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Annika + Tristan : 「ひとつの身体に男と女の人格が同居した人物」のインタビュー

· 5 min read

前置き

興味深い事例。

タイトルの件を理解するには、当人の以下の数分間の喋りを視聴するのが早い。

  • 6:13--6:17 の女声の喋りと、

  • 6:18-- 男声の喋り

  • 9:45-- 元の女声に戻って…

この動画では人格の切り替えがかなり自在にできているが、当初は全くできなかったと。それゆえ、気づいたら 5年が経過していた…と。

精神医療関連の解説書のピンとこない説明と違って、患者当人による生の体験を聴ける。

Youtube 動画(1:02:05)

Neurodiversity, Part 5 An Apology with Annika and Tristan

コメント

Annika(女) と Tristan(男)というふたつの魂が同じ身体に同居しているのではなく、乖離したふたつの人格が切り替わっている。 普通の人間も人格を相手や状況に応じて自然と使い分けているが(例:妻と母親)、その最も極端なケースがこの動画の人物。記憶まで切り替わっている。

また、この動画は、人格、つまり「この私」というひとつのまとまった人格をもった意識が、

  • ひとつの実体(=いわゆる魂)ではなく、
  • 状況次第で分離もすれば再統合もなしうるという奇怪な「構築物」である

ことの実例を示している。

つまり、我々(=人格をもった意識)の正体を喩えると

  • 分割されたり、統合されたり、廃止されたりする「企業グループ」

のような「一時的な間に合わせの構造物」だが、当事者である我々にはその自覚は全くない。だから自分の意識を魂のような永続する実体として捉えてしまう。

おまけ

釈尊の当初の 無我/非我 説は、2500年前に、

  • 我々の正体はアートマン(=魂のような実体的存在)ではなく、「一時的な間に合わせの構築物」である

ことを見抜いたという点で画期的だった。だが、あまりに急進的だったため(舎利弗を除いて)直弟子たちですら本質的な理解はできず、次第に建て前化し、実質的には実体説に取って替わられたという歴史的経緯がある。

無理もない。人格の乖離障害や分離脳患者の事例が知られている筈の今の現代人ですら、だれも この 無我/非我(=意識が寄せ集めの構築物であること)も 無常(=一時的な構築物ゆえ意識は永続できず、いずれ崩壊すること)も実感的に理解できないのだから、後の仏教徒が理解できなかったのは当然とも言える。

後の仏教徒は釈尊の思想の核心である 無我/非我 と無常 を理解できず、正視もできず、受け入れることも出来なかった。それゆえに瞑想に用いる実践的なフレーズであった空を、極端に拡大解釈しすることで 中観 というヨタ話の塊を生み出した。

本来、無我/非我 と無常はとてもシンプルなので理解は容易な筈。だが、我々の根強い妄想的確信(=私は魂があり、それは永続する実在だ)と完全に相反するので受け入れない。後の仏教は

  1. 無我/非我 と無常

から目を背け、なんとかして

  1. 妄想的確信

を裏付けようとしたヨタ話の展開の歴史となっている。

(2025-04-11)