Chauncey Holt の証言動画 :CIA の指令で JFK 暗殺用銃器を手配し、暗殺現場で状況を目撃した:文字起こし+和訳
前置き
最近、Chauncey Marvin Holt の問題の動画が youtube に up されていた。文字起こし+和訳 を付けておく。
UFO 絡みとしては、"Maury Island UFO 事件" の FBI 関係者が JFK 暗殺にも関与しており、その名前も登場している(*1)。
Chauncey Holt って誰?…という人は以下は無縁だと思うのでスキップを推奨するが、参考までに Chauncey Holt とは(この手の支配層に不都合な内容で、反論するとやぶ蛇になる記事については途端に寡黙になり記事量も努めて最小化させる…という病癖をもつ)Wikipedia によれば…
JFK暗殺への関与の主張オリバー・ストーン監督の『JFK』に関する1991年の『ニューズウィーク』誌の記事で、ホルトはケネディ大統領暗殺に関するさまざまな主張で全米の注目を浴びた[1][2]。 ホルトによれば、彼は偽のシークレットサービスの信任状を届けるためにダラスに送り込まれたCIAの工作員だった[1][2]。 [1][2]彼はまた、マイヤー・ランスキーの会計士として働いていたと主張した。[1][2]彼の説明は、2013年8月にTrineDay Publishingから死後に発売された彼の自伝『Self-Portrait of a Scoundrel』でさらに掘り下げられている。
Claims of involvement in JFK assassinationIn a 1991 Newsweek article about Oliver Stone's JFK, Holt received national attention for various claims he made regarding the assassination of President Kennedy.[1][2] According to Holt, he was a CIA operative sent to Dallas to deliver phony Secret Service credentials.[1][2] He also claimed to have worked as an accountant for Meyer Lansky.[1][2] His account is further explored in his autobiography Self-Portrait of a Scoundrel, which was posthumously released by TrineDay Publishing in August 2013.
(*1)
たとえば…
Kenn Thomas :"Maury Island UFO Incident" と JFK 暗殺の間に密接な関係 (2017-09-17)
❏ Peter Levenda : UFO と JFK 暗殺に関わった奇妙な人脈、Nine の降霊会 (2024-03-01)
❑ Peter Levenda の講演動画:「アメリカの宇宙開発計画」の闇の歴史 (途中2) (2023-09-17)
関連
Chauncey Marvin Holt (Actor), Robert James E. Files (Actor), Denis Mueller (Director), "Confessions From The Grassy Knoll: The Shocking Truth", April 9, 2013
動画(1:58:50)
A CIA Agent’s Stunning Confessions Before His Death | Spies, Hoods, And The Hidden Elite | DC
www.youtube.com/watch?v=3z5MgCG4COY
動画概要欄
2,182,700 views Nov 18, 2024 #Documentary #america #president See the other stunning JFK confession, recorded by Netherlands executive producer Willem Jan Dankbaar - https://bit.ly/415vhb0
Interviewed just days before his death, CIA contract agent and underworld figure Chauncey Marvin Holt chronicles his career in the twilight world of bootlegging, bookmaking, gunrunning, money laundering, espionage, and assassinations.
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写真に写っている男たちは、スリー・トランプスとしてのみ知られている。こちらは、現在カリフォルニアに住むキャリア犯罪者のチャウンシー・ホルト。ホルトは自分がこの男、帽子をかぶった不逞の輩だと主張している。彼の話は素晴らしい。 中央情報局(CIA)の嘱託捜査官で、マフィアの仲間でもあったチャウンシー・マービン・ホルトの物語である。 ホルト氏が亡くなるわずか8日前に行われたインタビューをご覧ください。 (0:01:02)
これは彼の話である。 組織犯罪、情報機関、政界、そして強力なビジネス界の利害関係者など、さまざまな強力な要素の間に近親 相姦的な関係が存在していたこと、そしておそらく現在も存在していることを知る人はほとんどいない。 私は、アメリカ国民は私が知りうる限りの詳細を知る権利があると思った。私はケンタッキー州南部で育ちましたが、そこでは密造酒が生活の一部でした。 (0:02:33)
現在のマリファナのように、おそらく最も重要な作物だった。 17世紀初頭にスコットランド系アイルランド人がケンタッキーに移住してきたとき、彼らは蒸留器を持ってきた。 ウイスキーづくりは彼らの技術のひとつであり、彼らはいつもそれをやっていた。 若き日のチョーンシーにとって、密造者であることに汚名はなかった。 (0:03:01)
ウイスキーを蒸溜するだけでなく、テネシー州のノックスビルなど、40マイルほど近いところや、シンシナティまで届けるのが普通だった。チョーンシー・ホルトはあちこちに出かけたが、あちこちに出かけてはトラブルに巻き込まれた。 彼はオハイオ州チリコテの少年院に入ることになった。今は青少年犯罪者用の刑務所がある。
(0:03:29)
で、そこに入ったんだけど、クルマでジョイライドした罪でFBIにレールを敷かれたんだ。 それが当時のフーバーの大仕事で、若者の車泥棒を捕まえることだった。 たいていは誰かが捕まえて、その手柄を横取りしていた。 戦争の真っ最中だったにもかかわらず、フーバーは時間をかけてルイビルに次々と電報を送り、私たちが起訴されなかった理由を知りたがったんだ。 (0:03:57)
このようなことを彼がどれほど重要視していたかがわかるだろう。 1942年4月23日、フーバーからFBIルイヴィル支局に送られたこのテレタイプには、次のよう に書かれている。 最終的な起訴が完了した場合には、起訴結果を反映した報告書を直ちに提出せよ。 署名済みだ、フーバー。そこにいる間に、組織犯罪に関係する何人かの人物に会った。 (0:04:30)
そこで彼は、もし君が望むなら、ボルチモアにいるマイヤー・ランスキーと手を取り合って働いている連中に連絡を取らせてあげよう、と言った。サイ・ブルームとその弟のモリスだ。サイ・ブルームはボルチモア地区でランスキーのためにすべてのブックメーカー業務を担当していた。 そのつながりで、ランスキーはサイ・ブルームを訪ね、息子のバディ・ランスキーに会いにボルティモアまでやって来た。彼は身体障害者だった。 (0:05:10)
フィリップス・クリニックにいた。私は彼を知っていた。 (0:05:11)
私は彼と、バディと知り合いになっていた。彼とはよくチェスをしたりしたんだ。 というのも、僕はペンキ塗りの仕事をしていて、通りの向かいにある絵を修復していたんだ。 チャウンシー・ホルトの画家としての技能は、彼に大いに役立つことになる。 ルネッサンス期の彼は、他の技術も身につけた。 彼は軍隊で武器の専門家となり、飛行機の操縦も学んだ。 (0:05:37)
ホルトは別の種類の飛行も行ったが、コックピットの中ではなかった。 私の叔父たちは、もし私が結婚していれば、小さな一輪のサーカスを経営していた。 私が6歳のときから、綱渡りをしたり、空中ブランコに乗ったりしていたんだ。 私はこの家族のサーカスで働いていたんだ。 空中ブランコの演技をしたり、フライングの演技をしたり、低いワイヤーの演技をしたり、高いワイヤーの演技をしたり、 大砲から射撃をしたり、そういうことを全部やったんだ。 (0:06:21)
大砲から撃たれる方が、撃たれるよりよっぽど安全で簡単だと、サーカスのパフォーマーであるチョーンシー・ホルトは考えていた。 チャウンシーとマイヤー・ランスキーとのボルチモアでのつながりは、デトロイト・ファミリーのボス、ピーター・リカボリを含む、マフィアや他の重要人物との長い関係につながる。私は彼のために絵を描く仕事を少ししました。 (0:07:08)
彼はいくつかの絵画を修復するために私に送り、それがリカヴォリとの関係の始まりで、それはまあ50年続いた。1944年から1984年に彼が亡くなるまで。私は他にも多くの資質を持っていた。まず、私はパイロットだった。次に、私は射撃がとてもうまかった。 (0:07:39)
私は武器の専門家だった。そしてもちろん、必要であれば偽造もできたから、技術も損なわなかった。そしてもちろん、私は非常に優れた会計士であり、非常に優れた資金管理者でもあった。おそらく、私は長年にわたって、他の種類の仕事よりも資金管理や財政的な仕事を多くこなしてきたと思う。 チャウンシーの数学のスキルは、数字に強く、マイヤー・ランスキーの目に留まった。 (0:08:05)
