべてが完全に神であるという考えに行き着いた。彼らは互いに異なる。 彼らはすべて完全に神だ。みな等しく神なのだ。しかし、神は唯一である。それが三位一体の教義だ。唯一の神が3つの位格によって顕現している。 そして、それは合理的には意味をなさない。 (0:40:55)

そして、それは合理的に意味をなすものではない。 もし三位一体の教義を理解しているという人がいれば、それは誤解です。 なぜならあなたには理解できないからです。 だから私は、キリストが単に神的存在となっただけでなく、父なる神と対等であり、永遠の過去から常に存在していた人物として考えられるようになった経緯に行き着く論争について話して、この本を締めくくります。 (0:41:21)

そうなるに至った展開について話す。 本書のどこが原理主義者を不快にさせるのでしょうか? 大部分は別として。 保守的なキリスト教徒にとって特に不快なのは2つでしょう。一つは、イエスは自らを神とは呼ばなかったという私の主張だ。そして、イエスは自らを神とは理解していなかったということです。歴史上のイエスは自分自身を神だとは理解していなかった。それは保守的なキリスト教徒にとっては不快なことでしょう。もう一つは、イエスはまともな埋葬を受けなかったという私の主張です。 (0:41:59)

イエスはアリマタヤのヨセフによって埋葬されず、墓は三日目に発見されなかった。 (0:42:05)


この二つは、特に人々を不快にさせる、そしてされてきた顕著な主張です。 他のクリスチャンにとっては何が不快なのでしょうか? 例えば、リベラルなクリスチャンや、主要な教派のクリスチャンにとっては。私の考えでは、原理主義者や保守的福音主義者でない他の信仰を持つ人々にとって、この本の中に不快になるようなものは何もないはずだ。 私は4人の友人にこの本を読んでもらった。 全員がクリスチャンを自認する4人の学者たちだ。そして、その誰一人として問題を感じなかった。 (0:42:35)

世の中には賢いクリスチャンがいるし、批判的な学者もいるからだ。 そして、彼らが信仰を持っているからといって、原理主義者になるわけではない。 では、なぜ私はすべてのキリスト教徒を追いかけないのか? なぜ彼らを追いかけないのか? ここで私は元に戻り、次のいくつかのコメントで締めくくることにする。 最初に言ったことに戻ります。 不可知論者の宗教学者としての私の目標は、宗教を攻撃することではない。 (0:43:06)

私の目標は、初期キリスト教の歴史について人々を教育することであり、人々が信じるもの、信じないものが何であれ、より思慮深くなる手助けをすることです。 キリスト教徒であろうと、ユダヤ教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、仏教徒であろうと、異教徒であろうと、不可知論者であろうと、無神論者であろうと。 私の目標は、自分が信じているもの、あるいは信じていないものについて、人々がもっと考える手助けをすることだ。 私の視点と異なる人たちを馬鹿にしていると非難する人もいる。 (0:43:38)

しかし実際、私が馬鹿にしているのは原理主義者だけで、彼らはそれに値するからだ。 クリスチャンにも無神論者にもそういう著者はたくさんいる。 個人的な経験から言わせてもらえば、どちらのグループも馬鹿にされるのは好きではない。 彼らは私に教えてくれた。 しかし、私は、信仰を持つ人々が原則として馬鹿だとは思わない。 (0:44:10)

信仰は賢さの問題ではない。 来週、私は毎年そうしているように、親友でイェール大学で新約聖書を教えているデール・マーティンと海に行く。彼はイェール大学で新約聖書を教えている。そして私の妻、サラ・ベックウィズはデューク大学で英語の主任教授を務めている。

(0:44:37)

特にサラ。二人とも私より賢い。 そして2人ともクリスチャンだ。そして、彼らのどちらかに、イエスは神かと尋ねたら、二人ともイエスと答えるだろう。 でもそれは頭の良し悪しの問題ではありません。 だから、クリスチャンがみんなバカだということに意味はないと思う。 彼らはバカではないからだ。 宗教原理主義者や社会的に危険な人でない限り、たとえ私の世界観と違っても、彼らの知的な世界観のために人々を攻撃することはないと信じている。 (0:45:13)

それなら攻撃する価値があると思う。 というのも、そうやって新しい視点に改宗した人はいないと思うからだ。 (0:45:26)


神学校に通っていたとき、私は保守的な福音主義者だったのですが、最初の学期に新約聖書のかなり急進的な教授の講義を受けました。 彼は私とはあまりにも違っていて、私が考えていることすべてに反対だったので、私は壁を作り、それを聞きたくなかったのです。 だから聞かなかった。 (0:45:51)

2学期目に、とても思いやりがあり、愛情深く、敬虔な学者の新約聖書の講義を受けました。彼は私の視点に敏感で、私の話に耳を傾けてくれ、多少の違いはありましたが、とても優しく、私の脱転向のプロセスを始めてくれました。 私が障壁を設けなかったからだ。 人は愛によって改心するのであって、憎しみによって改心するのではない。 魅力的な代替案によって改心するのであって、罵詈雑言によって改心するのではない。 (0:46:28)

人々は忍耐強く、愛情深く、知的な説明によって改心するのであって、辛辣で眉をひそめるような暴言によって改心するのではない。 というのも、指摘したように、私は攻撃的で強硬で物議を醸すという評判があるからだ。 しかし、私は自分自身をそのようには見ていない。 たとえそれが誰かの宗教的感性を害するものであったとしても、必要であればそれを明確かつ厳しい言葉で打ち明けることを厭わない、真理のために情熱的な人間だと私は考えている。 (0:47:06)

あるいは、彼らの神話主義的な感性を傷つけるかもしれない。 しかし、私の目的は怒らせることではない。 初期キリスト教の歴史について人々を教育し、特に人々に考えさせることだ。 原理主義者であろうと神話主義者であろうと、私の見解を不快に思う人がいるとすれば、それは私が象徴主義者だからではなく、自分以外の視点を冷静かつ公平に考えたくない人がいるからだと私は確信している。 (0:47:36)

それが原理主義の核心にある。 宗教からの自由とは、不可知論者や無神論者の意見に服従するよう、知り合いを威圧することではないと思う。 宗教からの自由とは、他人から押し付けられる宗教的な基準や考え方に従って生きることを強要されない環境で、自分自身が生きることができることを意味する。 しかし、宗教を押し付けられたくないのであれば、皮肉にも偽善的にも無神論を他人に押し付けるべきではない。 (0:48:11)

私たちは、相互尊重と思慮深い配慮の中で、自分たちの観点を注意深く説明し、なぜそれが信仰の見方より優れているのかを示しながら、生きながら生きるべきだ。 その優越性は、私たちが自分の人生をどのように大切にし、どのように生きるかにおいて示されなければならない。 宗教の押し付けから自由になるということは、宗教の名の下に社会を助けてきた善い恩恵から自由になるということではない。 (0:48:43)

無宗教者、無神論者、懐疑論者が世界の宗教と競争したいのであれば、世界の問題に対処する上で同様に重要なプレーヤーになる必要がある。 世界中の信仰共同体の組織に匹敵するような、不可知論者、無神論者、懐疑論者の存在が必要なのだ。 キリスト教会、ウェストボロ・バプティスト教会、バチカン、カンタベリー大司教、モルモン教、ダラム・レスキュー・ミッションは知っている。無神論者、無宗教者、懐疑論者のそれに匹敵する制度や社会構造について、なぜ私は知らないのだろう? (0:49:25)

なぜ「宗教からの自由財団」は南部バプテスト連盟ほどニュースにならないのか? (0:49:32)


宗教から自由である非神学者の団体は、角のバプテスト教会や通りのエピスコパル教会と同じように認知されるようになる必要がある。 ハリケーンや地震や飢饉に襲われたとき、真っ先に駆けつける存在として認知される必要がある。 貧困、ホームレス問題、マラリア、エイズなど、あらゆる伝染病との闘いにおける主要な力として見られる必要がある。 善を行おうとする一方で多くの害をなすことが多い世界の宗教に代わる、活気に満ちた実行可能な選択肢として見られる必要がある。 (0:50:09)

私たちが組織化された宗教について他に何を言おうとも、宗教がしばしば世の中の良いことの多くを生み出すきっかけとなっていることは否定できない。 しかし、それが唯一のものであってはならない。特に、多くの人々が宗教によって沈黙させられ、抑圧され、傷つけられているのだから。 私たちは宗教の押しつけから自由になりたいと思うし、他の人たちにも宗教の迷信から自由になってほしいと思う。 (0:50:37)

