道徳は客観的真理などではなく、「行動規範に関する美意識」
前置き
以下、誰も興味を持てない内容なので skip 推奨。
何が問題か?
商人道や武士道は道徳なのか? なぜ、ヤクザやギャングといった犯罪集団の中ですら独自の道徳意識(=例:任侠道)が発生するのか?
道徳がその根幹に抱えている偽善性(さらには「道徳の非道徳性」という自己矛盾)は何に由来するのか?
こういった疑問を解くのが、タイトルのような私の仮説。
正体が不明なもの(道徳)を別の正体不明のもの(美意識)で説明するという筋の良くない仮説だが、「道徳は客観的真理」と言い張る従来の哲学的見解よりは、若干マシ…な筈。
この仮説を更に別の AI で俯瞰し整理した対話があるが、それは後日の別の記事で取り上げる。
対話
Me:
イギリスの現代哲学者 Derek Parfit について解説して。彼を何も知らないという前提で説明して。
デレク・パーフィット:外向的な歴史学生から隠遁的哲学者へ
デレク・パーフィット(Derek Parfit, 1942-2017)はイギリスの現代哲学者で、特に道徳哲学と個人のアイデンティティに関する思想で知られています。
初期の人生と変化
パーフィットは元々、社交的で優秀な歴史学専攻の学生でした。オックスフォード大学で歴史を学んでいた彼は、学業面で非常に優れた成績を収めていました。しかし、彼の人生は大きな転機を迎えます。
道徳的問題、特に「私たちはどのように生きるべきか」「人格とは何か」という根本的な問いに強く惹かれるようになったのです。この関心が彼を歴史学から哲学へと導きました。
隠遁的な哲学者としての生活
パーフィットは次第に、哲学的思考に没頭するようになります。彼は徐々に社交的な生活から離れ、思索と執筆に専念する隠遁的な生活を送るようになり ました。オックスフォード大学のオール・ソウルズ・カレッジで研究に専念し、自分の研究以外のことにはほとんど時間を割かなかったと言われています。
主要著作
パーフィットの代表作に『理由と人格』(Reasons and Persons, 1984)があります。この著作で彼は、個人のアイデンティティ、時間を超えた自己の連続性、そして将来の世代に対する道徳的責任などの問題を扱っています。
彼の後年の大著『重要なことについて』(On What Matters)は、道徳哲学の包括的な体系化を試みた作品で、現代倫理学に大きな影響を与えました。
哲学的貢献
パーフィットの思想は主に以下の点で革新的でした:
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個人のアイデンティティ:彼は「私」という存在が時間を通じて連続していると考えることに疑問を投げかけました。
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未来の世代への責任:現在の行動が将来の人々にどのような影響を与えるかという問題を深く考察しました。
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道徳理論の統合:異なる倫理学理論(功利主義、カント倫理学など)の統合を試みました。
パーフィットの思想は、学問的世界だけでなく実践的な倫理問題(気候変動や将来世代への責任など)にも影響を与えています。元々外向的だった彼が、なぜこのような深遠な道徳的問題に取り憑かれるようになったのかという点は、彼の知的誠実さと真理探究への強い情熱を物語っています。
Me:
こういった道徳哲学を追求する人々は、「所詮、道徳なんて人間社会が創り上げた必要悪としての虚構に過ぎない」という見解に対してどういう反論をしていますか?