それでランスキーはバディに会うためにボルティモアにやってきて、そこで行われているブックメーキングのオペレーションをチェックするつもりだった。私は造船所で働いていた。彼は私に電話してきて、マイヤー・ランスキーに会いに来ないかと誘ったんだ。それで彼は、私が数学の天才だとマイヤー・ランスキーに言ったんだ。 (0:08:27)
まあ、彼にとっては私が数学の天才に見えた のかもしれないけれど、とにかく、それでランスキーがやってきて、私たちは話をしていたんだけど、クロスワードパズルを解くように数学の問題に取り組んでいたという意味で、彼も私と同じだったことがわかった。ほとんど代数的な問題ばかりが載っている本を一冊買ってくるんだ。 (0:08:52)
それで彼は言ったんだ、この小さな問題を解いて、その中の誤謬を僕に教えてくれ、と。この計算の途中で、AマイナスBで割るんだ。 (0:09:18)
そこで私はそれを指摘し、誤謬があると言った。すると彼は、ああ、そうだ。ゼロで割ると答えはゼロになるんだ。答えはゼロじゃなくて無限大なんだから。 (0:09:42)
それで彼はとてもとても感心していました。もしフロリダに来ることがあれば、戦後フロリダに来ようと思っていたんだ。もしフロリダに来ることがあれば、ぜひ私を紹介してくれ、と。彼が興味を持っていた微分積分学の家庭教師ができる。だから私は、とても貴重な人脈ができたと思ったんだ。 (0:10:09)
チャウンシー・ホルトは、組織犯罪の最も強力なメンバーの一人を間近で直撃した。ランスキーは非常に暴力的な過去を持っていたが、バグズとマイヤーのギャングのメンバーだった。そして、自分の欲しいものを手に入れることができた。しかし、彼は非常に知的だった。礼儀正しかった。 (0:10:40)
とても控えめだった。思いやりがあった。普通のギャングにはないものがたくさんある。というのも、彼は自分のことを単なるギャンブラーであり、大衆に懇願されるようなものを提供しているだけだと考えていたからだ。 (0:11:18)
まあ、私は44歳から彼を知っていました 。彼がイスラエルに行くまで知っていた。実は、彼がイスラエルに行く直前に、イスラエルに行って生きることに決めたという短い手紙をもらったんだ。ランスキーは1970年5月25日付の手紙でマービン・ホルトにこう書いている。親愛なるマービン、僕はイスラエルに行って暮らすことに決めたよ。数日間はレイの家にいるつもりだ。 (0:11:50)
Ray'sとはパームスプリングスにあるレイ・ライアンのエル・ミラドール・ホテルのこと。手紙にはこう書かれている。できれば飛行機で来てくれ。ロスに来る勇気はない。もし出発前に会えなかったら、これまでの好意に感謝したい。鼻を綺麗にしておくんだ。もし会えなかったら、イスラエルから手紙を書くよ。 (0:12:11)
君の友人、マイヤー。ランスキーはイスラエルへの移住を望んでいたが、入国が困難だった。チャウンシーに宛てた手紙と同様、ランスキーのイスラエル首相への個人的な訴えも手書きである。ランスキーはメナケム・ベギン首相に、イスラエルに住みたいと強く願っていること、そして自分のイメージの問題をメディアのせいにしていることを伝えている。 チャウンシーはもう一人の悪名高い犯罪者、ネバダ砂漠にギャンブルのオアシスを作ったと言われるバグジー・シーゲルと知り合いになった。戦争が終わってすぐに南へ行き、ランスキーと知り合って、彼の組織で働き始めたんだ。 (0:12:56)
私は彼の主要な会計事務所で働き、彼のフロント組織のひとつで事務長も務めた。また、当時フロリダで最も高級な絨毯店だったコロニアル・インでも働きました。フロリダ州ホランデールのコロニアル・インはホットスポットでした。 (0:13:28)
ショービジネス関係者、マフィア、政治家たちがこの華やかなギャンブル・ナイトクラブ・リゾートに集まった。そこはランスキーのラスベガス・ギャンブルとカジノの原型だった。その間、ホルトはランスキー、ラスベガス、バグジー、シーゲルのつながりを知ることになる。 (0:13:43)
実は彼に会ったのは、彼らがフラミンゴを始める前なんだ。シーゲルに会うために彼と一緒に西に行った最初の旅で、シーゲルがエルコルテス・ホテルの買収に乗り出すようにと言ったから、彼は出かけたんだ。ラスベガスへの最初の旅行で、ランスキーはホルトにJ・エドガー・フーバーのことは心配していないと言った。マフィアは、カリフォルニア州ラホヤのデル・チャロ・ロッジで撮影されたFBI長官とその側近クライド・トルソンの危険な写真を持っていた。マフィアは、シーゲルがラスベガスで金の扱いを誤ったことを心配していた。600万ドルを出資していたブラザーフッドは、自分たちの金を心配するようになっていた。 (0:14:33)
そこで私たちはシーゲルに再び話を聞きに行き、彼とヴァージニア・ヒルが老後のために金をため込んでいるという噂を調べた。そこで私たちは外に出て、すべての業者などに話を聞いた。主だったのはゼネコンのデイル・ウェッブで、彼に話を聞いたところ、シーゲルはデイル・ウェッブに言っていたほどの金額を支払っていなかったことがすぐにわかった。 (0:15:06)
だから彼が盗んでいるのは明らかだった。それからすぐにハバナで大きな会議が開かれ、マフィアのトップが全員、国内だけでなく、幸運にもイタリアからオセアノがハバナにやってきて 、ランスキー、つまりシーゲルをどうするかという会議を開いたんだ。ランスキーは彼に懇願し、彼は言ったんだ。 (0:15:45)
そして戻ってきたので、彼はオーケーと言った。それでランスキーと私はまたカリフォルニアに行ったんだが、彼はランスキーと私に面と向かって、フラミンゴは彼のものであり、彼はそれを維持する。というのも、彼は暴力的で乱暴で、制御できない気性だったからだ。 つまり、あれが彼の、あれが彼の死刑執行令状だったんだ。 (0:16:12)
その会話は1947年6月19日のことだった。その1日後、シーゲルは死んだ。 20日、私たちはシーゲルを一日中、床屋、弁護士、ガールフレンドに会うためにファウンテン通りの店まで追いかけた。 シーゲルは頭を3発撃たれて殺された。 (0:16:44)
チャーシーはシーゲル殺害への関与を否定した。彼は引き金は引いていないと断言するが、マフィアの殺し屋を監視する見張り役としての役割をほのめかす。もう一人の重要な犯罪人物との関係は否定していない。ピーター・リカヴォリはこの国で最も重要な組織犯罪者の一人だった。 (0:17:13)
彼はおそらく死にかけの最後の一人であった。彼はセントルイスのシチリア人の大家族で育った。彼は30年代初期にパープルギャングによってデトロイトに輸入され、執行官として活動した。そしてついに彼らに乗っ取られ、彼はデトロイトを支配する5人のドンのひとりとなった。デトロイトは、たとえばニューヨークとは違った運営をしていた。ニューヨークには、5人の別々の人間が率いる5つのファミリーがあった。 (0:17:53)
デトロイトには5人の支配者が率いる1つのファミリーがあり、そのうちの1人がピーター・リカヴォリだった。彼は何にでも手を出していた。彼は高利貸しにも、売春にも、マフィアが関わることなら何でもやった。彼は芸術をこよなく愛していた。美術品、特にイタリア美術を買うのが大好きだった。彼はイタリア美術を買うのが大好きで、私たちはよく部屋いっぱいに買っていました。 (0:18:33)
それに彼は有能な画家だった。私は彼の絵をいくつか持っています。 (0:18:36)
組織犯罪に関するケフォーヴァー委員会の公聴会で、チャウンシーのキャリアは一転した。マイヤー・ランスキーが証言を命じられたのだ。 彼は刑務所行きにならなかった数少ない男の一人で、たいていの男は議会侮辱罪で刑務所行きになるからだ。しかし、彼は証言に立ち、すべての質問に答えた。最初は弁護士なしで出廷し、それから弁護士をつけた。 (0:19:14)
でもね、彼は足が速かった。 チャウンシーもまた素早く、ランスキーから持ちかけられたユニークな仕事のオファーを即座に受け入れる。時は1953年。君が仕事を持ちたいなら、仕事を紹介しよう。国際救済委員会のコントローラーとして、いい仕事、いい給料で働けるよ。 (0:19:44)
赤十字か何かのような、名前から想像できるような慈善団体だと思っていた。彼らはCIAのそういう無難な名前が好きなんだ。それでそこに座っていたら、ワシントンからリチャード・シュルーターという男が入ってきて、ここがCIAの専売特許であることを説明してくれたんだ。チャウンシーの偽名はたくさんあった。 (0:20:15)
彼はマフィアやCIAのために働いている間、25もの名前を使い分けていた。エイリアスには2種類あった。複数の諜報員が使うフローティング・エイリアスと、長年にわたって多くの諜報員が使う、写真を貼っただけのエイリアスだ。私はチャールズ・ホームリー、ロバート・ラルストン、マービン・ホイトを使いました。 (0:20:39)
、しかしディープカバーエージェントの偽名に関しては、厳しい精査に耐えるディープカバーエージェントが3人いた。ひとつはジョン・R・ムーン、もうひとつはカーニー・L・シグラー、そしてディーン・ルッツだ。CIAはビジネスを始めてまだそれほど経っていなかったが、すでにグアテマラという明確なターゲットを持っていた。チョンシーは新しい身分を名乗り、アリゾナにあるCIAの秘密基地で任務のための訓練を始めた。それで私はロバート・ラルストンになり、その名前でこれら、すべての資格を持っていた。 (0:21:32)
それで私はアランヤに出かけた。アランヤは大きな基地で、後にものすごく大きな基地になったが、当時はたいした基地ではなかった。グアテマラに行く準備として、多発機の訓練を受けに行ったんだ。チャウンシーの個人的な記録には、CIA契約エージェントの書類のコピーも含まれている。 (0:21:55)
CIA契約諜報員が関わるこの種の裏付け文書は、これまで公開されたことはなかった。私が最初にグアテマラに行ったのは、5人の暗殺チームの一員としてだった。 翌年の選挙では、私たちのベンツが勝ちそうだった。 私たちはCIA公認の候補者を彼の対抗馬として擁立しようとしていた。 (0:22:33)
しかし計画は失敗に終わり、我がベンツは権力の座にとどまった。 (0:22:38)
