Sadhguru : 自身の「異界の存在」との遭遇体験を語る
前置き
Sadhguru は幼い頃から神秘主義者的な素質を顕していた(具体的な内容は過去記事で述べた)ので、「異界の存在」との遭遇体験があっても不思議ではない。
むしろ驚きは、これほどインド訛の強い英語を Whisper が(インド文化特有の単語を含めて)見事に文字起こしできていること。
Sadhguru も「異界の生物」が実在すると思い込んでいるのは、他のオカルト・ファンと同じだが、それらの 異界の生物 に 精神的/宗教的 な価値を認めていない点が大きく異なる。
概要
異界の存在と意識の探求
この文書は、ヒンドゥー教の指導者サドゥグル氏の講演の転写であり、他の領域から訪れる存在について論じています。
サドゥグル氏は、インドとギリシャの文化がこれらの存在について広範囲に記録していると指摘し、ヤクシャ、ガンダルヴァ、ガナといった多種多様な存在が挙げられています。彼は、オカルトが精神的な探求以上にこれらの存在を探求することが多いと説明し、また仏陀が瞑想中に遭遇した様々な存在についても言及しています。
さらに、サドゥグル氏は、自身が認識可能な形で出会った「異界の存在」について個人的な体験を語り、それらが人間には理解しにくい形態をしている可能性があると示唆しています。
彼はまた、ガネーシャ神がガナの長であるガネーシャとしてどのように描かれ、人間が親しみやすい形に変化したかについても触れ、人間が異形の存在を自分たちの理解できる形に解釈・変形してきた過程を解説しています。
目次
音声対話
詳細
Sadhguruの「異界の存在と意識の探求」に関するブリーフィングドキュメント
概要
この文書は、ヒンドゥー教の指導者であるSadhguruによる「異界の存在と意識の探求」と題された発言の抜粋をレビューするものです。Sadhguruは、インド文化とギリシャ文化において記述されてきた多種多様な「異界の存在」について語り、特に彼の個人的な経験と、これらの存在が人間の精神的探求において果たす役割について考察しています。
彼の経験は、伝統的な記述と実際の観察との間に存在する可能性のある乖離、そして人間の知覚と理解がこれらの存在をどのように形成してきたかを示唆しています。
主要なテーマと重要な事実
異界の存在に関する文化的な記録:
- Sadhguruは、異界の存在を「明確な形」で記録している文化として、インド文化が最も広範であり、ギリシャ文化もある程度記録していると指摘しています。
- インド文化には、「ヤクシャ(Yakshas)、ガンダルヴァ(Gandharvas)、ガナ(Ganas)、キンナラ(Kinnaras)、アプサラス(Apsaras)、クリッティカス(Krittikas)」など、11〜12種類以上の明確に認識された異界の存在がいます。
- ギリシャ文化も同様に多くの存在を認識しています。
- こうした異界の存在に関する膨大な資料が、チェンナイのアディヤールにある神智学図書館に収蔵されているとSadhguruは述べています。
オカルトと精神的プロセスにおける異界の存在の探求:
- Sadhguruは、これらの存在を「オカルト」が精神的プロセスよりもはるかに多く探求していると主張しています。オカルトは「必要な力、知性、アクセスを持つ何らかのエンティティを、彼らの利益のためにどのように奴隷化し利用するか」を探求するからです。
- しかし、精神的プロセスにおいても、ガウタマ・ブッダ自身が彼の修行中に遭遇した様々な種類の存在について多く語っていると述べています。
Sadhguruの個人的な経験と観察:
- 特にDhyanalingaの奉献に向かっていた時期に、Sadhguruは日常的に様々な種類の異界の存在に遭遇したと語っています。
- 彼はこれらの存在を「カテゴリー分けしたり、名前を付けてこれがこれで、あれがあれだと断言するのは得意ではない」としながらも、「エネルギー、外見、あらゆる点で明確に異なっている」と述べています。
- 彼の観察によれば、これらの存在は「非定形な形をしているが、二次元の段ボールのように歩き回り、動き回り、音を立てていた」。
- 彼らが発する音は「私たちが作るような種類の音、つまり私たちがコミュニケーションに使う周波数帯域のどこかにあるような音」であり、時には他の人間にも「彼が誰かと話している」かのように聞こえるほどでした。Sadhguruは実際に話してはいませんでしたが、存在たちは騒音を立てていたのです。
- これらの存在は彼の精神的な探求において「精神的な意義は何もない」ため、Sadhguruは彼らに注意を払うことをしませんでした。彼らは「単なる実存的な結果」であり、「あなたと同じくらい無知」であり、単に異なる能力を持っているだけだと述べています。「彼らがあなたにとって信じられないように見えるように、あなたは彼らにとって信じられないように見えるに違いない。だから彼らは訪れているのだ。」