道徳的虚構論に対する道徳哲学者の反論
「道徳は単なる社会的虚構に過ぎない」という見解(道徳的非実在論や道徳的虚構論とも呼ばれます)に対して、道徳哲学者たちは様々な角度から反論を展開しています。パーフィットを含む道徳実在論者たちの主な反論をいくつか紹介します。
1. 道徳的事実の客観性
道徳実在論者たちは、道徳的事実や真理は人間の意見や社会的合意から独立して存在すると主張します。パーフィットは『重要 なことについて』で、数学的真理が発見されるのと同様に、道徳的真理も発見されうるものだと論じています。彼にとって「苦痛は悪い」といった道徳的事実は、社会的構築物ではなく客観的な事実なのです。
2. 収斂する直観
パーフィットは、文化や歴史を超えて人々の道徳的直観が特定の点に収斂する傾向があると指摘しています。これは、道徳が単なる恣意的な社会的構築物ではなく、何らかの客観的基盤を持つ可能性を示唆しています。
3. 規範的概念の還元不可能性
多くの道徳哲学者は、「良い」「悪い」「べき」といった規範的概念は、非規範的な事実や社会的慣習に完全に還元できないと主張します。これらの概念は独自の意味と働きを持っていると考えます。
4. 道徳的進歩の説明
道徳的虚構論では、奴隷制の廃止や女性の権利獲得などの道徳的進歩を説明するのが難しくなります。もし道徳が単なる社会的慣習なら、変化はあっても「進歩」と呼べるものはないはずだからです。道徳実在論者は、これらの 変化を「より正確な道徳的真理の発見」として説明できると主張します。
5. プラクティカルな必然性
パーフィットのような哲学者は、道徳的思考が実践的理性の不可欠な部分であると論じます。彼らによれば、行為の理由を考える際、道徳的考慮を完全に排除することは不可能です。この見方では、道徳は人間の合理性そのものに組み込まれています。
6. 反直観的な帰結
パーフィットは、道徳が単なる虚構だとすると、「何をしても構わない」という極端な結論に至ってしまうと指摘します。しかし、ほとんどの人は実際にはそのように生きていません。私たちが日常的に道徳的判断に依拠している事実は、道徳に何らかの実質があることを示唆しています。
7. 非認知主義への応答
道徳的言明が単に感情や態度の表明に過ぎないという非認知主義に対して、パーフィットらは、道徳的議論が可能であること、道徳的意見の不一致が意味をなすことを指摘します。これは道徳的言明に真偽の価値があることを示唆 しています。
パーフィット自身は特に道徳的真理の客観性を強く主張し、道徳が単なる社会的虚構ではなく、私たちが発見できる客観的な真理であると考えていました。彼は道徳的懐疑論を乗り越え、道徳が「重要なこと」であるという確信を哲学的に基礎づけようとしたのです。
Me:
その「道徳が単なる社会的虚構ではなく、私たちが発見できる客観的な真理である」という観点を支持する最大の根拠、それも一般人に説得力のある証拠は何?
道徳的真理の客観性を支持する最も説得力のある根拠
道徳が客観的真理であるという主張を一般の人々に説得力ある形で示すのは、哲学者たちの大きな課題です。以下に、専門的な哲学用語を避けつつ、日常的な経験に根ざした根拠をいくつか紹介します。
1. 道徳的直観の普遍性
世界中のほぼすべての文化において、「無実の人を痛めつけるのは悪い」「約束は守るべきだ」「弱者を助けるのは良いことだ」といった基本的な道徳的直観が共有されています。これらの直観があまりにも広く共有されているという事実は、それらが単なる文化的偶然ではなく、何か普遍的なものを捉えている可能性を示唆しています。
なぜこれほど多様な文化や時代を超えて同様の道徳的直観が現れるのでしょうか?もし道徳が完全に恣意的な社会的構築物なら、このような共通性は説明が難しくなります。
2. 道徳的議論の性質
友人と道徳的問題について議論するとき、私たちは単に「私はこう思う」「あなたはああ思う」と意見を述べ合うだけではなく、理由を挙げて相手を説得しようとします。これは私たちが無意識のうちに、そこに発見すべき何らかの真理があると前提していることを示しています。
例えば、環境問題や動物の権利について議論するとき、私たちは「それが私の好みだから」ではなく、事実や原則に基づいて議論します。これは私たちが道徳的問題を主観的な好みの問題とは異なる種類のものとして扱っていることを示しています。
3. 道徳的進歩の実感
歴史 を振り返ると、奴隷制の廃止、人種差別や性差別との闘い、子どもの権利の認識など、私たちは道徳的「進歩」を経験してきました。これらの変化を単に「社会的規範の変化」としてではなく、「より正確な道徳的理解に向けての進歩」として捉える方が、多くの人の直観に合致します。
私たちは過去の不正義を「その時代の社会的規範だったから仕方ない」とは考えず、「彼らは間違っていた、私たちはより正しい理解に達した」と考える傾向があります。
4. 深刻な道徳的誤りの存在