つまり、この男はれっきとした共産主義者で、アイゼンハワーやダ レスや、上層部も下層部もみんな、この男を辞めさせなければならないと思っていた。そこでもう一人、刑務所にいた男を見つけたんだが、彼の名前はカシージョ・アルマス。彼はレベンワースの指揮幕僚学校などに通っていた。 (0:23:10)
彼はクーデターで捕まり、死刑を宣告されて刑務所にいた。だから私たちが行って、その男を刑務所から出してやった。手のひらに油を塗るだけで、彼はすぐにリムジンに乗って出て行ったんだ。 (0:23:32)
007的な取引ではなかったんだ。アルマスは300人規模の軍隊とCIAをバックに、ニカラグアからグアテマラに侵攻したんだ。私はC-47に乗っていた。C-47を使ったのは、ドアから弾薬を押し出すこともできたし、実際にビラ配りに使うこともできたからだ。そしてもちろん、グアテマラ・シティの上空を飛びながら、部下に降伏するようビラを配ったりしていた。 (0:24:01)
彼は8月にスポンジを投げ捨てた。そしてもちろん、アイゼンハワーはグアテマラは国民の手に戻ったと言うことができた。 CIAで働きながらも、チャウンシーは組織犯罪のために働き続けた。 常に連絡を取り合っていた。マイヤー・ランスキーや彼のグループが私に何か用事があれば、必ず連絡してきた。彼らはためらうことなく私に尋ねたよ。 (0:24:31)
カストロがエスカンブリ山脈に上陸して小さな革命を始めたとき、彼はランスキーからいくらかの援助を受けた。 実のところ、彼はカストロと、もしカストロが政権を奪取したらカジノの運営を続けさせるという契約を交わしていた。カストロが1959年に政権を握った後、彼はカジノを2カ月ほど運営させ、その後ホテルを没収した。 (0:25:27)
だから当然、彼らはキューバに戻ることに興味を持った。ランスキー自身、個人的にカストロと100万ドルの契約を結んでいた。CIAもマフィアも、カストロを排除しようとしていた。関心はキューバだけではなかった。 ドミニカ共和国とその独裁者ラファエル・トルヒーヨだ。政府はカストロを排除しようと非常に強力に推し進めており、トルヒーヨと、彼の警備責任者で世界最高の暗殺者の一人だったジョニー・アッバスの協力を得ていた。 (0:26:27)
しかしこの頃、突然国務省が、もうトルヒーヨはたくさんだ。トルヒーヨを殺す計画をホッパーに入れ始めた。それで、カストロの非常に危険な敵が一人いなくなった。1961年3月17日付のCIAの書簡が、チャウンシーを含むCIAチームに送られた。必要なライセンスはすでに取得し、料金も支払っている。 (0:27:11)
つまり、トルヒーヨ暗殺はゴーサインが出ていたということだ。彼は2週間後に殺害された。 (0:27:20)
マフィアはカストロが自分たちを裏切ったことを忘れていなかった。 そこで彼らは、キューバの指導者を暗殺するための一連の致命的な計画を実行に移した。 ランスキーは、カストロを始末してくれる者に100万ドルの契約を持ちかけていた。今、彼は実行可能な、私の考えでは、これまでに考え出された中で最も実行可能なカストロ暗殺計画を持っていた。 (0:28:24)
彼らは暗殺者を選んだ。彼らは武器を手に入れた。サーカスの道具と一緒に入ってきた。彼らはアパートを借りたが、そこはテレビ局から300ヤード以内のところで、カストロはそこを行ったり来たりして、1時間も演説を続けたりしていた。しかし、土壇場 で中止となった。国務省からの圧力で中止となった。CIAはあきらめたくなかった。 (0:28:56)
彼らはカストロを監視するために南フロリダに場所を求めた。彼らは再びマイヤー・ランスキーに目をつけた。フロリダキーズのマラソンにあるこの空港は、特に彼が使うために作られたものだった。しかしCIAはそれを使い始めた。そして我々はマラソンからキューバへのフライトを始めた。そしてキューバに諜報員を送り込んだ。武器や弾薬をキューバに届けた。1960年には、文字通り何十回も何十回もキューバに飛んだんだ。CIAと国務省の無策と内紛は、どんな努力も台無しにした。 (0:29:49)
誰もが目的を超えて動いているように見えた。そしてついに、1960年の選挙の直前に、彼らはキューバ侵攻というアイデアを思いついた。そして、当初は非常に小規模な、浜辺を飛び越えるダイップタイプの襲撃だったのが、完全な攻撃へと変わった。 ピッグス湾侵攻は完全に失敗した。 ケネディ政権の大恥であり、マングース作戦のきっかけとなった。マングース作戦は、組織犯罪とCIAの共同作戦で、単にカストロを殺すという不謹慎なものだった。そして、実のところ、私はいくつかのメモを持っているのだが、どのような結末を迎えたのか、彼らが何をしようとしていたのか、などについて、様々なメモがある。 (0:31:10)
以下は、チャウンシーが言及したメモの一部である。彼らはカリフォルニア州パームスプリングスとインディオの間にある小さな空港で開かれた会議に参加した。バミューダ砂丘という名前だ。その会議で、ピーター・リカボリと私はアリゾナから飛んできた。サム・ジャンカーナとジョ ニー・ロゼッリはシカゴから。ウィリアム・キング・ハーヴェイはラングレーから来た。ウィリアム・キング・ハーヴェイはCIAの伝説的人物だった。彼は唯一のメンバーで、そこにいた唯一のCIAメンバーでしたが、もちろん彼が計画を立案したのです。 (0:32:05)
ウィリアム・キング・ハーヴェイとは?チャウンシーは彼が他のCIAの作戦に関与していることをよく知っていた。ウィリアム・キング・ハーヴィーはタスクフォースWのトップだった。ZRライフルは、世界中で人々を暗殺する暗殺集団にすぎなかった。 (0:32:32)
そしてハーヴェイは偶然にもZRライフルのトップだった。1961年12月14日、パームスプリングスのバミューダ砂丘空港で、CIAとマフィアの幹部がマングース作戦の基本ルールについて話し合った。その会議でのチャウンシーのメモから、実行行為が計画されていたことがわかる。 実行行動とは暗殺を意味する。ターゲットはカストロ。基本ルール、CIAのみ、最大限のセキュリティ、非帰属性、もっともらしい否定、知る必要性。 (0:33:15)
ハーヴェイがバミューダ砂丘空港での会議のトーンを決めた。彼らはヒゲをなくし、それをどのように行うか、そしてどのような人材を雇うかについて始めたばかりだった。 まず第一に、どの暗号名を使うかを決めようとしていた。暗号名で署名し、CIAの公式ファイルに載せることに決めていたからだ。 (0:33:46)
AEMは通常、キューバに関わる作戦で、その暗号名にはAEMの頭文字が使われていた。 そこで私たちは、AEMは使いたくない。何を使うんだ?彼らはリストを調べ始め、MOは太平洋のどこかにある曖昧な場所の暗号名だった。 それで 、MOを使うのがいいと言ったんだ。そして誰かが、MOには何が合うだろう?って。 (0:34:22)
それで誰かが、マングースはどうだ?マングースは決して負けない。 マングース作戦と呼ぶことにしよう。マングース作戦についての今後の話し合いは、書面は一切使わず、直接会って行うことにした。CIAのウィリアム・キング・ハーベイが責任者だった。 (0:34:47)
とても短い会議だったのは、そう、1時間に20分だったからだ。それほど時間はかからなかった。つまり、彼は的確な言葉で説明したんだ。 彼らは外に出たがっていた。ジャンカーナやロッセッリのような連中は、つまり、彼らは集まりたがらないんだ。リゴボリもそうだ。 (0:35:16)
このようなマフィアの高官同士は顔を合わせたがらないし、めったに会わない。だから私たちは手短に済ませた。1962年8月14日、彼女のオフィスで、ウィリアム・キング・ハーヴィーから秘密工作局長に宛てたCIAのメモにはこう書かれていた。マイアミとロサンゼルスの契約エージェントが、この作戦に関する言及は我々の中央ファイルにはないと私から保証されている。 (0:36:01)
私たちの最初の仕事は、文書工場を設立することでした。そして理想的な工場を見つけたのですが、その工場は経営難に陥っていました。ロサンゼルス・スタンプ・アンド・ステーショナリー・カンパニーという会社でした。ロサンゼルスのダウンタウンに貴重なビルを所有する老舗の会社で、このビルの1階から4階までが合法的なビジネスに充てられていた。 (0:36:35)
私たちは彼らの印刷をそのまま引き継いだ。印刷、バナー、バッジ、株券や債券などの高品質な印刷を行っ た。 (0:36:48)
でも私たちにとってもっと重要だったのは、彼らがアメリカ中の警察署の警察バッジを作っていたことです。そして最上階は、私たちの秘密工作に充てられていました。上の階で何が行われているのか何も知らない従業員もいたが、上の階では偽情報や偽造IDの作成などを行っていた。CIAは武器の改造を扱う機械工場も欲しがっていた。 (0:37:27)
私たちはカリフォルニア州ゴレタ、つまりサンタバーバラ空港にあるこの場所を発見した。そこもまた空港内にあったので、タクシーで行って、そこに着陸して、タクシーで入って、すぐに停めることができた。大きな格納庫があり、そこに車を乗り入れるだけでよかった。そしてここもまた、自分たちの仕事を続けるための稼働中の機械工場だった。 (0:37:59)
しかし我々が来たとき、500本のサイレンサーが欲しいと言った。500本のサイレンサーを手に入れた。1962年後半までには、両方の秘密工作が稼働していた。どちらもマフィアとCIAに利用されていた。CIAを代表してホルトの直属の上司となったのは、フィル・トゥオンブリーだった。フィリップ・トゥオンブリーはかつてコカ・コーラのカリブ海事業担当副社長を務めていた。つまり、彼は人脈が広かったのだ。 (0:38:39)
私たちが西海岸に来て、すべての資金がフィリップ・トゥオンブリーから提供されると聞かされるまで、実際にどの程度だったのかはわかりませんでした。そして私たちの注文はすべてフィリップ・トゥオンブリーか、リチャード・ウィルソンという長年のエージェントから来ることになる。ロサンゼルスのCIAのトップはエルンスト・ライバッハーという男だ った。そして私たちは、極度の緊急時以外はライバッハに接触するなと言われた。私たちの活動はCIAの通常の輪から外れていると。だから突然に、つまり最初は、私たちはこれらすべてを設定するのに何の問題もなかった。 (0:39:37)