伝統的な記述とSadhguruの経験との乖離:
- Sadhguruが遭遇した存在は、伝統的な記述にあるヤクシャやガンダルヴァとは異なると考えています。伝統では「ガンダルヴァを最も美しい人間の姿」とし、「ヤクシャはわずかに異なる種類だが、それでも合理的に人間の形」としています。
- 彼の経験した存在は、むしろ伝統的な記述における「ガナ」に近いかもしれません。ガナは「完全に歪んだ」つまり「人間とは異なる形」とされています。
- しかし、Sadhguruが実際に見たガナは、「私たちが考えるような形を全く持っていなかったかもしれない」と示唆しています。彼が経験したのは「不規則な形」をしており、人間の目で見ると「二次元の段ボール」のようでした。
芸術家と人間の知覚による異界の存在の変容:
- Sadhguruは、寺院などで見られるガナの姿が「人間とは異なる形」であるにもかかわらず、私たち人間がそれを「少し自分たちのように」作ろうとすることで、その姿が歪められてきた可能性を指摘しています。
- 「私たちの人間的な心はそうであり、存在とは少なくとも頭を持っていなければならない。そして私たちは彼をただの球体のように見せることはできない。彼を存在に見せるためには二本の手が必要だ。」とSadhguruは述べています。
- この人間の知覚と、芸術家が「存在」として受け入れられる形に作り変えようとした結果、時間の経過とともに伝統的な記述にある異界の存在の形が変容していったと推測しています。
- その極端な例として、「ガナパティ(Ganasの長)がガジャパティ(象の長)になった」、つまり「ガナが象になった」という例を挙げています。これは、本来「ガナ」であった存在が、人間が受 け入れやすい「人間の体とガナの頭」を持つ形、そして最終的には「象の頭」を持つ形に変えられていった過程を示唆しています。これは「非常に大きな変化」であり、人間が異界の存在を「自分たちに似ているから」という理由で受け入れた結果であるとSadhguruは見ています。
結論
Sadhguruの語りは、異界の存在が単なる神話的な物語ではなく、彼の個人的な経験においても実存的な現象であったことを示唆しています。しかし、これらの存在が人間の精神的進化に直接的な影響を与えるものではないと彼は強調しています。
むしろ、彼の経験は、伝統的な記述と人間の知覚、そして芸術的な表現がどのように異界の存在の認識と表象を形成してきたかという、より深い問いを投げかけています。人間が理解し、受け入れやすい形に無意識的に、あるいは意識的に変容させてきた結果、私たちが今日知る異界の存在のイメージが作り上げられたという洞察は、非常に重要な点です。
インド文化における存在の種類
異界の存在のより大きな文脈において、これらの情報源はインド文化における存在の種類について以下の点を述べています。
インド文化は、ギリシャ文化とともに、「異界の存在」について広範囲にわたる文書化を行っている数少ない文化の一つです。これらの文化は、特定の形態を持つ存在について記述しています。
インド文化で認識されている存在の種類: サドゥグル氏によると、インド文化には以下のような明確に認識されている異界の存在が、少なくとも11〜12種類存在します。
- ヤクシャ(Yakshas)
- ガンダルヴァ(Gandharvas)
- ガナ(Ganas)
- キンナラ(Kinnaras)
- アプサラ(Apsaras)
- クリティカ(Krittikas)
異界の存在の探求: これらの異界の存在の側面は、精神的なプロセスよりも「オカルト」によって多く探求されます。オカルトは、これらの存在が持つ力、知性、アクセス能力を利用し、彼らを「奴隷化」して自己の利益のために使おうとします。しかし、精神 的なプロセスにおいても、ゴータマ・ブッダ自身も修行中に多くの異なる種類の存在に遭遇したと語っており、特定の側面に入ると遭遇することは避けられないとされています。
サドゥグル氏の個人的な経験と伝統的記述との比較: サドゥグル氏自身も、特にディヤーナリンガ(Dhyanalinga)の聖別に向けて作業していた際、「日常的にあらゆる種類の」異界の存在に遭遇したと述べています。
- 彼はこれらの存在を分類したり名付けたりすることに長けていないとしながらも、エネルギー、外見、その他すべてにおいて「明らかに異なる」と断言しています。
- 彼はこれらの存在に注意を払うのは多くの点で無駄だと感じており、彼らが自分にとって「いかなる精神的意義も持ち得ない」と認識すると、すぐに注意をそらしました。