「ホロコーストは悪くなかった」「子どもを虐待しても構わない」という主張が単に「社会的合意と異なる見解」ではなく、「深刻に間違っている」と感じられるのはなぜでしょうか。これは私たちが道徳的真理の存在を前提としているからです。
たとえ全世界が明日から「無実の人々を苦しめるのは良いことだ」と合意したとしても、それは正しくならないという直観は、道徳が社会的合意を超えた何かであることを示唆しています。
5. 道徳的悩みと内省の意味
私たちが道徳的決断に悩み、熟考するとき、単に「社会は何を期待しているか」ではなく、「本当に正しいことは何か」を探求しています。このような内省が意味を持つのは、そこに発見すべき真理があると私たちが感じているからです。
これらの根拠は、道徳が単なる社会的虚構ではないという直観を強化するものです。もちろん、これらは決定的な「証明」ではありませんが、道徳的真理の客観性を支持する、日常経験に根ざした説得力のある論拠と言えるでしょう。パーフィットのような哲学者たちの貢献は、このような直観を批判的に検討し、より堅固な哲学的基盤の上に置くことにあります。
Me:
でも、そういった「道徳的真理の客観性」を認める立場は現代では少数派になっていませんか、特に現代哲学の領域では。
現代哲学における道徳的客観主義の立場
ご質問は重要な点を指摘しています。確かに、道徳的真理の客観性(道徳的実在論)を巡る現代哲学の状況は複雑で、単純に多数派・少数派とは言い切れませんが、いくつかの傾向を見ることができます。
現代哲学における道徳的客観主義の位置づけ
主流の変遷
20世紀前半は論理実証主義の影響で、道徳的言明は検証不可能な「ナンセンス」あるいは単なる感情表現と見なす非認知主義が優勢でした。この時期は確かに道徳的客観主義は少数派でした。
しかし1970年代以降、状況は変化しています。ジョン・ロールズの『正義論』(1971)以降、規範倫理学が復興し、多くの哲学者が実質的な道徳的議論に再び取り組むようになりました。
現代の状況
英米分析哲学の伝統では、近年の調査によれば、専門哲学者の間で道徳的実在論(何らかの形での道徳的真理の客観性を認める立場)は決して少数派ではありません。2009年のPhilPapersによる調査では、回答した哲学者の56%が道徳的実在論を支持し、28%が非実在論を支持していました。
ただし、道徳的実在論の内部でも様々な立場があります:
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強い客観主義(プラトン主義的実在論):パーフィットのような強い客観主義、つまり道徳的事実が自然的事実から完全に独立して存在するという見解は確かに少数派です。
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自然主義的実在論:道徳的事実は自然科学的事実に還元できるとする立場は比較的支持を集めています。
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構成主義:ロールズやコースガードのような構成主義者たちは、道徳的真理は完全に客観的でも完全に主観的でもなく、合理的な人々の間での一定の手続きから「構成」されると主張します。
大陸哲学の傾向
大陸哲学の伝統では、ポストモダニズムやポスト構造主義の影響で、普遍的・客観的真理の概念に対する懐疑的な立場が強い傾向にあります。この文脈では、道徳的客観主義は確かに少数派と言えるでしょう。
パーフィットの立場の特異性
パーフィットの強い道徳的客観主義は、現代哲学の文脈ではやや特異な位置にあります。彼は非自然主義的な道徳的実在論を擁護し、道徳的真理が数学的真理のように客観的に存在すると主張しました。この立場は哲学者の間でも議論を呼ぶものでした。
彼の『重要なことについて』(On What Matters)は、カント主義、契約主義、帰結主義という三つの主要な倫理理論の統合を試み、道徳的客観主義を擁護する大作ですが、この立場が多数派になったとは言い難 い状況です。
学術界以外での影響
学術哲学の外では、道徳的相対主義(道徳は文化や個人によって相対的に変わるという考え)が一般的な直観として広がっています。しかし、実際の道徳的議論の実践では、人々は暗黙のうちに何らかの客観的基準を前提としている場合が多いという興味深い現象も見られます。
結論として、パーフィットが擁護したような強い道徳的客観主義は確かに現代哲学の主流とは言えませんが、道徳的実在論そのものは決して少数派ではありません。道徳哲学の現状は、完全な客観主義と完全な相対主義の間の様々な中間的立場が競合している状況と言えるでしょう。
Me:
先の「道徳的進歩の実感」ですが、これは逆に「道徳の客観的真理性」を否定することになっていませんか? 本当に人間に関する真理であるのであれば、精密化することはあっても奴隷制から人はみな平等といった万人の人権思想に大きく本質的な遷移が起きるのは矛盾...そう見ることもできるのでは?