しかし、いったんこうした人々が自分を縛るものから解放されたら、何かからだけでなく、何かのためにも解放される必要がある。 ヒューマニストは、人々が信仰から離れるときに失うものの代わりとなるような、何かと場所を提供する必要がある。 それが、すべてのヒューマニスト団体の主要な目標であり目的であるべきだと私は思う。 そして、宗教からの自由財団と私たち全員が、それを可能にする手助けができることを願っています。ありがとうございました。 (0:51:09)

すみません? 考古学にも歴史学にも、歴史的な作品の証拠が見当たりません。 ええ、そうですね。だから本を書いたんです。 だから本を書いたんだ。 だから、たくさんの証拠があるんだ。つまり、多くの証拠があるんだ。つまり、あなた方が走り回る群衆の中では、イエスは存在しなかったと一般的に考えられているんです。 (0:51:40)

言っておくが、一旦コンクラーベの外に出れば、誰も... つまり、これは古代の学者の問題ですらないのです。 学者の問題でもない...。西洋世界のどの大学でも、古典、古代史、新約聖書、初期キリスト教、あらゆる関連分野を教える学者でも、イエスの実在を疑う者はいない。 今、それは証拠ではありません。それは証拠ではない。誰もがそう思っているからといって、それが証拠にはならない。 (0:52:12)

しかし、もしあなたが進化論と創造論の違いについて知りたがっていて、世界中のあらゆる評判の良い機関のあらゆる学者が進化論を信じているなら、それは証拠にはならないかもしれない。 イエスが存在したと考える理由は、初期の資料で豊富に証明されているからです。それが理由だ。 (0:52:39)

その詳細は私の本に書いてある。初期の独立した資料は、イエスが存在したことを確かに示している。 私たちが知っているある著者はイエスの兄弟を知っており、イエスの一番近い弟子であるペテロを知っていました。彼はイエスの一番近い弟子とその兄弟の両方を目撃しているのです。 (0:53:02)


つまり、申し訳ないのですが、繰り返しますが、あなたの不信を尊重します。しかし、もしあなたが証拠のあるところに行きたいのであれば、無神論者は神話主義の流行に飛びつくことによって、自分たちに不利益をもたらしたと思います。 なぜなら、率直に言って、それはあなたが外の世界から愚かに見えるからです。 神話を信じるのであれば、あなたは愚かに見えるだけです。 イエスが存在しなかったという説を考え出すよりも、歴史的証拠に基づき、歴史的に議論する方がずっといい。 (0:53:41)

すみません。はい。そうです。私が質問したいのは、他の...あなたは原理主義的な学者について話しましたね。 (0:54:14)私の質問は、あなたのように、目の前に壁があったとしても、一枚一枚はがしていく前に、聖書学者だと名乗る人たちが、古代ギリシャ語やヘブライ語を研究し、20年、30年、40年もそのようなことを続けることが可能なのか、ということです。 (0:54:13)

彼らは、あなたが見ているのと同じ証拠のいくつかに触れていないのですか? 原理主義者のことですか、それとも他の聖書学者のことですか? そうですね、主に原理主義者です。 そう、原理主義者だ。いや、そうではない。 原理主義というのは、内部的には完全に首尾一貫したシステムなんです。 内部で首尾一貫したシステムです。 そして閉じたシステムだ。 だから、内部で首尾一貫している閉じたシステムがあれば、そこに侵入するのは非常に難しい。 (0:54:41)

だから、内部で首尾一貫しているし、非常に強固な社会的基盤があるから、原理主義者を説得することはできない。 あなたにはそれができない。 聖書のどんな矛盾を指摘しても、それは問題ではない。 彼らはただ、矛盾を解決する方法を考えるか、私が理解できなくても神は理解していると信じるだけだと言うでしょう。 (0:55:12)

そうすると、なかなか入り込めない。 今学期、私の新約聖書のクラスには、純粋な原理主義者だった若い女性がいました。 先週終わったばかりだ。 私のクラスでは、小グループでの暗唱の際に、クラス全員での討論を義務づけています。 つまり、クラスは250人ですが、生徒は全員20人ずつのレシテーションに参加するのです。 (0:55:38)

そしてそのレシテーションの全員がディベートに参加しなければならない。 ディベートは論争の的となるテーマについて行われる。 最初のディベートは、使徒パウロの女性観は抑圧的である、というものだった。 そのディベートを私は、使徒パウロは女性差別主義者であると決議するディベートと呼んでいた。 しかししばらくして、生徒の中には女性差別主義者の意味を知らない者がいることに気づいた。 (0:56:00)

その結果、非常に興味深い論争に発展しました。 2つ目の議論は、パウロとイエスは根本的に異なる宗教を代表しているということです。 3つ目の議論は、新約聖書は現代の同性愛を非難しているということです。 この2つについて、肯定的な意見を述べる学生もいれば、否定的な意見を述べる学生もいる。 (0:56:21)


この女性は、新約聖書は現代の同性愛の慣習を非難していないことを論証するよう命じられた。 彼女はそれを拒否した。 彼女は自分の信仰に反論するくらいなら、落第するつもりだった。 私は言った。私は2万人の生徒を教えてきました。私は2万人の生徒を教えてきた。 私は言った。あなたはこう思っている。あなたはこう思っている。 (0:56:43)

いや、断る。そんなことするつもりはない。 だから代わりに20ページのタームペーパーを書かせた。 しかし、コースが終わった後、彼女は2日前に私にメールを書いてきた。 エルマン先生、あなたのために祈っています。あなたがイエス・キリストを主であり救い主として見ることができるよう、ただ祈っています。ありがとう、本当に感謝しています。 (0:57:02)

あなたがどこに行こうとも、真理を追い求めることを願っています。 5年後くらいにね。 彼女は返事を書く、いいえ、あなたはわかっていません。あなたが理解してくれることを祈ってるわ。 わかったよ。ただ、本当にどうしようもないと思うんだ。 あなたが話していた神学的発展について、特にイエス運動のユダヤ的性質を考慮して、質問があります。 (0:57:29)

もちろん、旧約聖書には復活の例はほとんどなく、復活するとしても人間の代理人によるものです。 不妊の問題はたくさんありますが、処女懐胎はありません。 しかし、イエスの時代には、同じ地域に異教の宗教がたくさんありました。 明らかに、あなたは今、神格化された何人かの人物について述べました。 アディス、ミトラ、ホルス、処女懐胎の人々、そして人間の代理人を必要としない復活もあります。 (0:57:54)

そこで私が疑問に思うのは、キリスト教に異教の神学の要素が入り込んでいる場合、その発展についてどのように説明するのか、あるいは説明するのか、ということです。 ああ、ありがとう。 処女から生まれたとか、12月25日に生まれたとか、十字架にかけられたとか、埋葬されたとか、死からよみがえったとか。 (0:58:19)

実際に現代の神話だ。 ミトラは12月25日には生まれていない。彼の母親は処女ではなかった。 オシリスは死からよみがえりません。 人々はそう言うが、そう言う人々は古代の資料を知らない。 実際、古代の出典はそれを証明していない。 しかし、異教の宗教に共通することはたくさんあります。 私の本の中で、ティアナのアポロニウスについて話していますが、彼は処女懐胎ではありませんでしたが、目を見張るような奇跡的な誕生を遂げました。 (0:58:49)

彼は神の子と理解されていた。彼は病人を癒すことができた。 悪霊を追い出すことができた。 死者をよみがえらせることができた。 生涯の最後には天に昇った。 つまり、イエスによく似ているんだ。それはどういうことですか? まあ、それはキリスト教徒が周りの人々が理解できる言葉で話しているということであり、彼らのイエスに対する理解は、もちろん環境から借りたものだ。 (0:59:10)

私たちが何かを理解する唯一の方法は、私たちがすでに知っていることとの関係においてである。 (0:59:15)


それで、彼らが知っていたのはこれらの物語であり、だからイエスは物語に照らし合わせて語られた。 その通りです。 だから、私の本ではそのことについて少し長く話しています。 もうひとつ質問する時間がありそうです。 ジョセフ・プリーストリーの『キリスト教の堕落』をご存知ですか?はい。何かコメントをいただけますか? (0:59:35)

ええ、そうですね、それについて考えるのも久しぶりなので、コメントすることはありません。 はい、すみません。 この賞と、今日ここに来てくれたことに、改めてお礼を言わせてください。 ありがとうございました。 バート・エルマンです。私はヒューマニストであると同時に不可知論者でもあります。 あなたは不可知論者ですか?