しかしその後、私たちは必要だと感じた資本設備の要求をし始めました。そして、なぜかそのペースが落ちてしまったんです。つまり、資金が集まらなかったんだ。 しかし、1963年初めに突然、財布の紐が緩んだ。 小さな調達の話ではない。大物の調達の話だ。その中で、私たちは高速で往復するためのコーポレート・ジェットが欲しくて、それを手に入れたかったのですが、当時最高のものはターボプロップのガルフストリームでした。 (0:40:18)
驚いたのは、彼らが私たちに、おい、お前、金はあるんだぞ、と言ってきたことだ。フィリップ・トゥオンブリーからの手紙を受け取ったんだが、その手紙には、ニューオーリンズの代理店からもうすぐ特別注文が入るだろうと書いてあった。1963年4月29日付のトゥオンブリーからの手紙は、チョーンシーのお気に入りの別名、ジャック・ブーン宛に書かれている。このプロジェクトを個人的に監督し、ニューオリンズまで自分で配達してほしい。サインは 「Regards, Phil 」だ。ニューオーリンズの販売代理店は、たまたまガイ・バニスターだった。彼は暗殺研究者なら誰でも知っている有名な人物で、とてもミステリアスな人物だったから、おそらくリー・ハーヴェイ・オズワルドのコントロール下にあったのだろう。 (0:41:33)
トゥオンブリーがジャック・ブーンことチョーンシー・ホルトに宛てた手紙は、こんな指示で終 わっていた。 (0:41:40)
顧客は、仕事が完了したら原画をすべて破棄してほしいという。 初日からリー・ハーヴェイ・オズワルドを中傷したことが気になった。彼は他の人と同じように処刑されたんだ。 オズワルドは濡れ衣を着せられたとチャウンシーは確信している。でも、私がしたかったのは、アメリカ国民が知る権利があると思ったからです。 (0:42:38)
ホルト・インタビューの次の部分の編集は最小限です。ホルト氏の言葉をそのままお聞きいただけます。彼はニューオリンズでの任務について話している。1963年の晩春のことだ。この仕事はリー・ハーヴェイ・オズワルドのためにあることがわかった。私たちはリー・ハーヴェイ・オズワルド、リー・ヘンリー・オズワルド、レオン・オズボーン、アレック・ヒデルの名義で、身分証明書類を作成しました。リー・ハーヴェイ・オズワルドと同じ写真がレオン・オズボーンにも掲載されていたという単純な理由で、当時は誰が実際にやっているのか、この人物が誰なのかわからなかった。私たちは、この男が本当にレオン・オズボーンなのか、それとも違うのか、あるいはどちらでもなかったのかもわからなかった。だから、この男が誰なのか正確にはわからなかった。 (0:43:45)
だから私たちは、このドキュメンテーションのいくつかは、他の誰かがやった他のドキュメンテーションをやり直したもので、とても素人っぽいものでした。よく見れば偽造だとわかる。だから、単にそれをきれいにしたに過ぎない。 (0:44:13)
新しいものもあった。リー・ハーヴェイ・オズワルドが共産党員であることを示すカードを見せるというもので す。そのカードがどんなものなのかさえ知らなかったからだ。私たちは何度も何度も探して、それがどんなものなのか見つけようとしたんですが、ついに専門家から、共産党員はこんなカードは持っていない、と言われたんです。 (0:44:40)
でも彼らはそれを欲しがったので、私たちはただ手探りで、彼が共産党員であることを示す見栄えのいいカードを作るしかなかった。それで5月か6月にそれを完成させた。月にはニューオリンズへ銃などを届けに行った。ジョージ・レイノルズからのメモがあったんだ。ジョージ・レイノルズは、ルイジアナ州のモーガン・シティで、所有権益のために営業していました。彼からの指示も多かったし、お金もたくさん入ってきた。 (0:45:40)
たくさんのお金が、彼の組織から直接、私が送れと言った相手に直接、送られてきた。だから彼は高いレベルで仕事をしていた。それに、彼は諜報機関とのつながりが非常に強かった。彼の妹は、カリフォルニアで最も有力な人物、法律家の一人であるフランク・ベルチャーと結婚していた。フランク・ベルチャーはジョー・ボールのパートナーでもあった。実際には法律事務所のパートナーではなく、別々の法律事務所を持っていましたが、一緒に経営していました。 (0:46:24)
ジョー・ボールは、ベルチャーと同様、影響力のある法律家だった。彼はカリフォルニア州弁護士会の会長であり、ウォーレン委員会の上級顧問弁護士として全米に知られるようになった。チャウンシーによれば、ベルチャーもボールも、広範囲なつながりを持つ連動した網の目の一部であった。チャウンシーはこの影のネットワークについてさらに詳しく述べている。ジョージ・レイノルズにはボブ・レイノルズという兄がいた。彼はJ.M.ウェイドに駐在していた。彼はCIAの高級職員だった。 (0:47:03)
それに、フランク・ベルチャーはJ.A.ベルチャー・オイル・カンパニーのJ.A.ベルチャーと関係があった。彼らはテキサスの古い時代のオイルマネーを持っていた。彼はCIAの情報提供者としても知られていた。彼は有名だった。つまり、これらすべてが連携していたんだ。ジョージ・レイノルズから手紙が来て、彼とリロイ・ヤング(彼はたまたま彼の副官で、兵器の専門家でヘリコプターのパイロットだった。 (0:47:56)
そして私は、組織犯罪の高官だったルイス・マクウィリーに銃を届けるためにニューオーリンズに行くことになった。この人たちはみんな、もちろんCIAとつながっていた。そこで私は銃を届けるつもりだった。そこでバニスターという男に渡すものがあったんだが、彼がラサール・ホテルでトーマス・E・I・デイヴィスという男に会うというメモを送ってきた。トーマス・デイビスは、CIAのために働く、また別のタイプの幸運の兵士だった。1963年の8月9日、私はオズワルドを見たことがなかった。それで、バニスターという男と話していたら、彼が、オズワルドは隣の通りでビラを配っている。自己紹介をする必要はないんだが、少なくとも彼に会えるだろう。 (0:49:13)
それで行ってみたら、リー・ハーヴェイ・オズワルドとカルロス・グリガーという男がそこで押し合いになって、結局二人とも逮捕されたんだ。それでまた行ってみると、バニスターという男が、じゃあ俺たちが行ってオズワルドを捕まえて保釈してやるか、などと言い出した。 (0:49:37)
でも、彼を保釈する前に、オズワルドの叔父のダグ・ダッチ・モレッツがカルロス・マルセロの下で働いていたんだ。それで、彼を刑務所から出すために男を送り込んだ。それが金曜日だった そして月曜日、彼は夜間法廷に出廷した。私は夜間法廷に行き、何が起こっているのか見て、彼と話をした。 (0:50:08)
しばらく彼と話をした。そしてちょっとした罰金を科せられて、彼は帰っていった。それがオズワルドを見た最初だった。ええ、まあ、会いましたけど、初めて彼に自己紹介したのはその時です。上がって行って、自分が誰なのかとか言って、しばらく彼と話した。話していて面白い子だったよ。 (0:50:33)
彼は24歳になったばかりだった。いや、まだ24歳じゃなかった。23歳だった。24歳になったのは10月だった。でも、ちょっと面白い話をしたよ。そして金曜日、彼はまたトレードマークの前でビラを配っていた。私はたまたま商標の前でロイド・コブという男と話をしていた。ロイド・コブはルイジアナ州ジャクソンのあたりで8000エーカーのジャガイモ畑を所有していたので、ジャガイモ男と呼ばれていた。ルイジアナ州ジャクソンのあたりで8000エーカーのジャガイモを所有していたからだ。 (0:51:24)
そして彼はとても偉かった。商標会社の連中は、John Lawrenceが社長で、Clay Shawが取締役だったかもしれませんが、みんなLloyd Cobbから命令を受けていました。それで中に入って、建物から出てきたところで、テレビカメラがWSDUの写真を撮っているのを見たんだ。パンフを配る小人を撮っているんだ。 (0:52:01)
さて、私は脇に身を潜め、映っていないと思っ ていたのだが、映っていたことが判明した。テレビの報道クルーが国際商標の外にいて、オズワルドがキューバのためのフェアプレーの抗議ビラを配っているところを撮影した。 静止画に移すと、オズワルドが仕事をしている様子が別の角度からはっきりと映っている。ビラを読む傍観者の姿も映っている。 (0:52:35)
フィルムから撮影されたこのスチールでは、オズワルドの頭はカメラから背を向けており、別のスチールでは、サングラスをかけたチャンシーがトレードマークのビルから出てくるのが見える。彼は右端にいる。チャウンシーの左側には、ジョージ・レイノルズの助手、リロイ・ヤングがいる。さて、このようなことはすべて、フィリップ・トゥオンブリーが本当に心配していた。トゥオンブリーは、ニューオーリンズのFBI捜査官ウォーレン・デブルースの協力を得て、あのニュースフィルムでチョーンシーの身元が特定される問題を解決した。偽情報キャンペーンは、トゥオンブリーがチョーンシーに書いた手紙の通り、うまくいった。親愛なるジャック、ポテトマンからニューオーリンズの配給会社に、ウォーレンが報告書を提出し、トレードマークから出てきた男が広報担当者であり、チョーンシーではないことを確認したと連絡がありました。繰り返しますが、ニューオリンズのディストリビューターはガイ・バニスターでした。ロイド・コブはこれらすべての糸を引くことができ、商標の従業員に自分が上司であると誤認させることができた。 (0:53:50)
それで、なんとかその可能性から逃れることができたのです。なぜ彼らがそんなに心配するのか、なぜ彼らがそんなにオズワル ドに興味を持つのか、私には理解できませんでした。オズワルドは興味深い子供でしたが、彼らが私たちを「キューバのためのフェアプレー法」から引き離そうとしていて、私たちを巻き込みたくないなどと言っていることが、私にははっきりとわかりました。 (0:54:30)
そして、この調査がフィリップ・トゥオンブリーによって始められたという事実は、トゥオンブリーがこの計画を認識していたことを示していた。ニューオーリンズでのオズワルドとのエピソードとほぼ同時期に、チャウンシーはテキサスの銃ディーラーから珍しい注文を受けた。1963年の夏、私たちはダラスのジョン・T・メイソンという名の銃砲鍛冶から、注文というのでしょうか、Eで綴られた依頼を受けました。 (0:55:34)