- 彼らは「実存的な結果」に過ぎず、存在そのものを探求するなら意味があるが、精神的な探求においては役に立たないとされています。なぜなら、彼らは「あなたと同じくらい無知」であり、単に異なる形態をしているに過ぎないからです。彼らは人間には信じられないような能力を持っているかもしれませんが、人間の能力も彼らにとっては信じられないものであり、それが彼らが訪れる理由だと推測しています。
- サドゥグル氏が見た存在は、不規則な形をしており、二次元の「ダンボールが歩き回る」ようであったと描写されています。また、彼らは「非常にうるさく」、時には人間の周波数範囲で騒音を立て、他の人が サドゥグル氏が誰かと話していると誤解するほどでした。
しかし、サドゥグル氏は、自身が遭遇したこれらの存在が、伝統的に語られるヤクシャ、ガンダルヴァ、ガナのいずれの記述にも合致しないと考えています。
伝統的なインドの存在の描写:
- ガンダルヴァ: 「最も美しい人間の形」として記述されています。
- ヤクシャ: やや異なるものの、「比較的人間の形」をしています。
- ガナ: 「完全に歪んだ」形、つまり人間とは似ていない形をしています。シヴァ神自身がガナであるため、ガナは人間の意識形成に重要な役割を果たしてきました。シヴァ神は人間と効果的に関わるために人間の形をとりましたが、彼の仲間であるガナは元の形に留まりました。
人間の認識と芸術的変形: サドゥグル氏は、人間が人間ではないものを想像するのが難しいという点を指摘しています。人間は存在を認識する際に、少なくとも頭、手足などを必要とすると考えがちです。そのため、時間の経過とともに芸術家たちはガナの形を変形させ、最終的には「ガナの長」を意味するガネシャ(Ganapati)を「象の長」を意味するガジャパティ(Gajapati)に変えるという「非常に大きな変化」を引き起こしました。これは、ガネシャが人間の体とガナの頭を持つことで「私たちに似ている」と認識され、寺院の内部に受け入れられた一方で、完全にガナの形をしたものは寺院の 外に置かれたという事実から説明されます。
サドゥグル氏は、自身が遭遇した異界の存在が、特定の状況下で地球の物質を使って自分自身を形作ったり、人間が多様な形をしているように、様々な形をとっていた可能性についても推測しています。
探求のアプローチ
異界の存在のより大きな文脈において、これらの情報源は、異界の存在の探求に対するアプローチについて以下の点を議論しています。
インド文化は、ギリシャ文化と同様に、異界の存在について広範にわたる記述と文書化を行っており、特定の形態を持つ存在を明確に認識しています。これらの存在を探求する主なアプローチは、オカルトと精神的プロセスの二つに分けられます。
探求のアプローチ
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オカルト的なアプローチ:
- 情報源によると、オカルトは精神的なプロセスよりも、これらの異界の存在の側面をより多く探求します。
- オカルトの主な目的は、これらの存在を「奴隷化」し、自己の利益のために利用することにあります。彼らは、必要な力、知性、アクセス能力を持つ存在をどのように活用できるか、常に探求しています。
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精神的なアプローチ:
- 精神的なプロセスは、これらの存在をオカルトのように積極的に「探求」するものではありませんが、特定の側面へと進むと、これらの存在に遭遇することは必然的であるとされています。
- ゴータマ・ブッダ自身も、自身の修行(サダナ)中に多くの異なる種類の存在に遭遇したことを語っています。
サドゥグル氏の個人的な遭遇と探求への姿勢
サドゥグル氏は、特にディヤーナリンガの聖別に取り組んでいた際、「あらゆる種類の」異界の存在に日常的に遭遇したと述べています。しかし、彼のこれらの存在に対するアプローチは 、オカルト的な探求とは大きく異なります。
- 分類と注意の欠如: 彼はこれらの存在を分類したり、名前を付けたりすることには長けていないとしながらも、彼らが「エネルギー、外見、その他すべてにおいて明らかに異なっていた」と断言しています。しかし、彼はこれらの存在に注意を払うのは「多くの点で無駄」だと感じました。
- 精神的意義の認識: サドゥグル氏は、自身が遭遇した存在の「どれも、私にとっていかなる精神的意義も持ち得ない」と認識した瞬間、すぐにそれらから注意をそらしました。
- 「無知な存在」としての理解: 彼はこれらの存在を「実存的な結果」とは捉えるものの、精神的な探求においては「役に立たない」と見ています。なぜなら、彼らは「あなたと同じくらい無知」であり、単に異なる形態をしているに過ぎないからです。彼らは人間には信じられないような能力を持っているかもしれませんが、人間の能力も彼らにとっては信じられないものであり、それが彼らが訪れる理由だと推測しています。