(1:00:03)

人々はそれを知っているだろうか?家族は知っているのか? 私は秘密主義者ですか? そう、僕は不可知論者なんだ。みんな知ってるよ。 じゃあ、本を書くってことは、オープンってこと? 僕の本を読めば、僕が不可知論者だってことがわかるよ。 それは素晴らしい。 あなたの本のほとんどを読んできて、あなたが常に不可知論者であったわけではないことを話しているのが興味深いです。 (1:00:25)

いいえ、最初は福音主義キリスト教徒でした。聖書学に興味を持ったのは、実は10代後半に原理主義者だったからです。しかし、大学院で学問を深めていくうちに、聖書に関する私の信念が完全に間違っていること、聖書は神からのある種の間違いのない啓示ではないことに気づいたのです。そうして何年もの間、私はリベラルなクリスチャンになっていた。それでも教会には通っていた。 (1:00:57)

私はまだ神を信じていた。しかし、聖書が神の霊感による言葉だとは信じていませんでした。しかし、長年リベラルなクリスチャンでいた後、学問とは関係ない理由で、ついに不可知論者になった。 何年もの間、私はそれについて考えていた。聖書の著者の言葉も読みました。 (1:01:20)

神学者の言葉も読んだ。哲学者の言葉も読んだ。 そして、もう信じられなくなったんだ。 それで、ある時点で、自分は不可知論者なんだろうと認めました。 とても緩やかなプロセスだったようですね。 そうですね。 (1:01:44)

私が原理主義者から不可知論者になったのは、聖書に問題があったからだと言われるのを聞いたことがある。それは全くの間違いです。それはとても長いプロセスだった。 私は何年も何年も、とてもオープンマインドなリベラル・クリスチャンだった。 そして、この苦しみの問題が私にとって大きな問題となり、自分が不可知論者であることを認めるに至ったのです。 (1:02:04)

ご家族にカミングアウトすることに問題はありませんでしたか? とても宗教的でしたか?あなたが信仰を捨てたことで、家族は悩みましたか? (1:02:13)


私が福音派のクリスチャンだった頃、家族のほとんどが私の後を追うように福音派に改宗しました。 だから、私がクリスチャンから離れたとき、彼らは私と一緒に離れなかった。 だから彼らは、私がどこに行ったのか不思議に思っている。 福音派の不可知論者ということですね。 そうだ。 実は、私はあまり信じていないんだ...。福音派のクリスチャンだったころは、みんなを自分の考え方に改宗させることを信じていた。 (1:02:45)

それで私はとても伝道的だった。 私は不可知論者として伝道しているわけではありません。つまり、死後の世界なんてどうでもいいんです。 僕は死後の世界なんてないと思っているからね。 私が興味があるのは、人々が何を信じようが信じまいが、より思慮深くなることだ。 だから、誰かを改宗させることには興味がないんだ。 (1:03:13)

あなたは著書の中で、牧師になって聖書と同じ事実を学んだ人の多くが、その事実を信徒と分かち合うことに消極的であるようだと話しています。 それはなぜだと思いますか? 牧師たちが神学校や神学院で私が教えているようなことを学ぶのは、主流派の教派の学校に行く場合です。 原理主義的な神学校に行けば、もちろん、神学校を攻撃するために学ぶのでなければ、このようなことは学びません。 (1:03:39)

あるいは福音派の学校ではこのようなことは教えないだろう。 しかしルーテル派、エピスコパリアン派、メソジスト派、長老派の神学校ではこの種のことを教えている。 しかし、そのような訓練を受けた人たちが牧師になったとき、彼らは自分の信徒に話さない傾向があります。 それは波風を立てることを恐れているからだと思う。 人々がそれを歓迎するとは思わない。 人々はその準備ができていないと思うのです。 (1:04:04)

雇用の安定という問題もある。 彼らは仕事を続けたいから、あまり羽目を外したくないんだ。 しかし、教会には教育プログラムがあり、人々が教育を受けていないのは残念なことだと思います。 ほとんどの教会には成人教育プログラムがありますが、大人たちは実際には教育を受けていません。 彼らは座って他の問題について話しますが、本当に多くの人が興味を持っていること、つまり、人は聖書についてどう考えているのか、ということについては話しません。 (1:04:32)

神学についてどう考えるか? そのことが人々の心に多くの疑念を抱かせることになると、彼らは感じているのでしょうか? ええ、おそらく。牧師は疑念を抱かせるような仕事をしない傾向があると思う。 大学の教授たちは、それが教授としての仕事です。私たちの目標は人々に考えさせることですから。でも牧師たちは一般的に、それを自分たちの目標とは考えていませんから、人々に問題を引き起こすような様々な問題から遠ざかる傾向があるのです。 (1:05:02)

しかし、その結果、彼らが最も興味を持っている事柄について学者が何を言っているのか、本当に何も知らない教区民を抱えることになる。 (1:05:11)


あなたが福音派だった頃、イエスは死からよみがえったと高い確信を持って信じていたと思います。なぜそう信じていたのだと思いますか? それは何に基づいていたのですか? なぜイエスが死からよみがえったと思ったのか? まあ、そう信じるように育てられたからです。 つまり、私が考えることができるようになったときから、イエスが死からよみがえられたことを知っていた。 (1:05:36)

これが私の育った環境です。 だから、なぜあなたは世界が丸いと信じているのですか? と聞かれるようなものです。まあ、私はそう思って育ちましたが、後になって、それが正しいと思わせるものを見つけました。 私の場合、それが正しいと思うようになったきっかけは何だろう? おそらく宗教的な経験だろう。 イエスは生きていて、私と対話する人だと思った。 (1:06:02)

それで、最初は信念を持ち、その後の経験でその信念を確信した。 不可知論者になったとき、私は明らかにイエスが死からよみがえったとは考えませんでした。なぜなら、それには奇跡が必要であり、神が奇跡を起こす必要があるからです。というのも、奇跡を起こすには神が奇跡を起こす必要があり、私は神を信じないからです。だから、私は今、歴史的データを別の方法で説明しなければなりません。私の考えでは、それはおそらく幻覚でした。 (1:06:36)

そして、これによって彼らはイエスが死からよみがえったと確信し、キリスト教が始まった。 (1:06:40)

▼原文 展開

The Bible is the best seller that nobody reads. It's in the hotel rooms, it's all over. A few people like me, when I was a preacher, I would cherry-pick verses to preach from, and I thought I was teaching the Bible to my congregation. I was not. I was preaching the Bible. I thought I was teaching them things that were actually true from the Bible. I think no one, in this country at least, has done more to increase actual Biblical literacy about what we should know about what the Bible not only says, but how it came to say what the authors thought it says. (0:00:40)

No one has done a better job of that than Bart Ehrman. And how many of you have read at least one book by Bart Ehrman? Look at that. Well, there's more in the back. There's a brand new book of his. Bart Ehrman is right here in North Carolina. He teaches at the University of North Carolina in Chapel Hill. Woo-woo, some Chapel Hill people here. (0:01:01)

It's the James A. Gray Professor in the Department of Religious Studies. He's a graduate of Wheaton College, of all things. And you know about Wheaton College, where they have the Billy Graham archives. Wheaton College, the bastion of critical Biblical scholarship. And maybe Bart will tell us a little bit about how his views changed from being evangelical, true Bible believer, to actually a true Bible teacher. (0:01:31)

So, in light of the fact that he has had such a tremendous impact in his books, my favorites are Misquoting Jesus and Forged. You know, I thought I knew a lot about the Bible as an ordained minister. I realized how little I actually knew about the Bible. And then his newest book, How Jesus Became God. We have copies of those books in the back. (0:01:57)

We only have a few left. We only have, I think, maybe 30 back there. So, afterwards, Dr. Ehrman will sign some of the books for you. But in light of the fact of the tremendous contributions he's made towards real education, real Bible literacy, and just real religious literacy in this country, as a public figure who speaks plainly about religion, we at the Freedom from Religion Foundation are offering Bart Ehrman the Emperor Has No Clothes Award. Today, without an actual emperor. (0:02:30)

The emperor has no clothes. I told you earlier that this statuette is made by the same company that makes the Oscars. And it's based on that Hans Christian Andersen story about the young boy who just told it like it was. The emperor had no clothes. So, Bart Ehrman, come up here to receive. Well, I'm really glad to be with you. This is an unusual experience for me. (0:03:09)

I usually don't get asked to speak to groups of atheists, agnostics, and skeptics. I get asked to speak to a lot of Christians. So, this is very nice. I'm sure I'll enjoy this very much. I've had a lot of interesting speaking engagements this last year. (0:03:30)


About a month ago, I was asked to do a public debate at Northern Alabama University. So, I had never been to Northern Alabama before. I came back and told my wife, Sarah, we don't live in the Bible Belt. If you want to go to the Bible Belt, go to Northern Alabama. So, we were supposed to have this debate. The topic was whether the problem of suffering should call into question the existence of God. I was debating a fellow who was a Christian apologist. (0:04:15)