マンレー・カルカノは作られた軍用ライフルで、おそらくこれまでに設計された軍用ライフルの中で最も粗悪なものだった。 (0:55:41)
マンレー・カルカノと呼ばれたのだが、マンレー・カルカノという名前は本来あるべきでなかった。 マンレー・カルカノはオーストリアの偉大な銃器メーカーだったが、彼がマンレー・カルカノに関係したのは弾倉を設計したことだけだ。でも彼らは、これらの既存の銃を買えと言ったんだ。 (0:56:13)
、銃口速度を測定したり、あらゆる種類の装弾を使ったり、アンダーロードやオーバーロードを使ったり。普通のことだよ。これらのライフルは、パサディナのアロヨ・セカにあるウェスタン・サープラスでCIAの前線を張っていたサム・カミンズから買ったんだ。1丁3ドルで買ったんだ。これを見れば、どんな銃かわかるだろう。 (0:56:49)
弓矢の方がいいわけ だ。それで、マンレーという6.5ミリの巨大な弾丸を撃てるカルカノが大量に送られてきた。6.5ミリのマンレー・カルカノの弾丸の束が送られてきたんだ。一見すると、火がついている、鋳造されたばかりの新しい弾丸だと思うだろう。 しかし、よくよく調べてみると、少なくとも一度は発射されていることがわかる。 (0:57:35)
水か中綿か何かの中に発射されていたので、形が崩れたり、歪んだり、何とでも呼べるような状態にはなっていなかった。 そして、264レミントンのケースに装填するように言われた。 264と6.5は同じです。しかし、レミントンは、つまり、レミントン700のような高品質の狙撃銃から使うことができる。 (0:58:27)
つまり、安物のカルカノにこだわる代わりにね。だから、こういうことをする人たちは、明らかに何かを考えているんだ。 だから、そういうケースをたくさん装填した。メキシカンロードと呼ばれるケースにも装填した。メキシカンロードというのは、308のケースに6.5を装弾できるようにネックダウンして、6.5を装弾するんだ。 (0:58:58)
もちろん、これは308から発射できる。308にはいい銃がたくさんある。実のところ、当時の軍用小銃の最高峰だったM14には308が使われていた。しかし、その唯一の欠点は、もちろん、あの小さな弾丸を大量に発射すると、一体どこに飛んでいくのかわからないということだ。 (0:59:29)
つまり、確かにどこかに届けるつもりだということは分かるが、何かに当たるかどうかは分からない。だからメイソンは明らかに何かを掴んだんだ。だから、1963年の夏、私たちはすべてのものを作り、彼に届けた。1963年4月23日、ケネディ大統領のダラス訪問に関する最初のニュースリリースが発表された。そのとき何が起こったかというと、ケネディ自身が、一方では2506旅団の前で大演説をするつもりだと話していた。 (1:00:47)
実際、彼の使者であるウィリアム・アトウッドは当時、ラウル・カストロと、いくつかの制限を緩和し、米国との関係を構築、改善するよう交渉していた。つまり、これはCIAが聞きたいことではない。そこで彼らがやろうとしたのは、おそらく大統領の命を狙った、あるいは狙われたと思われる騒動を、親カストロ派のキューバ人に仕掛けることだった。そうすれば、彼らの計画に少しは活気が戻るだろう。 (1:01:38)
そう私たちは言われました。私たちの役割の一環として、シークレットサービスの身分証明書を大量に偽造することになりました。彼らが持っているカードだけでなく、身に着けている襟ピンもだ。もちろん、この問題は、彼らが2、3日おきにその襟ピンを変えるという事実だ。 (1:02:13)
もちろん、実際に知っているのは他のシークレットサービスのエージェントだけだろう。もちろん、実際に知っているのは他のシークレットサービスのエージェントだけだ。だから私たちは、ダラスに届ける前にこれを待っていたんだ。チョンシーは偽のシークレット・サービスの身分証明書をダラスに届けることになっていた。しかし、ダラスに行く前にも、大統領はマイアミで演説する予定だった。しかし、シークレットサービスはそのフロリダの都市で大統領に対する暗殺計画があるとの情報を得た。 (1:02:53)
私たちは11月9日に行われるはずだったマイアミでのことのために、いくつかのものを準備した 。この事件?そう、この事件だ。 (1:03:00)
そしてダラスの時と同じような身分証明書を用意した。唯一の問題は 電話の会話を傍受したことで ケネディの命が狙われていることを示し 彼らはモーターコースを持たなかった 彼らはケネディをヘリコプターで演説会場に直接連れて行き、ヘリコプターで彼を戻したのですが、その作戦を中止せざるを得なかったのです。 (1:03:30)
そこで私たちは、ダラスで行われる予定だった2回目のプロジェクトが実現しそうだったので、それを待っていました。そしてトゥオンブリーから、その日のIDバッジの色をどうするかという連絡を待っていた。それが、納品されるためにまとめなければならない唯一のことであり、何個生産するつもりかということだった。 (1:04:04)
チャウンシーとその仲間たちは、JFKがテキサスに来ることを知っていた。早い段階で、彼がサンアントニオ、ヒューストン、フォートワース、ダラスに来ることはわかっていました。しかし、正確な日付がわかったのは、おそらく15日か16日になってからでしょう。彼の日程が正確に決まっていなかったので、いつ知ったのか正確にはわかりません。 (1:04:47)
チャウンシーは、ダラスで偽のシークレットサービスのIDがいつ、何セット必要なのかを聞くのを待っていた。そして命令が届いた。フィリップ・トゥオンブリーからだった。彼は、できれば21日の夜に届けたいということ以外、どうやって現地に届けるのか正確には教えてくれなかった。トゥオンブリーのメモは1963年11月12日付で、ロサンゼルス切手文具会社のジャック宛。トゥオンブリーは偽のシークレット・サービスIDのセットを指している。彼はそれに従ってスケジュールを組めと言っている。 (1:05:40)
シークレット・サービスの代理のものは、大統領の保護を任されているもので、このようなラペルピンをつけている。小さな、導電性の金属のようなものだ。同じ色が長く続くと、誰かがそのピンを何個も作ってしまうからだ。 (1:06:17)
だから、彼らはそれを変え続けるんだ。だから16日ごろになるまで、その色がテキサス州の国旗に使われている色と同じだとわかったんだ。それが、テキサス州の国旗に使われている色と同じであることがわかった。私たちの意図はまず、ロサンゼルスからダラスに直接飛ぶことだった。 (1:06:59)
そして11月12日、私はピーター・リゴヴォリから手紙を受け取った。そこには、チャーリー・ニコレッティとレオ・マスーリがニューオリンズに行く途中でダラスに行きたいと言っている牧場に必ず立ち寄るようにと書かれていた。彼は、ジョン・オマリー名義で登録されている大型のステーションワゴンを私たちのためにピックアップしてくれたことを告げ、すべての書類にはジョン・オマリーの名前が記されていた。私はジョン・オマリーという名前の運転免許証と身分証明書を持っていた。 (1:07:52)
リゴヴォリが所有するグレース牧場で、チャウンシーはマフィアの殺し屋を拾った。この牧場はCIAの契約諜報員の隠れ家にもなっていた。私たちは4人でダラスに飛ぶつもりでそこに着いた。ところが現地に着いてみると、ニコレッティとマスーリはとんでもない量の荷物を持っていて、しかも重い荷物で重かった。 (1:08:15)
だから私たちは、飛行機で行くのは危険だと思った。だ からステーションワゴンを用意したんだ。だから、ステーションワゴンがあったんだ。ツーソンからダラスまで車で行こうって。それでみんなで出発したんだ (1:08:32)
まずニューメキシコのLordsburgで車のトラブルに遭遇した。それからエルパソの西で暴風雨に見舞われた。車の塗装が剥げて、運転できなかったよ エルパソ・タイムズの11月21日の天気予報をチェックすると、前線が午前7時30分ごろ通過し、風速29マイルから35マイルを記録した。 (1:09:17)
これはクーデターであり、私はそれが指揮官交代の方法だとは思っていない。JFKとジャッキー・ケネディが飛行機でダラスに到着。11月22日。同じ日の早朝、チョーンシーもダラスに到着。マフィアの殺し屋を降ろし、アドルファス・ホテルにチェックイン。私はトゥオンブリーからメモを受け取った。その週、彼はダラスで開催されるボトリング大会に出席する予定だと。彼は、ジョー・キャディと私のために、海岸に戻る前に休めるアドルファス・ホテルを予約しておいたと言ってくれた。 (1:10:30)
彼はまた、クリント・マーチソンと非常に親しかったので、おそらくクリント・マーチソン宅に滞在すると言っていた。ケンドールはもちろんペプシコーラの社員で、CIAの目と耳であることを自慢していた人物だ。トゥオンブリーがチョーンシーに宛てたメモには、アドルファスに好きなだけ滞在するようにと書かれている。トゥオンブリーはまた、パイロット仲間でCIAの契約エージェントであるジョー・キャディの部屋も予約する。 (1:11:11)
全て手配済みだ。勘定書にサインするだけだ。ケンダルと私は友人の家に泊まる」とトゥオンブ リーは続ける。トゥオンブリーのチョーンシーへの指示は単純だった。ホーマー・エチェバリアという人物に会うことになっていた。ホーマー・エチェバリアは反カストロ、つまり反ケネディを掲げていた。ホーマー・エチェバリアほどケネディを憎んでいた人物はいない。下院暗殺特別委員会の記録によると、1963年11月21日、シークレットサービスは、ホーマー・S・エチェバリアが、自分のグループには金がたくさんあり、ケネディを始末したらすぐに武器取引を進めると自慢しているのを耳にしたというタレコミを受けた。当時、彼とパウリノ・シエラという男は、キューバに侵攻する遠征軍を編成するために走り回っていた。もちろん、キューバ人というのは名前だけで、彼が実際に聞きたかったのはそれだけだった。 (1:12:27)
それで私たちは、ホーマー・エチェバリアの所有するステーションワゴンにそれを乗せることになった。彼らは私たちにピックアップトラックのタグ番号などを教え、私たちは、鍵、私たちは鍵のセット、マスターキーを持っていた、そして私たちはすべて、偽の身分証明書を入れるつもりだった、他には何もない、銃も何もない、そこに入れて鍵をかける、それだけだった。 (1:12:56)