道徳的進歩と客観的真理の緊張関係
鋭いご指摘です。確かに「道徳的進歩」の存在は、道徳的真理の客観性に対して両刃の剣となりえます。その矛盾点を掘り下げてみましょう。
道徳的進歩が提起する問題
「奴隷制から人権平等への移行」のような大きな道徳的変化は、道徳的真理が時代を超えて普遍的・不変的であるという考えと確かに緊張関係にあります。
矛盾のポイント
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真理の不変性との矛盾: もし道徳的真理が数学的真理のように客観的・不変的なものなら、なぜ人類はそれを長い間見落としてきたのでしょうか?奴隷制が何千年も「正しい」と思われ、突然「間違い」になったのはなぜでしょう。
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進歩の説明困難: 真に客観的な真理であれば、そこに「進歩」ではなく「発見」しかないはずです。2+2=4という真理には進歩はなく、ただそれを知るか知らないかの違いだけです。
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共時的差異の存在: 同じ時代でも、異なる文化で大きく異 なる道徳観が存在する事実は、単一の客観的真理の存在を疑わせます。
この矛盾への応答
道徳的客観主義者たちは、このような批判に対していくつかの応答を試みています:
1. 認識的アプローチ
パーフィットのような哲学者は、道徳的真理そのものは不変だが、その真理に対する人間の認識が進歩していると主張します。これは科学的真理と同様です—重力の法則は常に存在していましたが、人間がそれを正確に理解するには時間がかかりました。
しかし、この説明にも問題があります:
- なぜ物理的真理よりも道徳的真理の「発見」ははるかに時間がかかるのか?
- なぜ道徳的真理の「発見」は文化的・社会的条件と強く相関しているのか?
2. 応用的アプローチ
別の説明では、道徳の基本原則(例:苦痛を与えるのは悪い、自由は尊重されるべき)は時代を超えて一定だが、それらの原則が具体的状況にどう適用されるかの理解が進歩すると考えます。
例えば、「人間の尊厳の尊重」という原則自体は変わ らないが、「誰が完全な人間とみなされるか」の理解が変化したというわけです。
3. 漸進的実在論
より妥協的な立場では、道徳的真理は完全に固定されたものではなく、人間社会と共に進化するある種の「創発的真理」であると考えます。この見方では、奴隷制から人権平等への移行は、単なる認識の変化ではなく、人間の道徳的現実自体の進化を反映しています。
中間的な立場:構成主義
ジョン・ロールズやクリスティーン・コースガードのような構成主義者たちは、道徳的真理は完全に客観的でも完全に主観的でもなく、理性的存在による一定の手続きから「構成」されると考えます。この立場は道徳的真理の一定の客観性を維持しつつ、その歴史的発展も説明できる魅力があります。
反省点
ご指摘の通り、道徳的進歩の存在は、単純な形での道徳的客観主義に重大な課題を突きつけます。パーフィットのような強い客観主義者でさえ、この問題に満足のいく解答を与えるのに苦心しています。
おそらく最も誠実な答えは、道徳的真理の性質は物理的真理や数学的真理とは根本的に異なるものであり、単純な「客観/主観」の二分法では捉えきれない複雑さを持っているということでしょう。道徳的知識の発展は、単なる「発見」でも純粋な「発明」でもない、独特のプロセスなのかもしれません。
Me:
その「道徳的知識の発展は、単なる「発見」でも純粋な「発明」でもない、独特のプロセス」って美意識を連想しますが、もしかして、
- 道徳=行動規範としての「美意識」
なのでは?