A fundamentalist Christian apologist. Every time I have one of these debates, in the middle of the debate, I start writing notes to myself. Saying such things as, why the hell am I here? So, he was very articulate. And he knew a lot. And he knew exactly what I was going to say, because I had done this debate before. And he knew what my line was. (0:04:42)

I had no clue who he was. My argument in this is that, in fact, the problem of suffering does cause problems for people who believe in God. And should cause problems, should call into question the existence of God. His argument was that I'm an idiot. So, I started out, this was in front of a crowd of 1200 people. So, the big church in northern Alabama is the Church of Christ. I don't know if you know the Church of Christ, but it's a big church in some parts of the south. (0:05:24)

Especially in Alabama, I think parts of Texas. And some of the churches of Christ are quite fundamentalist in their orientation. So, I started out, my presentation when I got up, is this big auditorium with 1200 people in it. I asked, I said, so, how many of you in here are associated with the Church of Christ? Boom! The entire room raises its hand. I'm like, God, I'm in the lion's den. (0:05:48)

My sense is that, well, let me say, they were generous people, they were kind to me, they were nice, they actually applauded, they laughed at a few of my jokes. I mean, it was fine. My sense is that for people like that audience, the constitutional guarantee of freedom of religion is the freedom to practice their own religion. But also, for a lot of them, it's the freedom to impose their views of religion on the rest of us. (0:06:26)

My view is that freedom from religion does not mean, necessarily, opposing religion. That's going to be one of the theses I have in my talk with you here. Freedom from religion means opposing the imposition of someone else's religion on us. In our public institutions, our public spaces, our public schools, our public offices, and our public laws. I stress the difference between opposing religion and imposing the imposition of religion, because for me, as an agnostic professor of religion, it's a very important distinction indeed. (0:07:13)

I am, in fact, not opposed to most kinds of religion. (0:07:19)


I'm simply opposed to the idea that someone else's religion should have any bearing on how I live my life in public or in private. It's very interesting being an agnostic scholar of religion. In this talk, I'd like to explore what it means for me to be one. I think I'll begin by explaining what I myself mean by this term that I'm using, that we all use all the time, the term agnostic. (0:07:56)

Because over the last 18 months or so, I've come to think it means something different from what I used to think. So, what I used to think before I was an agnostic was that agnostics and atheists were two degrees of the same thing. And when I first declared myself agnostic, I was amazed at how militant both agnostics and atheists can be about their terms. (0:08:24)

Every agnostic I met thought that atheists were simply arrogant agnostics. And every atheist thought that every agnostic was simply a wimpy atheist. Two degrees of the same thing. Someone will just say, I don't know, the other will admit they do know. I have come to think that in fact they are not two degrees of the same thing, they are two different kinds of thing. (0:08:54)

That agnosticism has to do with epistemology. What you know. What you know. And atheism has to do with belief. What you believe. I actually consider myself to be both an agnostic and an atheist. I'm an agnostic because if somebody says to me, is there a greater power in the universe? My response is, how the hell would I know? I don't know, so I'm an agnostic. (0:09:31)

If somebody were to ask me, do you believe in the God of the Bible? Do you believe in a God who interacts with the world, who intervenes in the world, who answers prayer? Do you believe in a supernatural divine being? No, I don't believe it. So I don't believe it, so I'm an atheist. But I don't know, so I'm an agnostic. And since I'm a scholar, I prefer to emphasize knowledge rather than belief. (0:09:57)

And so I tend to identify as an agnostic. It's really unusual for anyone in my line of work to be an agnostic. I'm a professor of biblical studies. So there's a society of professors of biblical studies called the Society of Biblical Literature. We have our annual meeting every November. There are probably 6,000 professors of religion in the Society of Biblical Literature. I don't have the exact number. (0:10:30)

I bet there are 6,000 of us who teach biblical studies at one level or another throughout the country. In seminaries, divinity schools, universities, colleges, and so forth and so on. Probably 6,000 of us. And those of us who are agnostic or atheist are very much in the minority. Virtually everybody who teaches New Testament is a Christian. As I was when I started being interested in biblical studies. (0:11:02)

Dan mentioned that I went to Wheaton College, the alma mater of Billy Graham. I don't know if he knows this, but in fact, for me, that was a step towards liberalism. (0:11:11)


I started out at Moody Bible Institute. Where, as we used to say, Bible is our middle name. So, I was a hardcore fundamentalist. I wasn't like those wimpy fundamentalists at Wheaton College. But in any event, those of us who are atheists or agnostics in the Society of Biblical Literature are very much in the minority. The others that I know about who are agnostic or atheists do not try to reach a wide audience. (0:11:49)

That's not unusual. Most people in the Society of Biblical Literature don't try to reach a wide audience. They write books for scholars and they write books maybe for churches or things. But very few people actually try to reach a wide audience. I do try to reach a wide audience. And so, I want to talk for a minute about what it's like to be an agnostic New Testament scholar who tries to reach a wide audience. (0:12:12)

So, there are actually three kinds of books that I write. I write textbooks for college and university students. So, I have a textbook on the New Testament that is widely used throughout the country. In fact, I have two textbooks on the New Testament. And I have a textbook on the entire Bible from Genesis to Revelation. I've got a number of textbooks that I write for the 19-year-olds in college and university. (0:12:45)

I write trade books, as they're called, for general audiences. So, this is the kind of book you would buy in a Barnes and Noble, such as these three books that are back here. My most recent one is the one I'm going to spend most of my time talking about here, How Jesus Became God. It's written not for the 19-year-olds, but for their parents, basically. (0:13:07)

So, those are the two kinds of books. So, the one is for university students. The other is for a general audience. And obviously, I try to reach as broad of an audience as I can. The third kind of book I write are scholarly monographs. Those are meant to be hard-hitting scholarly books for the six people in the world who care. So, I try to alternate which books I write. (0:13:33)

Two of those three, though, are intended to reach wide audiences, either university kids or adults. I do not see it as my mission in life to convert my readers to agnosticism or to atheism. My goals in writing my books are to educate the general population in knowledge about the New Testament and early Christianity. Knowledge that's long been available to scholars, but that most people, as it turns out, have no idea about. (0:14:09)

Even people who consider themselves Christian, who have allegedly been going to Sunday school their entire lives, they simply don't know what scholars are saying about the Bible. Most Christian scholars, this may come as a surprise to some of you, most Christian scholars are not actually believers in the infallibility of the Bible. Apart from fundamentalists and conservative evangelicals, most Bible scholars approach the Bible from a historical perspective, even if they do also consider it to be a document of faith. (0:14:44)

Most Bible scholars are not close-minded fundamentalists at all. (0:14:53)


When my colleagues and virtually all my friends in the field are believing Christians, when they approach the Bible in their research, they do it from a critical perspective. This involves historical knowledge, what we can know about the historical Jesus, the early Christian movement, and the New Testament from a historical perspective, as opposed to a believing theological, religious, or confessional perspective. This is what scholars of the Bible do, and unless they are fundamentalists, they do it historically. (0:15:28)

I'm interested myself in reaching the widest possible audience with this kind of information, the historical information, whether people are non-believers or people of faith. I'm interested in reaching everyone. I don't see people of faith as my enemies or as my opponents, and I don't consider my textbooks or my trade books to be written against people of faith or positions of faith, with one exception. (0:16:01)

I do stand in opposition to anyone who is a fundamentalist, whether Christian, Jewish, Muslim, or even atheist. My students sometimes ask, what is a fundamentalist? I give them a very simple definition. A fundamentalist is no fun, too much damn, and not enough mental. I would like to convert fundamentalists. I am out to convert fundamentalists, to deconvert fundamentalists. But other than that, my goal is to educate, not to convert. (0:16:45)

I want to talk about how I go about doing that as an agnostic historian of early Christianity by discussing my most recent book, How Jesus Became God. The bulk of what I want to say over the next 20 minutes or so will be on this book that just came out a few weeks ago. The book is called How Jesus Became God, and in my opinion, it is dealing with the biggest issue I've ever dealt with in any of my books. (0:17:17)

I try to deal with big issues when I write books, because most people don't care about small issues. And so, I'm interested in big issues, and I think this is the biggest thing I've ever tackled. It's obviously big for Christians, because if Jesus had not been declared God, they wouldn't have a religion. So, for Christians, it really matters how Jesus became God. But I would argue that this question of how Jesus became God should be important for all of us, whether people of faith or not. (0:17:45)

And here's the reason. If Jesus had not been declared to be God, his followers would have remained a sect within Judaism. They would have remained a Jewish sect. They would not have attracted large numbers of Gentiles into the fold. If they hadn't drawn large numbers of Gentiles into the fold, the Christian religion would not have grown over the years at the rate that it did. (0:18:11)