数年後、悪名高いGrassy Knollの裏手にある駐車場で撮られた写真には、彼のステーションワゴンが駐車されていた場所を指差すChaunceyの姿が写っている。私たちは鍵を持っていて、そこに入ることができたんです。ピックアップトラックを探して回りましたが、見当たりませんでした。 (1:13:24)
そこで我々はゲートの鍵をかけ直し、キャンティと私はレッドバード空港に出かけることにした。レッドバード空港には、CIAの秘密資金を使って購入したばかりの飛行機があった。バミューダ砂丘の航空機会社のアーニー・ダンレヴィがオーバーホールを行い、コンディションが良好であることを確認する予定だった。 (1:14:01)
そこでキャンティを降ろし、当時その空港の支配人だったドウェイン・ジャニュアリーが、今でもその飛行機をよく覚えているのは興味深い。彼がその飛行機をよく覚えている理由は、その飛行機に描かれていた絵が、歯車会社が所有していたもので、この飛行機の尾翼全体を占める巨大な歯車が美しく描かれていたからだ。彼はそれを覚えていて、また、キャンティがあまりにも長い間エンジンをかけっぱなしにしていたため、周りの住民から騒音が大きすぎると苦情が来ていたことも覚えている。 (1:14:54)
だから、でもそれが彼の仕事だったんだ。で、また戻って、今度はディーリー・プラザに戻ったら、ピックアップ・トラックがそこにいた。朝の10時半頃だった。私はすべてのIDを入れたかばんを受け取り、ピックアップトラックに乗せて鍵をかけ、その場を立ち去りました。 (1:15:26)
11時頃、ホーマー・S・ウリエルという会ったこともない人が、私に紹介された。つまり、彼は、私は彼の写真を見たことがあり、それがその人だと思われた。来て、ピックアップトラックに乗って走り去った。 (1:15:40)
数分後、Chaunceyは草むらの裏の駐車場で不審な動きがあるのに気づいた。私がそこにいる間、他にも何台かの車が駐車場に出入りしていた。 (1:16:13)
車で入ってきた人物の一人は、入り口に長い間座っていて、それから去っていった。アルド・ヴェラ・セラフィンという名前の人物で、世界でも有数の暗殺者だった。チャウンシーは彼が無線で何度も話しているのを観察した。そう、マイクをカチカチ鳴らしたりして話しているように見えたよ。 (1:16:37)
そしてしばらくして、彼は、駐車場から車で出て行った。チャウンシーによると、セラフィンはフリーの殺し屋だった。彼はフリーランスだった。誰にでも雇われていた チャウンシーは広場の周辺に留まるよう命じられた。トゥオンブリーは彼に、ある種の演出された親カストロのデモが行われると言った。 (1:17:06)
ほとんどオブザーバーのような、サポートする立場だったと思う。それで、私はヒューストンとエルム・ストリートの角まで歩いて行った。僕は南側にいた。 実際にはそこまで登らなかった。あそこを見渡すと、ラテン系の人たちがたくさんいた。過去に見たことがある個体も何人か見かけた。 (1:17:36)
そのうちの一人は、もちろんルイス・ポサダで、彼はもう一人の暗殺者だった。フレディ・ルーゴもまた、世界的な暗殺者だった。 そしてもちろん、私はオーランド、オーランド・ボッシュを見たと思った。後にFBIは、ボッシュであるはずがないと言った。ボスは厳重に監視されていたから、そこにいなかったんだ。 でも私はFBIの言うことなど信じない。だから彼はあそこにいた。 (1:18:04)
他にも、リップ・ロバーソンを見たような気がした。彼はCIAの契約エージェントだった。 でも54年以来、彼を見ていない。だから、彼に見えたのかもしれない。もう一人、トニー・ポーという男を見たと思ったんだけど、トニー・ポスパニーの略だった。でもまた、彼は本当 にそうじゃなかったんだ。後で彼に聞いたんだけど、彼は東南アジアから出ていなかったんだけど、彼に似ていて、同じような、ペラペラの、疲労タイプのものをかぶっていたんだ、ミリタリータイプの帽子をかぶっていたとかね。 (1:18:55)
彼もまた、向こうにいた謎めいた男だった。それで彼らはあそこにいて、ほら、何かの目的のためにディーレイ・プラザを歩き回っていた。つまり、ソルジャー・オブ・フォーチュンの集会で、ディーレイ・プラザでうろうろしていたような軍人を見つけるのは難しい。もちろん、彼はそのことを本当に不思議に思っていた。 (1:19:28)
でも結局のところ、僕らはデモンストレーションの準備をしていたんだ。いずれにせよ、あまり気にはなりませんでした。 (1:19:36)
And of course, you're, you're, you know, you're tempted to go over and talk to these guys. でもまた、あなたは「知る必要がある」という基準で行動している。だから彼らを放っておいて、何もしない。チャウンシーは後に、ディーレイ・プラザには他にも悪名高い人物がいたことを知ることになる。私はいつも、それは水を濁すための努力だと考えてきた。悪党はいくらでもいるんだ。 (1:20:07)
彼らが同じ時期にダラスに現れたのは、偶然とは思えない。もし彼らが、保安官事務所やFBI、ダラス市警が仕事をしていたら、あそこの刑務所はあらゆる評判を持つ極悪非道な人物で溢れかえっていただろうと思う。 (1:20:35)
チャウンシーは心配し、本能が何かあると告げていた。しかしプラムリーからの命令は明確だった。私はこのBATFの証明書を持っていて、もし何かあれば、何かトラブルがあれば、このボックスカーに飛び乗れ、と言っていた。彼らはボックスカーを特定した。このボックスカーに乗れば、鍵がかかっているように見える。もし彼らが深刻な対立をしたらどうなるか、汗をかきながら考えるんだ。 (1:21:18)
ボックスカーは、グラッシーノールの裏手にある列車の操車場にあった。ボックスカーの列の9両目だった。しかしチョーンシーにはもう一つ、武器の注文があった。通常、ノーマルのライフル、ピストルからサイレンサー付きライフル、サイレンサー付きピストルまで、あらゆる種類の武装の要求はほとんどすべて、モーガン・シティのジョージ・レイノルズから来ていた。レイノルズはチャウンシーに配達するように言った。 (1:21:57)
、私はいくつかの銃といくつかのIDを他の2人の人物に届けるように指示されていました。そのうちの1人はチャールズ・ハレルソンで、もう1人はリチャード・モントーヤとして知っている人物でした。チャールズ・ロジャー、つまりチャールズ・ハレルソンは会ったことがなかった。ジョン・メイソンの銃砲店で、一緒にいた男に指摘されたことがあるんだが、その男が、あれがチャールズ・ハレルソンで、この銃砲店のパート・オーナーだと言ったんだ。 (1:22:49)
その後、私はチャールズ・ハレルソンのために偽の身分証明書を作ったことがあります。
(1:23:12)
それで、彼は私に近づいてきて、君はジョン・オマリーか、と言いました。と聞かれた。すると彼は、僕はチャールズ・ハレルソンだと言った。私は、いや、君はチャールズ・ハーパーだと言った。
(1:23:44)
それで、私は彼にこのスミス&ウェッソンのモデル40を渡した。それを彼に渡した。もう一人はリチャード・モントーヤという男だった。彼とはいつか会ったことがあった。オーランド・ピエドラの家で会った。オーランド・ピエドラというのは、以前はハバナの警察署長だった。彼は当時、マイアミのパインツリードライブの豪華な邸宅に住んでいて、実はバティスタの給仕長だった。 (1:24:24)
それで彼に会ったんだ。ピエドラに用事があって会いに行ったら、リチャード・モントーヤと紹介されたんだ。スペイン語がとても上手だった。見た目がキューバ人っぽくなかったから、スペイン語を話すアメリカ生まれの人だろうと思った。彼はピエドラのボディーガードの一人だろうと思った。 (1:24:57)
それで2人目の男だった。彼にIDを渡し、銃を渡した。 (1:25:09)
私は彼に銃を渡した。それで彼らはこれを持って立ち去った。 アメリカ大統領とファーストレディに会えるということで、沿道には人だかりができ始めていた。正午だった。チョーンシーは草むらの裏の駐車場で、演出されたデモが始まるのを待っていた。 私は、フィリップ・H・トゥオンブリーから、彼らがこのようなことをするつもりであることを具体的に聞かされた。私はただ、そこに含まれていると仮定したのだ。もし、この事態に何らかの生命を吹き込むほど深刻なものになるのであれば、それは数枚のプラカード以上のものでなければならない。 (1:26:26)
We hate Kennedyのプラカード以上のものになるだろうと。彼らは何かをしなければならないだろうし、誰にも当たらないつもりで、あの車列を狙い撃ちするつもりなのだろう。だからマンドリンガー・カーニバルを使おうとしたのかもしれない。 (1:26:48)
彼らはどこを撃とうとしているのか分からないだろう。表面的には、計画は単純に見えた。デモは市民の怒りを買うだろう。世論のうねりは、おい、カストロのネジを回せ、というものだろう。キューバを回避しろ、その他もろもろを叫んでいただろう。大統領の車列はどんどん近づいてきた。 (1:27:17)
群衆が興奮しているのが聞こえた。1230時だった。1230時に銃撃が始まり、最初の銃撃が弱々しいものだった直後、これは単なるデモではないと悟った。銃声に加え、人々は叫び声を上げ、走り続け、あらゆる方向に走っていった。私はモーターコースから25ヤード以内のピケットフェンスの後ろにいたけれど、実際には銃撃を見なかった。 (1:28:04)
ちょっと待ってください。車列のルートで何かが起こりました。待機してください。フィル、代わってくれ。ここで何かが起こりました。銃撃がありました 大統領専用車です 大統領専用車だ ケネディ夫人の ピンクのスーツが見える
(1:28:22)
コネリー知事夫妻がケネディ大統領夫妻と同乗しています。誰が撃たれたのか、誰か撃たれたのかわからないが、どうやら何かが間違っているようだ。何かがひどく間違っている。チョンシーは大統領の銃声は見ていないが、確かに何かを聞いた。まず第一に、彼らが主張する3発よりも多くの発砲があったことを知るには十分で、私にはそう思えた。 (1:28:58)