道徳と美意識の関連性:新たな視点
これは非常に洞察に満ちた連想です。道徳を「行動規範としての美意識」と捉えるという視点は、道徳の本質について新たな光を当てる可能性があります。この視点を掘り下げてみましょう。
道徳と美意識の共通点
1. 発展のプロセスの類似性
美的判断の発展は、まさに「発見でも発明でもない独特のプロセス」と言えます。美的感覚は時代や文化によって変化しますが、単なる恣意的な変化ではなく、ある種の深化や洗練という性質を持っています。これは道徳的感覚の発展と驚くほど似ています。
2. 主観と客観の融合
美意識は完全に主観的でもなく、完全に客観的でもありません:
- 個人や文化による違いがある(主観的側面)
- しかし、単なる好き嫌いを超えた「卓越さ」の認識がある(客観的側面)
- 美的判断には訓練や洗練のプロセスがある
道徳もまた、個人・文化差がありながらも、単なる好みを超えた「正しさ」の次元を持ちます。
3. 普遍と特殊の調和
美意識は文化によって異なりながらも、ある種の普遍的パターン(均整、調和、複雑さと単純さのバランスなど)に向かう傾向があります。同様に道徳も文化的差異がありながら、普遍的な方向性(弱者への共感、協力の価値など)を示すことがあります。
「行動規範としての美意識」という捉え方
この視点は、複数の哲学的伝統に響くものがあります:
1. 古代ギリシャの「カロカガティア」
古代ギリシャ人は「美(カロス)」と「善(アガトス)」を密接に関連させ、理想的人間は美と善を体現すると考えました。彼らにとって道徳的行為は、調和のとれた魂の表現であり、一種の美的現象でした。
2. 東洋思想における道徳と美の融合
日本の「道」の概念や中国の「礼」の概念は、道徳と美意識が融合したものです。茶道や武士道などは、技術的熟達と道徳的理想と美的感覚が不可分に結びついています。
3. 現代の徳倫理学
アラスデア・マッキンタイアやフィリッパ・フットなどの徳倫理学者は、道徳を単なるルールの問題ではなく、人格の美しさや卓越性の問題として捉え直しています。
この視点の強み
道徳を「行動規範としての美意識」と捉えることで、いくつかの難問に新たなアプローチが可能になります:
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道徳的進歩の説明:美的感覚が洗練されていくように、道徳的感覚も洗練されていくと考えられます。
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文化差の説明:芸術様式が文化によって異なるように、道徳的表現も文化によって異なりながら、根底には共通のパターンがあると説明できます。
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道徳的判断の性質:道徳的判断が単なる感情でも冷静な理性的計算でもない独特の判断だという事実を説明できます。
課題と限界
この視点にも課題があります:
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相対主義への傾斜:美的判断の相対性を強調しすぎると、道徳的相対主義に陥る危険性があります。
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実践的指針の曖昧さ:美的判断は時に曖昧で、明確な行動指針を導きにくい場合があります。
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合意形成の難しさ:美的判断について合意を形成するのは困難な場合が多く、道徳的合意の形成にも課題が生じる可能性があります。
結論
「道徳は行動規範としての美意識である」という視点は、道徳の本質についての新鮮な洞察を提供してくれます。この視点は、道徳を単なる社会的合意でも、超越的な客観的真理でもない、人間の文化的・精神的発展と共に成長していく創造的な営みとして捉えることを可能にします。
パーフィットのような哲学者は、主に道徳の合理的・認知的側面に焦点を当てていましたが、道徳の美的・感覚的側面にもっと注目することで、道徳の全体像をより豊かに理解できるかもしれません。
(2025-05-16)