If it had not grown at the rate it did, it would not have been a sizable minority at the beginning of the 4th century. At the beginning of the 4th century, the Christian religion made up maybe 5% of the Roman Empire. So, something like 3 million people. (0:18:26)


If that hadn't happened, the Roman Emperor Constantine almost certainly would not have converted to Christianity. If Constantine had not converted, the Roman state would not have converted. If the Roman state had not converted to Christianity, we wouldn't have had the Middle Ages, the Renaissance, the Reformation, or modernity as we know it. It's a rather big question. Because if Jesus hadn't been declared God, none of that would have happened. (0:18:55)

So, this is not just a question for people who are personally committed to the idea that Jesus is God. It's important for all of us, I think. At least all of us who have any interest at all in the history of Western civilization. So, I think it's big. So, in this book, I want to tackle the question of how it came about. How did it come about that Jesus came to be declared God? (0:19:18)

So, the way I start the book is somewhat discomforting for conservative Christians. I start the book by talking about what we know about divine men in the ancient world. Jesus was not the only one who was a human being that some people thought was God or became God. And so, in my book, I show that in Greek and Roman circles, it was thought that there were human beings who were also divine beings. (0:19:53)

So, it worked in one of three ways. Sometimes, there was a human being who was just so far superior to the rest of us. Either they were more powerful, or they were more intelligent, or they were more beautiful, or all three. They were so special that at the end of their lives, the gods took them up and rewarded them by making them gods themselves. (0:20:23)

So, that happened, for example, with the founder of the city of Rome, Romulus. Romulus, the founder of the city of Rome, was thought at the end of his life to have been taken up into the heavenly realm without dying and to have been made a god. He became a powerful god. In ancient Rome, he was one of the three main gods worshipped in the city of Rome. After he had been divinized. (0:20:54)

And, of course, the Roman emperor was later thought to have been made a god. So, you have these humans who are made divine. The second way a human could be divine was that in some instances, a divine being would come down and would impregnate a mortal. So, my favorite story about this is in a book called Amphitryon by the Roman comic playwright, Plautus. Most of you haven't read Plautus. I never read Plautus. I had decided early on in my academic career not to read Plautus because my brother wrote his PhD dissertation on Plautus. And I thought that if my brother liked him, he can't be that good. (0:21:38)

But it turns out I was completely wrong. It's terrific stuff. So, according to Plautus, in this book Amphitryon, he retells the story. (0:21:50)


Amphitryon is the name of a general of the city of Thebes. And Amphitryon has this gorgeous wife named Alcmena whom he has left pregnant to go off to war. So, he is off at war and Alcmena is at home. Jupiter, the king of the gods, looks down and he sees Alcmena and he is awed by her beauty. She is drop dead gorgeous. And Jupiter decides he has to have her. (0:22:24)

And so he knows how he is going to make this happen. Jupiter comes down disguised as Amphitryon. And he tells Alcmena that he has come home from the war. She welcomes him with open arms, takes him to bed. Jupiter enjoys it so much that in the middle of the night he orders the constellations to stop moving. In other words, he stops time. And they go at it, not just all night, but like forever. (0:22:53)

Until even Jupiter gets his fill and he orders the constellations to start up again. And they start up again. And they get up in the morning. He ascends to heaven. And then, as it turns out, the real Amphitryon comes home that morning. And doesn't understand why his wife doesn't welcome him with open arms. She's had enough of him for the present, thank you very much. (0:23:24)

But, as it turns out, as I said, Amphitryon, she had been made pregnant by Amphitryon before he went off to war. But according to this myth, Jupiter also made her pregnant. They weren't real big on anatomy back in the days of Roman mythology. But anyway, she got doubly pregnant. And she had twins. One of them you've heard of. Hercules was the son of Jupiter and Alcmena. That's how Hercules was born. (0:23:53)

But Hercules had a twin brother, Iphicles, who was mortal. Hercules was born to the union of a god and a mortal, and so he was both god and human. So that's another way a person could be both divine and human at the same time if they have two different parents. The third way in Greek and Roman thinking that a person could be both divine and human was what happened when Jupiter came down as Amphitryon. Sometimes a god would become a mortal temporarily. (0:24:27)

So it would be a human, but it would be a god. Alright, so in my book I start out by explaining that there were these three ways that you could have both a human and a divine in ancient thinking. And then I argue that Jews had the same way of thinking. Many people today think that Jews were monotheists, and so they couldn't imagine that a human could be divine. (0:24:52)

Wrong. In fact, Jews at the time of Jesus had very much the same way of thinking. They knew of people who had been taken up and become god. For example, Enoch. Enoch was thought to be a human being who had been taken up to god and became a divine being himself. (0:25:12)


There were traditions about gods coming down, or divine beings coming down, and having sex with mortals, producing demigod offspring. You get that in the Bible, by the way. Genesis chapter 6. The sons of God looked down on the daughters of men and saw that they were beautiful. And they came down and took wives for themselves. And their offspring were the Nephilim, the giants. (0:25:44)

Genesis chapter 6. That's why God flooded the world, is because you had these demigods running around. These giants who were the offspring of divine beings and human beings. In Judaism. And in Judaism, it was thought that humans could be gods. That the king of Israel, in the Hebrew Bible, is sometimes called Elohim, God. So, Jews had the same thing. In the ancient world, they had a different understanding of the divine realm from the way believers have today. (0:26:17)

Most believers today think that God is up there and God is separated from us from this huge chasm. So, you've got God, you've got chasm, you've got us. Ancient people didn't see it that way. The divine realm had a number of layers to it and the human realm had a number of layers to it. And sometimes they intersected. So, that's the setup for explaining how it is that Jesus came to be thought of as God. One of the leading questions in my book is, did Jesus think that he himself was God? (0:26:51)

I devote a chapter to that and I answer emphatically, no. Jesus did not think about himself as God, he did not call himself God. Jesus would have gone crazy if somebody told him they thought he was God, in my opinion. And I explain why, on historical grounds, it certainly is the case that Jesus didn't consider himself God. It is true that in one of our Gospels of the New Testament, the Gospel of John, Jesus identifies himself as God. Jesus, in the Gospel of John, talking about the ancestor of all the Jews, Abraham, who lived 1,800 years earlier. (0:27:32)

Jesus says to his Jewish opponents, before Abraham was, I am. He lived 1,800 years earlier? Not only that, but the phrase, I am, is the name of God in the Old Testament. When Moses asks God, what is your name? God tells him, my name is I am. Jesus claims, I am, and his Jewish opponents know exactly what he is saying. They take up stones to stone him to death. (0:28:00)

A couple chapters later, Jesus, again to his Jewish opponents, says, I and the Father are one. Again, they break out the stones. A few chapters later, Jesus tells his followers, if you have seen me, you have seen the Father. Jesus makes these claims for himself in the Gospel of John. There is no doubt about that. The question is, did the historical Jesus make those claims about himself? (0:28:30)

What I argue in the book is that Jesus almost certainly did not. I give a number of arguments for it, but I will just tell you one of them, which is... John is our last Gospel to be written. It is probably written, I don't know, 60-65 years after the death of Jesus. We have earlier Gospels, Matthew, Mark, and Luke. And to some extent, we can reconstruct the sources behind Matthew, Mark, and Luke. If you look at Matthew, Mark, and Luke, and you look at all the sources behind Matthew, Mark, and Luke, Jesus never says these things about himself. (0:29:06)

Now, if Jesus, historically, were going around calling himself God, would somebody who wanted to write an account of his life leave that part out? (0:29:20)


Like, that part would not be important enough to mention? It is not in any of the earlier Gospels or sources, but it is in our latest. Why? Because it is not something that was historical, it was a later theological development put on the lips of Jesus. So, anyway, I devote a chapter to showing that Jesus did not call himself God. Why then did his followers start calling himself God? (0:29:44)

This is the key to the book. And it is the key to this whole question of how Jesus became God. Jesus' followers did not think he was God during his life. They certainly did not think he was God when he got crucified. But some of them came to think that he got raised from the dead. And that is what led them to call him God. So the question is, what happened to make people think that Jesus was raised from the dead? (0:30:19)

Christian apologists today will argue that there are all sorts of reasons for thinking Jesus was raised from the dead. When I was a Christian apologist, I used to get up on stage like this and argue and prove that Jesus was raised from the dead. And here is the proof. One of the proofs that is commonly said is that Jesus' tomb was found empty on the third day. (0:30:39)