私は銃声が異なる口径の銃から、異なる発信源から発せられたものであることを確信しています。オートマチックやセミオートで発射された発砲を区別するのは非常に難しく、音が融合するほどの速さで撃つことができますが、おそらく5発の発砲があり、それらは異なる発信源から来たものだと思います。 (1:29:35)
ごく短時間に、まさに胴体のような発砲だった。私が最初に思ったのは、とにかくここから離れろ、群衆に混じって出て行け、ということだった。しかし、私は具体的な指示を受けていたし、具体的な指示を受けたら、それを実行する。ボックスカーにギリギリ辿り着くのに十分な時間があった。私がそこに到着した時、ハレルソンとモントーヤと呼ばれる他の2人が既にそこにいて、近くにいることを示していた。 (1:30:29)
そして私たちはボックスカーに飛び乗り、ドアを閉めて、ただ落ち着いてすべてを待った。捜索隊が何度もやってきたが、このボックスカーには鍵がかかっていたようだ。シールが貼ってあったんだけど、彼らは何度もそのシールを貼り直したんだ。外から彼らの声が聞こえた。 (1:30:53)
ラジオの音なども聞こえた。3人は1時間以上ボックスカーの中に座って、チャウンシーが茶色の紙袋に隠していた警察無線の受信機に耳を傾けていた。 そして午後2時20分頃、ボックスカーが動き出した。線路を上がっていき、線路を下がって止まった。
(1:31:37)
彼は列車の停止を命じ、線路を少し後退させた。結局のところ、そこは操車場だったのだから。でも突然停車して、なぜかその時はボックスカーを追い越さなかったんだ。それで私たちはドアをガチャガチャする音を聞いた。私はすぐにBATFの身分証明書を取り出した。 (1:32:17)
それで彼らがドアを開けた瞬間、もちろん私は身分証明書を見せびらかし、BATFの者だと言った。バッジも身分証明書も全 部持っていた。D.V.ハークネスはダラス警察の巡査部長だった。彼はこの部隊の責任者だった。もう一人、ロイ・ヴォーンという名前の巡査が彼の副官だった。それで私たちは名乗りました。 (1:32:44)
私が全部話しました。私たちはBATFの者です。潜入捜査をしています。この箱車の中にある武装貨物を捜査しています。そして彼とヴォーンは少し話し合って、私たちを捜査事務所みたいな小さなエリアに行かせることにしたんだ。 (1:33:19)
そう、小さな司令室だ。保安官も警察もFBIもいた。全部そこにあった。保安官事務所にあったんだ。それで彼は、マーヴィン・ワイズとビリー・バスという2人の警官に私たちをエスコートするように命じた。 そして私たちは向かい、まるでのんびりと歩いているようだった。緊急の用事とは思えなかった。 (1:33:47)
ハレルソンはその時先頭にいて、状況を楽しんでいるように散歩していた。彼は悪名高い麻薬常用者だったから、おそらく何かを吸っていたんだろう。それで彼は突然豹変したんだ。モントーヤが彼の横を通り、モントーヤが前に出た。それで私たちはテキサス書籍保管所のそばの広場を回った。彼らはエルムとヒューストン近くの司令部に向かった。そこで3人は短く尋問され、釈放された。 (1:34:19)
この男たちは後にスリー・トランプと呼ばれることになる。彼らは視界に入る全員の写真を撮っていた。 ついでに言うと、彼らが写真を撮った男の中には、彼らが誰なのかいまだにはっきりしないものもたくさんある。ある男の写真を撮ったんだ。
(1:34:48)
黒ずくめの格好で、ほとんど忍者のようだった。その男が誰なのか、彼らは まだ知らない。
(1:34:58)
彼はミリタリータイプの男で、体格がよく、髪型はクルーだった。(1分1秒) -------------- この何年もの間、この男の身元を突き止めようとしてたんだが、できなかったんだ。彼はただ、他の容疑者と同じように迷子になってしまったんだ 多くの容疑者が銃撃から数分以内に取り調べを受けたが、チョーンシー、モントーヤ、ハレルソンはそうではなかった。彼らは2時間後に拘留された。 (1:35:33)
写真の影を見てください。明らかに午後の遅い時間だ。この写真は、私たちが歩いているところを新聞記者たちが撮ったものだ。彼らは、あの広場のあちこちで私たちの写真を撮った。学校の書籍保管所の前を歩いているのがたくさん写っているのがわかるだろう。いわゆる3人の不逞の輩の一人であると主張するショーンシー・ホルツの証言は、別の場所で文書化されている。 (1:35:58)
ホルツの言葉だけではない。彼の顔もある。ロイス・ギブソンはヒューストン警察の法医学者である。 彼女はホルツと浮浪者を写真で比較した。これが同一人物であることを 決定づけたわ チャールズ・ハレルソンと 浮浪者の写真も比較した ここでも完全に一致した。 (1:36:23)
間違いない。浮浪者の足を見ると、つま先を外側に向けた特徴的な歩き方をしていることに気づくだろう。チャウンシーが持っている特徴と同じだ。サーカスの高所作業で鍛えられた足取りは、チョーンシーのものだ。カメラの外で、チョンシーは秘密工作に変装を使うことをほのめかしている。 フィル・トゥオンブリーはチャウンシーに、働く男の格好をするように言った。 (1:36:51)
私はただ、そこ にいた他の個人やヤードにいた労働者に紛れ込むように指示された。 そこで、労働者の服装をしたチョンシーは、箱車の仲間たちとともに、刑事裁判所ビルにあるダラス郡保安官の司令部へ案内された。予備捜査のようなものを担当していた副保安官は、デビッド・エルキンスという男だった。殺人課の主任刑事でこの事件の全責任者だったウィル・フリッツがやってきて、エルキンスにFBIのゴードン・シャンクリンに引き渡すように言った。チョーンシーはFBIのゴードン・シャンクリンから短い尋問を受けた。チョーシーのアルコール・タバコ・銃器局からの偽の証明書が本当に役に立った。それで彼は彼を見た。彼はちょっと納得したようだった。 (1:37:59)
彼は私たちにいくつか質問をしたが、あまり興味がないようだった。彼は私たちがどれくらいボックスカーの中にいたかを知りたがった。私たちは2時間と答えた。銃声を聞いたか? いいえ、銃声は聞こえませんでした。なぜドアを閉めた?ええ、外の人に知られたくなかったからです。 (1:38:23)
何が起こっているか知っていましたか?いいえ、何をしていたんですか?ああ、書類を見たり、武器や弾薬の目録を作っていたよ。シャンクリンは、チャウンシーと2人の仲間は武装していたのかと尋ねた。あったよ。私が持っていた2丁の銃はとても珍しいものだった。一丁は45口径の短銃だった。単に切り詰めただけの45口径だった。 (1:38:54)
、ナショナルマッチのパーツをすべて取り去り、スライドを削り、グリップを削り、あらゆる部分を削った。それ以外は他の45口径と同じだった。それが1丁だった。もちろん、ハードクロームメッキが施され、とても珍しい銃だった。おそらく2,500ドルか3,000ドル相当の銃の細工が施されている。 (1:39:14)
僕が持っていたもう一つの銃は、厳密にはシマーリングL-22だった。L-22は通常リックマンと呼ばれていた。とても小さな45口径だった。写真で25口径の横に置いてあるのがわかると思うが、25口径と同じくらい小さかった。大きくはない。でもセミオートではなかった。一発撃って、ラックの中に入れて、また撃って、ラックの中に入れる、そんな感じだった。 (1:39:57)
でも、もちろん25ヤードくらいまでは正確で、ものすごいキック力があった。珍しい銃だったし、彼らは銃にとても興味があった。私はノーと答えた。それで彼らは銃を撮影し、私たちに返してくれたんだ。 (1:40:20)
それから数年後、元FBI捜査官を通じて、私はその写真を手に入れることができた。ネガはファイルの中に見つからなかったが、コンタクトプリントを送ってくれた。シャンクリンは写真を買い、3人に自由の身であることを告げた。オズワルドが逮捕されると、つまり、FBIはもう誰も見つけようとはしなかった。15分以内に、J・エドガー・フーヴァーはすでに、大統領は共産主義者を連れたテロリストに撃たれたと宣言していたからだ。 (1:41:03)
そしてオズワルドが捕まってしまえば、それでゲームは終わりだった。チャウンシーは司令部に知り合いがいることに気づいた。マフィアの運び屋だった。私が外に出ようとしたとき、実は中に入ってきたとき、組織犯罪のジーン・ブレイデンがたまたま外に出てきたんです。 私は彼を知っていた。 (1:41:39)
彼は一時的に拘留されていた。彼を知っていたのは、 つい先週会ったばかりだったからだ。ビバリーヒルズのサン・ヴィセンテとウィルシャーの角にあるビルでオフィスをシェアしていたので、知っていたんです。それで、その前の週に彼に会ったんだけど、彼はダラスに来てカバナに泊まるつもりだと言っていた。それで、彼がそこにいることは知っていた。だから、彼がそこにいることは知っていたけど、彼を知っているというそぶりは見せなかった。 (1:42:14)
彼は私を知っているというそぶりは見せなかった。もちろん、もしそうでなかったら悲惨なことになっていたと思う。だって私はここにいる。彼は私をムーンとして知っている。この作戦ではジョン・オマリーという偽名を使っている。彼はジーン・ブレイデンから ジム・ブレイデンに名前を変え ジム・ブレイデンという名で 逮捕されていた 私が駆けつけて、やあ、ジーン、と言ったとしよう。彼は、やあ、こんにちは、ジャックと言うだろう。そうしたら......俺たちはすぐに捕まっただろうね。 (1:42:50)
仮釈放中の前科者、ジム・ブラデンは、学校の書籍保管所の向かいの建物、ダルテックス・ビルにいた。彼は電話をかけるためにそこにいたと言う。ブレイデンも身柄を拘束され、釈放された。指揮所の外で、チャウンシーは一番近い電話に向かった。 (1:43:19)
あそこにはいかがわしいバーとかがたくさん並んでいたから、歩いて行って電話を使いに入ったんだ。ダルテックスのビルとか、そういう建物の中には入りたくなかった。 D.C.プラザからできるだけ離れた場所に行きたかった。でもその一方で、彼らがジム・ブレイデンに何を話したのか......それを知りたかったんだ。 彼がカバナにいることは知っていたから、電話をかけて話をしたんだ。 (1:43:55)