- 騒音と物理的特性の観察: サドゥグル氏が遭遇した存在は、不規則な形をしており、二次元の「ダンボールが歩き回る」ようであったと描写されています。また、彼らは非常にうるさく、時には人間の周波数範囲で騒音を立て、他の人がサドゥグル氏が誰かと話していると誤解するほどでした。彼は、彼らの音や思考の周波数が人間と合理的におおよそ同じである可能性や、彼らの 体が同じ種類の物質でできている可能性を示唆しています。
- 伝統的記述との比較: サドゥグル氏は、自身が遭遇した異界の存在が、伝統的に語られるヤクシャ、ガンダルヴァ、ガナのいずれの記述にも合致しないと考えています。伝統的な記述では、ガンダルヴァは「最も美しい人間の形」、ヤクシャは「比較的人間の形」、ガナは「完全に歪んだ」形(人間とは似ていない形)とされています。
このように、インド文化では異界の存在がオカルト的または精神的な文脈で異なる方法で探求される一方で、サドゥグル氏の個人的な経験は、それらの存在が必ずしも精神的な進歩に直接寄与するものではないという見方を示しています。
自身の遭遇体験
異界の存在のより大きな文脈において、これらの情報源はサドゥグル氏の異界の存在との個人的な体験について詳しく述べています。
サドゥグル氏の異界の存在との遭遇
サドゥグル氏は、特にディーヤーナリンガ(Dhyanalinga)の聖別に向けて作業していた際、「あらゆる種類の」異界の存在に「日常的に」遭遇したと述べています。これらの遭遇は非常に頻繁であり、彼の日常生活の一部となっていたようです。
遭遇した存在の特徴とサドゥグル氏の認識
サドゥグル氏は、遭遇した存在を分類したり名前を付けたりすることには長けていないとしながらも、それらが「エネルギー、外見、その他すべてにおいて明らかに異なっていた」と断言しています。しかし、彼のこれらの存在に対する態度は、一般的な好奇心とは異なっていました。
- 精神的意義の欠如: 彼は、自分が遭遇した存在の「どれも、私にとっていかなる精神的意義も持ち得ない」と認識したため、それらに注意を払うことは「多くの点で無駄」だと感じました。彼は、これらの存在が「存在的な結果」であるとしながらも、精神的な探求においては「何の役にも立たない」と見ています。なぜなら、彼らは「あなたと同じくらい無知」であり、単に異なる形態をしているに過ぎないからです。
- 能力と相互認識: これらの存在が人間には「信じられないような」能力を持っているかもしれないとしながらも、サドゥグル氏は、人間の能力も彼らにとっては信じられないものであり、それが彼らが訪れる理由だと推測しています。
- 物理的特徴と行動:
- 彼が遭遇した存在は、「不規則な形」をしており、「まるで二次元の...段ボールが歩き回っているよう」であったと描写されています。
- 彼らは「非常にうるさく」、時にはその騒音が人間の周波数範囲で発生し、家の中にいた他の人々がサドゥグル氏が誰かと話していると誤解するほどでした。サドゥグル氏は、彼らの音や思考の周波数が人間と「おおよそ同じ」である可能性や、彼らの体が人間と同じ種類の物質でできている可能性を示唆しています。
伝統的な記述との比較
サドゥグル氏は、自身が遭遇した異界の存在が、伝統的に語られるヤクシャ(Yakshas)、ガンダルヴァ(Gandharvas)、ガナ(Ganas)のいずれの記述にも「合致しない」と考えています。
- 伝統的な描写:
- ガンダルヴァは「最も美しい人間の形」として記述されています。
- ヤクシャはやや異なるものの、「比較的人間の形」をしています。
- ガナは「完全に歪んだ」形、つまり人間とは似ていない形をしているとされています。
- 芸術的変形への推測: サドゥグル氏は、人間が人間ではないものを想像するのが難しいため、時間の経過とともに芸術家たちがガナの形を変形させ、最終的にガネシャ(Ganapati)を象の頭を持つガジャパティ(Gajapati)に変えるという「非常に大きな変化」を引き起こしたと推測しています。これは、ガネシャが人間の体とガナの頭を持つことで「私たちに似ている」と認識され、寺院の内部に受け入れられたのに対し、完全にガナの形をしたものは寺院の外に置かれたという事実によって説明されます。
- 形態形成への推測: サドゥグル氏はまた、自身が遭遇した存在が、特定の状況下で地球の物質を使って自分自身を形作ったり、人間が多様な形をしているように、様々な形をとっていた可能性についても推測しています。これは、彼らが一時的な目的のために人間のような姿を借りる可能性を示唆しています。