That Jesus' tomb was found empty on the third day. And then what you do if you are an apologist, you say, well, why was the tomb empty? Everybody agrees it was empty, so why was it empty? Did somebody steal the body? Well, that is unlikely because of this reason, that reason, that reason. Did they go to the wrong tomb? Well, that is unlikely because of this reason, this reason, that reason. (0:30:59)

You come up with the possible explanations. And you rule them out and then you say, since none of these explanations works, Jesus must have actually left the tomb alive. So, in my book I argue that, in fact, there was not an empty tomb. That Jesus probably was not given a decent burial. My reason for thinking that and for arguing that is that we know something about Roman practices of crucifixion. (0:31:31)

And the normal Roman practice of crucifixion was to leave bodies on the cross for several days so the body would decompose and be eaten by scavengers. That was part of the punishment. It was not simply the horrific and slow, tortuous death of crucifixion that was the punishment. It was also the fact that you were not going to be given a decent burial. Everybody in the ancient world wanted a decent burial. (0:32:01)

But crucified victims were not given a decent burial as part of the punishment. And the ravages wreaked on their body were also part of the punishment. They were left on the cross for days. And so the only question is, was there an exception in the case of Jesus? And I argue that there probably was not an exception in the case of Jesus. Probably his body was left on the cross and then was eventually thrown into a common grave. (0:32:24)

So, it wasn't the discovery of an empty tomb that led anybody to believe that Jesus was raised from the dead. (0:32:30)


I argue in the book what led people to think Jesus was raised from the dead is that some of his followers had visions of him afterwards. Some of his followers had visions of him afterwards. This is an explanation that works for people of faith as well as for agnostics and atheists. People of faith would say the reason the disciples had visions of Jesus is because he was raised from the dead and he appeared to them. (0:32:58)

People who don't believe in the resurrection would say the reason people believed in the resurrection, the visions they had, were hallucinations. And so I spend a chapter in my book talking about what we know about hallucinations. It's interesting, there are two of the most common forms of hallucination. By the way, one out of eight of us has hallucinations. One out of eight of us has had or will have a vivid hallucination that we really believe. (0:33:27)

And there are two most common types. One common type is a deceased loved one. You know, you see your grandmother in your bedroom two weeks after she died. Happens a lot. And it's not only seeing, you can hear them, you can talk with them sometimes, you can touch them. You physically experience this person's presence. It happens a lot. The other most common vision is revered loved ones. (0:33:53)

I'm sorry, not revered loved ones, revered religious figures. Revered religious figures. I have had Christian apologists tell me that there is no such thing as a mass hallucination. So the hallucinations of Jesus don't work because lots of people saw them at the same time, and so it doesn't work because you can't have a mass hallucination. Precisely these Christian apologists, who are all Protestants, who want to argue that you can't have a mass hallucination. (0:34:21)

Precisely these people are the people who deny that the Blessed Virgin Mary has shown up to hundreds and thousands of people at once, even though it's completely well documented by eyewitnesses. Why do they deny it? Because they don't believe it happened. But if they don't believe it happened, they believe in mass hallucinations. Because it's very well documented. So you either believe in mass hallucinations or you don't. But you can't have it both ways. (0:34:50)

So it is interesting that the two most common hallucinations are of deceased loved ones and revered religious figures because Jesus was both. And so it's not surprising that his followers had hallucinations of him. As I assume that they were. So once the followers of Jesus came to think that he was no longer dead, they thought, well they knew that he wasn't still here. (0:35:22)

In other words, they didn't think that Jesus had a near-death experience. It wasn't that his body was reanimated because his body wasn't here. He didn't return to Galilee to start getting into controversies with the Pharisees again. Or he didn't go back to Capernaum to do this or that. He's not here. (0:35:42)


Well, if we know he got raised from the dead because we saw him and he's not here, where is he? He must have been taken up to heaven. And so their immediate thought was that Jesus had been taken up to heaven. And what does an ancient person think if they think that someone's been taken up to heaven? They think he's been made a divine being. (0:36:02)

That started the idea that Jesus is God. As soon as they thought that Jesus had been raised. In the New Testament itself, there are different authors who have different understandings of what it means to call Jesus God. Remember I said there are three ways in the ancient world that it could happen. And all three ways are applied by different Christians to Jesus. There are Christians in the New Testament who think that when Jesus was raised, he was made God. So he's exalted to the divine realm. (0:36:41)

I think that's the view of the Gospel of Mark, our earliest Gospel. Mark, though, doesn't think it happened at the Resurrection. The earliest Christians thought it happened at the Resurrection. But as Christians thought more about this, they thought, well, actually, it must not have just been at the Resurrection he was made God. He must have been the Son of God during his entire ministry. (0:37:01)

And so the first thing that happens in Jesus' ministry in the Gospels is he gets baptized. Mark's Gospel begins with Jesus getting baptized. And when he gets baptized in Mark's Gospel, a voice comes from heaven and says, You are my Son in whom I am well pleased. Jesus is made the Son of God at his baptism. As Christians thought about it more, they thought, well, it wasn't just during his ministry that he was the Son of God. He must have been the Son of God from his entire life. (0:37:29)

And so there developed traditions in Christianity, like this idea of a God coming down and having sex with a mortal. There developed the idea that God got Jesus' mother pregnant. That's where you get the virgin birth traditions, which are not in Mark, but they are in Luke. In Luke's Gospel, the reason Jesus is the Son of God is because the Holy Spirit makes Mary pregnant, even though she's a virgin. (0:37:55)

So Jesus is literally the Son of God. As Christians thought about it more, they started to think, well, he wasn't just the Son of God during his entire life. He must have always been the Son of God. There developed the idea then that Jesus actually had existed before he was born. That he was a pre-existent divine being who became human temporarily. Like the third way of becoming a divine human in the ancient world. (0:38:21)

And that's what you get in the Gospel of John. In the Gospel of John, Jesus is a pre-existent divine being who comes into the world as a human and then leaves it afterwards to return up to heaven. (0:38:33)


So, the ideas about Christ developed already within the New Testament. By the time you get into the second century, virtually all Christians are saying that Jesus is God. That led to some problems for Christians. The most obvious problem was, if Jesus is God and God is God, don't we have two gods? And if you throw the Holy Spirit into the mix, don't we have three gods? (0:39:05)

So, aren't we really polytheists? Christians wanted to say, no, we're not polytheists, we're monotheists. Yeah, but you just said that God's God and Jesus is God and the Spirit is God, so you're not a monotheist. No, we are monotheists. Well, how does that work exactly? So, there were debates in the second and so the end of my book, I deal with these debates in the second, third, fourth centuries about this kind of thing. (0:39:26)

There were some clever solutions to this problem. There was one group of thinkers that was the dominant view at the end of the second Christian century that said, it's a view that modern scholars have called it modalism. It's modalism because it insists that God exists in three modes. So, I myself, as a human being, I personally am a son and I'm a brother and I'm a father all at the same time. (0:39:58)

But there's only one of me. And so, God is like that. He's got three modes of existence. He's both Father, Son, and Holy Spirit, but there's only one of him. So, that was a view that was dominant for a long time, but it ended up being declared a heresy. Because it didn't emphasize the distinctiveness of the three enough. People started saying, well, look, it can't really be that way because when Jesus prays in the New Testament, he's not just talking to himself. (0:40:26)

And so, there's something else. So, they ended up with the idea that, in fact, there are three distinct beings, all three of whom are fully God. They're distinct from one another. They're all fully God. They are all equally God. But there's only one God. That's the doctrine of the Trinity. That there's one God manifest in three persons. And it doesn't make sense, rationally. (0:40:55)

And it's not meant to make sense rationally. If anybody who says they understand the doctrine of the Trinity, misunderstands it. Because you can't understand it. So, I end my book by talking about the controversies that ended up with how Christ came to be thought, not merely as a divine being who became a divine being, but came to be thought of as equal with God the Father, and someone who had always existed from eternity past. (0:41:21)

I talk about the developments that led to that. What in this book would be offensive to fundamentalists? Apart from most of it. Two things would be especially offensive to conservative Christians. One is my claim that Jesus did not call himself God. And that Jesus did not understand himself as God. The historical Jesus did not understand himself to be God. That would be offensive to conservative Christians. The second thing that would be offensive, and has been offensive, is my claim that Jesus did not get a decent burial. (0:41:59)

That he was not buried by Joseph of Arimathea, and that his tomb was not discovered on the third day. (0:42:05)


Those two are the outstanding claims that especially would be, and have been, offensive to people. What should be offensive to other Christians? Say, to liberal Christians, mainline denominational Christians. My view is that nothing in the book should be offensive to other people of faith who are not fundamentalists or conservative evangelicals. I had four friends of mine read the book. Four scholars who all self-identify as Christian. And none of them had problems with any of it. (0:42:35)

Because there are smart Christians in the world, and who are critical scholars. And just because they are people of faith, doesn't make them fundamentalists. Well, why don't I go after all the Christians though? Why not just really stick it to them? Here I get back to, and I'll close with the next few comments. I get back to what I started off saying. My goal as an agnostic scholar of religion is not to attack religion. (0:43:06)

My goal is to educate people about the history of early Christianity, and to help people be more thoughtful about whatever it is they believe or don't believe. Whether they happen to be Christian, or Jewish, or Muslim, or Buddhist, or pagan, or agnostic, or atheist. My goal is to try and help people think more about what it is they believe or don't believe. Some people have accused me of mocking others who differ from my perspectives. (0:43:38)

But in fact, the only groups that I mock are fundamentalists, because they deserve it, and authors who pretend to know what they're talking about when in fact they're clueless. There are plenty of authors like that among both Christians and atheists. And I can tell you from personal experience, neither group likes to be mocked. As they let me know. But I don't think that people of faith as a rule are idiots. (0:44:10)

Faith is not a matter of smarts. Next week I am going to the beach, as I do every year, with my best friend, Dale Martin, who teaches New Testament at Yale University. The senior professor of New Testament at Yale. And my wife, Sarah Beckwith, who is a chaired professor of English at Duke University. Both of these people are flat out smarter than me. (0:44:37)

Especially Sarah. They are both smarter than me. And both of them are Christians. And if you ask either one of them, is Jesus God, they would both say yes. But it's not a matter of smarts. And so I don't think that there's any point in pretending that Christians are all idiots. Because they're not idiots. I don't believe in attacking people for their intelligent understandings of the world, even when they disagree with my understanding of the world, unless they're religiously fundamentalist or socially dangerous. (0:45:13)

Then I think they are worth attacking. In part, I don't believe in going for the jugular of every person of faith, because I don't think that anyone has been converted to a new point of view that way. (0:45:26)


When I was in seminary, and I was a conservative evangelical, my first semester I took a course with a fairly radical professor of New Testament who had extremely liberal views, and he had no impact on me whatsoever. Because he was so different from me, and so opposed to everything I thought, that I put up barriers and didn't want to hear it. And so I didn't hear it. (0:45:51)

The second semester, I took a course on the New Testament with a very caring, loving, pious scholar who was sensitive to my points of view, and who listened to me, and had some differences, but he was very gentle, and he started the process of my deconversion. Because I didn't put up the barriers. People are converted by love, not by hate. They're converted by an attractive alternative, not by vitriol. (0:46:28)

They're converted by patient and loving and intelligent explanation, not by harsh, brow-beating rhetoric. Now, I know many Christians would be surprised to hear me say this, because as I pointed out, I do have a reputation for being aggressive and hard-hitting and controversial. But I don't see myself that way. I see myself as someone who's passionate for the truth, who's willing to lay it out in clear and stark terms as necessary, even if that offends somebody's religious sensibilities. (0:47:06)

Or, I might add, their mythicist sensibilities. My goal, though, is not to offend. It's to educate people about the history of early Christianity, and especially to get people to think. If anyone finds my views offensive, whether fundamentalist or mythicist, I firmly believe that's not because I'm an iconoclast, but because some people just don't want to consider dispassionately and even-handedly points of view other than their own. (0:47:36)

That lies at the heart of fundamentalist. I don't think that freedom from religion means browbeating everyone we know into submission to our agnostic or atheist views. It means ourselves being able to live in an environment where we're not forced to live according to religious standards and perspectives pushed on us by others. But if we don't want religion forced on us, then we should not cynically or hypocritically force our atheism on others. (0:48:11)

We should live and let live in mutual respect and thoughtful consideration, carefully explaining our points of view and showing why they are superior to the views of faith. That superiority has to be shown in how we cherish and live our lives. Being free from the imposition of religion does not mean being free from the good benefits that have helped society in the name of religion. (0:48:43)

If agnostics, atheists, and skeptics want to compete with the religions of the world, they need to become an equally significant player in dealing with the problems of the world. We need an agnostic, atheist, and skeptical presence in the world that can rival the institutions of the faith communities throughout the world. I know about the Church of Christ, the Westboro Baptist Church, the Vatican, the Archbishop of Canterbury, the Mormons, and the Durham Rescue Mission. Why don't I know about the comparable institutions and social structures of atheists, agnostics, and skeptics? (0:49:25)

Why isn't the Freedom From Religion Foundation in the news as much as the Southern Baptist Convention? (0:49:32)


Non-theist organizations that are free from religion need to become as recognizable as the Baptist Church on the corner and the Episcopal Church up the street. They need to be seen as the first responder when the hurricanes and earthquakes and famines hit. They need to be seen as a major force in the fight against poverty, homelessness, malaria, AIDS, or name your epidemic. They need to be seen as a vibrant and viable alternative to the religions of the world, which often do so much harm while trying to do good. (0:50:09)

Whatever else we might say about organized religion, it cannot be denied that religion is often the catalyst for much of what is good in the world. But it shouldn't be the only one, especially since so many people are silenced, oppressed, and harmed by religion. We want to be free from the imposition of religion, and we would like others to be free from the superstitions of religion. (0:50:37)

But once these people are freed from the bonds that bind them, they need to be liberated not only from something, but also for something. Humanists need to have something and some place to give people to replace what they lose when they leave their faith. That, in my opinion, should be the leading goal and objective of every humanist organization. And I hope the Freedom From Religion Foundation and all of us can help to make it possible. Thank you very much. (0:51:09)

I'm sorry? I do not see evidence in archaeology or history for a historical piece. Yeah, well, I do. I mean, that's why I wrote the book. Okay, yeah, I mean, I have a whole book on it. So, there is a lot of evidence. I mean, there is so much evidence that it is not... I mean, I know in the crowds you all run around with, it's commonly thought that Jesus did not exist. (0:51:40)

Let me tell you, once you get outside of your conclave, there's nobody who... I mean, this is not even an issue for scholars of antiquity. It is not an issue for scholars... There is no scholar in any college or university in the Western world who teaches classics, ancient history, New Testament, early Christianity, any related field, who doubts that Jesus existed. Now, that is not evidence. That is not evidence. Just because everybody thinks so doesn't make it evidence. (0:52:12)

But, if you want to know about the theory of evolution versus the theory of creationism, and every scholar in every reputable institution in the world believes in evolution, it may not be evidence, but if you've got a different opinion, you better have a pretty good piece of evidence yourself. The reason for thinking Jesus existed is because he is abundantly attested in early sources. That's why. (0:52:39)

And I give the details in my book. Early and independent sources indicate certainly that Jesus existed. One author that we know about knew Jesus' brother and knew Jesus' closest disciple, Peter. He's an eyewitness to both Jesus' closest disciple and his brother. (0:53:02)


I mean, I'm sorry, but again, I respect your disbelief, but if you want to go where the evidence goes, I think that atheists have done themselves a disservice by jumping on the bandwagon of mythicism. Because, frankly, it makes you look foolish to the outside world. If that's what you're going to believe, you just look foolish. You are much better off going with historical evidence and arguing historically, rather than coming up with the theory that Jesus didn't exist. (0:53:41)

Sorry. Yes. Yes. My question is about other... you talked about the fundamentalist scholars, if you can call them that. My question is, even though they might, like yourself, where you may have had sort of this wall in front of you, before you kind of peeled back layers, how is it possible for some of these folks to claim to be biblical scholars, where they study ancient Greek or Hebrew, to continue on like that for 20, 30, 40 years? (0:54:13)

Are they not introduced to some of the same evidence that you see? Are you talking about fundamentalists, or are you talking about just other biblical scholars? Well, fundamentalists primarily. Yeah, fundamentalists. Yeah, no, I'll tell you. I mean, the thing about fundamentalism is that it's a completely coherent system internally. It's an internally coherent system. And it's a closed system. So if you've got a closed system that's internally coherent, it's very hard to make any inroads into it. (0:54:41)

And so, since it's internally coherent, and since there is such a very strong social fabric keeping it together, you just, you can't convince a fundamentalist that he or she's wrong. You just can't do it. You can point to any contradiction in the Bible, and it just doesn't matter. They'll just say, either they'll figure some way to reconcile it, or they'll say, well, I just believe that even though I don't understand, God does understand. (0:55:12)

And so, there's just no inroads. I had a student this semester, a lovely young woman, who was just a flat-out fundamentalist in my New Testament class. It just ended last week. In my class, I require every student in class to engage in a class debate in their small group recitation. So, the class itself is 250 students, but every student is in a 20-person recitation. (0:55:38)

And everybody in that recitation has to be involved in a debate. And the debates are on controversial topics. The first debate is, resolve the Apostle Paul's views of women were oppressive. That debate, I used to call that debate, the resolution used to be, resolve the Apostle Paul was a misogynist. But I realized after a while that some of my students didn't know what misogynist meant. (0:56:00)

And that led to some very interesting debates. The second debate is, resolve Paul and Jesus represented fundamentally different religions. The third debate is, resolve the New Testament condemns modern practices of homosexuality. So, some students have to argue affirmative, some have to argue negative on both of these. (0:56:21)


This woman was assigned to argue that the New Testament does not condemn modern practices of homosexuality. She refused to do it. She would flunk the class rather than argue against her faith. I said, geez, you've got to be kidding me. I've taught 20,000 students. I've never had a student refuse. I said, look, you're not arguing. You think this. You just have to argue what other people think. (0:56:43)

Nope, I refuse. I'm not going to do it. So, I made her write a 20-page term paper instead. But, after the course was over, she wrote me an email two days ago. Dr. Ehrman, I'm praying for you, and I just pray that you'll see Jesus Christ as your Lord and Savior. And I wrote her back, and I said, thank you, I really appreciate that. (0:57:02)

I hope that you will pursue the truth no matter where it takes you. You know, I'm just thinking, maybe in five years. She writes back, no, you don't understand. I'm praying that you'll understand. Okay, whatever. I just don't think there's any way in, really. I have a question about the theological developments you were talking about, especially considering the Jewish nature of the Jesus movement. (0:57:29)

Of course, in the Old Testament, there's very little examples of resurrection, and when it happens, it happens with a human agent. There's a lot of fertility problems, but no virgin birth. But around the time of Jesus, and in the same area, you've got a ton of pagan religions. Obviously, you just mentioned about several figures who were divine. You've got Addis, and Mithra, and Horus, and people that have virgin births, and then you have resurrections as well that don't require human agents. (0:57:54)

So what I'm wondering is, when you have these elements of pagan theology kind of infused in Christianity, how do you account for that over the development, or do you? Yeah, thank you. You know, it is a modern myth that there were lots of accounts of people being born of virgins, and on December 25th, and that they were crucified, and that they were buried and raised from the dead. (0:58:19)

It's actually a modern myth. Mithras was not born on December 25th. His mother was not a virgin. Osiris is not raised from the dead. People say that, but the people who say that don't know the ancient sources. The ancient sources, in fact, don't bear that out. There are a number of things, though, that are common to pagan religions. In my book, I talk about Apollonius of Tiana, who didn't have a virgin birth, but he had a spectacular, miraculous birth. (0:58:49)

He was understood to be the son of God. He could heal the sick. He could cast out demons. He could raise the dead. At the end of his life, he ascended to heaven. And so, I mean, it sounds a lot like Jesus. So what's that about? Well, what it's about is the Christians are speaking in terms that the people around them can understand, and their understanding of Jesus is, of course, borrowed from the environment. (0:59:10)

The only way we understand anything is in relationship to what we already know. (0:59:15)


And so, what they knew were these stories, and so Jesus was told in light of the stories. That's absolutely right. So I do talk about that at some length in my book. Looks like I have time for one more question. Just wanted to know if you must be familiar with the Corruption of Christianity by Joseph Priestly. Yes. And wondered if you could make any comments. (0:59:35)

Yeah, you know, I don't have any comments to make because it's been so long since I've even thought about it. Yes, I'm sorry. Well, let me thank you again for this award and for being here today. Thank you very much. Yeah, so, right, I'm Bart Ehrman. I identify as both a humanist and an agnostic. And are you openly agnostic? What do you mean openly? (1:00:03)

Do people know it? Do your family know it? Am I in the closet? Yes, I'm quite openly agnostic. Everybody knows it. So just writing books about it means you're open, huh? Well, if anybody reads my books, they know I'm an agnostic, yeah. That's great. Now, and I find it interesting, having read most of your books, how you talk about that you weren't always agnostic. (1:00:25)

No, I started out as an evangelical Christian. I got interested in biblical studies because I was actually a fundamentalist as a late teenager, and that's what got me interested in the Bible. But as I developed my scholarship through graduate school, I realized that my beliefs about the Bible were completely wrong, that the Bible is not some kind of inerrant revelation from God. And so for years, I had become a liberal Christian. I still went to church. (1:00:57)

I still believed in God. But I didn't believe that the Bible was the inspired word of God. But after many years of being a liberal Christian, I finally became an agnostic for reasons unrelated to my scholarship, reason having to do with why there's suffering in the world if there's a God who's in control. For years, I had thought about it. I read what biblical authors said. (1:01:20)

I read what theologians said. I read what philosophers said. And I got to a point where I just didn't believe it anymore. And so I just acknowledged at one point then that I'm probably an agnostic and that's what I've been for maybe 15 or 16 years. It sounds like it was a very gradual process. It was. (1:01:44)

I've heard people say that I went from being a fundamentalist to being an agnostic because of problems in the Bible. That's completely wrong. It was a very long process. I was a very open-minded liberal Christian for many, many years. And it was really this problem of suffering that ended up creating the big issue for me that led me to acknowledge that I'm an agnostic. (1:02:04)

Has your family, was there any issues with coming out to them? Were they very religious? Did that bother them that you had given up your belief? (1:02:13)


When I was an evangelical Christian, most of my family converted to evangelical Christianity in my wake. So when I left the Christian fold, they did not leave with me. And so they're still there wondering where I went. So you're an evangelical agnostic, I guess. Yes, that's right. The thing is, I don't really believe... When I was an evangelical Christian, I believed in converting everybody to my point of view because I thought if you didn't agree with me, you were going to roast in hell. (1:02:45)

And so I was very evangelistic. I'm not evangelistic as an agnostic because I ultimately don't think that... I mean, it certainly doesn't matter for somebody's afterlife because I don't believe there is an afterlife. And I'm not that interested in people converting to what I think. What I'm interested in is getting people to be more thoughtful about whatever they believe or don't believe. And so I'm not interested in converting anybody, actually. (1:03:13)

You talk about in your books how many people who become ministers and learn these same facts of the Bible seem reluctant to share that with their congregations. Why do you think that is? Well, pastors learn the kind of material I teach in seminaries or divinity schools if they go to a mainline denominational school. If they go to a fundamentalist seminary, of course they don't learn this unless they learn it in order to attack it. (1:03:39)

Or an evangelical school wouldn't teach this kind of material. But Lutheran, Episcopalian, Methodist, Presbyterian seminaries teach this kind of material. And yet, when the people who go through that training become pastors, they tend not to tell their congregations. And I think it's because they're afraid to make waves. They don't think that people will be welcoming of it. They don't think people are ready for it. (1:04:04)

There's some issues of job security. They want to keep their job, and so they don't want to ruffle too many feathers. But I think it's too bad, because churches have education programs, and it's a pity that people aren't getting educated. There are adult education programs in most churches, but adults, they don't actually get educated. They sit around and talk about other issues, but they don't talk about the things that really most people are interested in, which is, what does one think about the Bible? (1:04:32)

What does one think about theology? Do you think, though, that they may feel that this may put too many doubts in people's minds? Yeah, possibly. I think pastors tend not to be in the business of generating doubt. Professors at universities, that is our business as professors, because our goal is to get people to think, but pastors generally don't see that as their goal, and so they tend to shy away from these various issues that would cause problems for people. (1:05:02)

But the result is, it means that they've got parishioners who really don't know anything about what scholars are saying about the material that they're most interested in, which I think is a real pity. (1:05:11)


I guess when you were an evangelical, you believed with a high degree of certainty that Jesus did rise from the dead. Why do you think you held that belief? What was it based on? Why did I think Jesus was raised from the dead? Well, it's what I was raised to believe. I mean, from the time I could think, I knew that Jesus was raised from the dead, so it wasn't that I started out neutral on the question and then weighed the evidence and then decided. (1:05:36)

This is what I grew up on. And so it's like asking, why do you believe the world is round? I mean, well, I grew up thinking that, and then later I found things that made me think it was right. And so in my case, what is it that later made me think it was right? It was probably my religious experiences. I thought that Jesus was a living person who was interactive with me, and for that to happen, he must have been raised from the dead. (1:06:02)

And so I started out with a belief, and then my later experiences confirmed that belief. And then when I became an agnostic, I obviously didn't think Jesus was raised from the dead, because that would require a miracle and would require God to do the miracle, and I don't believe in God. So I now have to explain the historical data in a different way, in a way that seems to me to be more convincing now, that what happened is the disciples had visions of Jesus. In my opinion, they were probably hallucinations. (1:06:36)

And this convinced them that he was raised from the dead, and that started Christianity. (1:06:40)

(2024-12-31)