ブレーデンは、警察に尋問されて釈放されたと言った。チャウンシーはブレイデンに、一緒にカリフォルニアに帰りたいかと尋ねた。ブラデンは断ったが、チャウンシーにレッドバード空港まで送ってやると言った。チャウンシーはそれを受け入れた。ブラデンはその後、ラブフィールド経由でダラスを発つことになる。みんな風のように散っていった。チャウンシーと仲間のパイロット、ジョー・キャンティはツーソンのグレース・ランチに向けて飛び立ち、カリフォルニアに戻る前に給油した。一緒に行ったパイロットのジョー・キャンティとは、あまり話をしなかった。ほとんどツーソンまでずっとね。彼はフライトに付き添い、僕は無線を担当した。 (1:44:48)
本当に話すことに全く興味がなかった。ケネディ家は、ギリギリのところで生きるのが好きな集団のようだ。そのビジネスに携わり、権力を行使すれば、同じように権力を持つ誰かを挑発することになる。誰かがそれを見事にまとめあげたんだ 暗殺後、チョーンシーは目立たないようにしていた。 (1:45:34)
12月、彼はマフィアのボス、ピーター・リカヴォリから手紙を受け取った。1964年が1963年よりも良い年になることを願っている。JFKが殺されたとき、リカボリはチャウンシーがダラスにいたことを知っていたからだ。チャウンシーは、リカボリが11月22日の出来事について他に何を知っているのだろうと思った。チャウンシーが不安になるにはそれなりの理由があった。 (1:46:04)
義父がビバリーヒルズから電話してきて、とても謎めいた二人の紳士が私を探していると言った。彼らは私の車の情報を持っていて、それはアリゾナナンバーの新車のキャデラックで、見つけるのは難しくないだろう。彼らは私が個人的に所有している飛行機のNナンバーを持っていた。 (1:46:37)
そしてもちろん、最初に考えたのはダラスのことだった。それが... 警察なのか、それとも誰かがへその緒を切ろうとしているのかわからなかった。チョンシーは盟友であるフランク・ベルチャー弁護士に連絡した。ベルチャーは、彼の同僚のジョセフ・ボールに会うように勧めた。たまたまジョー・ボールがワシントンにいて、ウォーレン委員会の上級顧問に任命されたからだ。だから彼はそこにいなかったが、上級パートナーの一人であるハントが私に話しかけてきた。 (1:47:13)
そして私は自分の話をした。私はそこにいた。私は暗殺などとは何の関係もない。すると彼は、ある種の無愛想な態度をとった。気にしていないようだった。心配するなと言ったんだ。彼は、ジョーがウォーレン委員会の委員に任命されたのは、リー・ハーヴェイ・オズワルドがたった一人の暗殺者であることを疑いなく証明するためだった、と言った。 (1:47:45)
そして、それ以外のことはすべてもみ消すつもりだった。チャウンシーは、もう決まったことだと悟った。すでにウォーレン委員会のためのゲームプランがあり、これは63年12月のことだった。1964年1月、チョンシーはフランク・ベルチャーから確約の手紙を受け取った。今日、ジョー・ボールと話し、ハント氏との会話の要点を確認した。ジョーによると、ダラスでの活動によって法的な問題が生じることはないとのことだ。もしベルチャーが何か言ったのなら、つまり彼が約束をしたのなら、そのボールが実行に移されることは分かっているはずだ。 (1:48:29)
ジョセフ・ボールはウォーレン委員会の上級弁護士としての職務で忙しかった。彼の職務は捜査のある側面に関わっており、それは幸いにもディーレイ広場と書籍保管庫の中で起こったことを含んでいた。そこで、彼の専門性が発揮されたのです。ティベット巡査の射殺に関する尋問もしましたが、彼は主にその部分に限定されています。 (1:49:00)
彼は、オズワルドがあそこにいたことを示すためのものでした。彼は一人で射殺したのです。ジョセフ・ボールは、捜査のもう一つの微妙な分野も管理していた。ディーレイ・プラザでシークレット・サービスの諜報員に遭遇したという目撃者や警察の証言である。ソレルズ氏は証言し、彼の証言は他の捜査官からも支持された。 (1:49:36)
ダラスでの作戦を担当する特別捜査官によると、ディーレイ・プラザには徒歩の捜査官はいなかった。シークレットサービスの職員は全員、大統領の車列に配属されていました。シークレット・サービスの身分証明書を持った人たちを見かけ、呼び止められたと、他の数人が証言しています。これはピケットフェンスの裏側でのことで、書籍保管庫の裏側でも起こりました。 (1:50:11)
これらのことから、私の唯一の結論は、誰かがシークレットサービスの身分証明書を偽造して使っていたということです。私たちがスタジオとしてやったのか、あるいは誰かがやったのか、どちらかだ。 (1:50:29)
おそらく、数日前に私たちが作成したシークレットサービスのものであったことを、私は喜んで公表するだろう。ジーン・ヒルは、ケネディが殺害された現場に最も近い目撃者で、彼のリムジンのすぐ近く、芝生の丘から通りを隔てたところにいた。彼女は、誰かが小高い丘から大統領を撃つのを目撃し、他の多くの人たちと同じように、走ってその男を追いかけたと言う。 (1:50:55)
その時、彼女はシークレットサービスの証明書を持った男に呼び止められた。彼は私にシークレットサービスのIDを見せた。シークレットサービスだと?はい、そうです ウォーレン委員会の仕事には、さらに不穏な側面があった。1970年、ジョセフ・ボールは証拠の改ざんがあったことをチョーンシーにほのめかしていた。ディラードの写真はその典型的な例だった。この写真には、オズワルドが発砲したとされる6階の窓のすぐ下の窓が写っている。この写真はダラス・モーニング・ニュースのカメラマンが大統領の車列を追って撮影したものである。最後の発砲から約15秒後に撮影された。 (1:51:41)
ボールは、ディラードの写真が加工されたものであることを詳しく説明することなく、チャンシーに示唆した。彼らは他の説を受け入れるつもりはまったくなかった。先入観にとらわれない証言をしてくれる信頼できる証人がいたとしても、彼の話を聞かなかっただけなのだ。11月22日に何が起きたのか、その真相を明かそうとしない人物や人物がいることを知ったとき、チャウンシーは複雑な心境になった。私たちの役割はとても周辺的なもので、間違いなく、あなたはそれをかなりうまく言いくるめることができると思ったんだ。というのも、私の頭の片隅には、私を探していた2人の男がいたからです。 (1:52:39)
チャウンシーはウォーレン委員会の審議中に出国することを決めた。1月12日、フランク・ベルチャーはチャウンシーに手紙を書いた。彼はチャウンシーに、ベルチャーとジョセフ・ボールが所有するメキシコの隠れ家を利用するよう勧めた。 彼らは、ラス・プリサスの隣にあるアカプルコの隠れ家を含め、多くの不動産を一緒に所有していた。その隠れ家は、CIAの契約諜報員、カード所持諜報員、CIA、リゴヴォリ、ジョン・ロゼッリ、ジャンカナ、ドク・スタッシャーといった組織犯罪の高官たちが使っていた。 (1:53:19)
つまり、彼らは本当に加わっていたのです。BelcherからChaunceyへの手紙はこう続いている。私の知る限り、家は空家だ。ジョルジェに電話して、いつ到着するかを知らせてくれ。フランク・ベルチャー、よろしく。というわけで、チャウンシーと2人のCIA契約諜報員はアカプルコに飛んだ。美しい家だ。そこにいる間に、レイ・ライアンのパートナーで、航空機に関するすべての業務を担当していたアーニー・ダンレヴィーから手紙をもらった。 (1:54:05)
アーニー・ダンレヴィーから手紙をもらったんだが、そこには僕を捜している二人組がいると書いてあった。彼はChaunceyに、彼らはあなたの友人だと言ったが、私は疑っている。だから、彼らが何らかの理由で、本当に興味を持っている人物であることがわかったんだ。だから僕は、フィリップ・トゥオンブリーに電話して、自分の存在を明らかにしたいと伝えたんだ。 (1:54:34)
彼は、あなたが持っている独占権益の仲間に電話して、彼らが何とかしてくれるかどうか聞いてみたらどうかと言った。それで私はロサンゼ ルス切手文具会社のトニー・マテルナに電話した。彼は、継続するのは難しいだろうと断言した。ゴレタの修正工場を経営していたデューイ・マーティンに電話したところ、生産は続けられないと言われました。 (1:55:02)
彼はGeorge Reynoldsから直接注文を受けていて、Ernie Dunlevyが、ここなら僕が全部処理できると言ったんだ。そこで私は、JMウェーブとの付き合い方を知っている人たちに電話をかけ続けた。ラリー・ダウンズ、トム・フランクリン、フィリップ・カスター。みんなCIAの高官だった。JMウェーブは南フロリダにある巨大なCIA施設で、CIAの対キューバ秘密戦争を組織し、供給していた。それから私は、何か新しい前線に立つため、あるいは新しい任務を得るために、あちこち買い物をするようになった。 (1:55:44)
▼原文 展開
The men in the photos are known only as the Three Tramps. This is Chauncey Holt, a career criminal, now living in California. Holt claims that he is this man, the Tramp in the Hat. His story is fantastic. This is the story of Chauncey Marvin Holt, a longtime contract agent for the Central Intelligence Agency and a Mafia associate. You're about to see the interview conducted with Mr. Holt just eight days before he died. (0:01:02)
This is his story. Very few people know the incestuous relationship that, you know, existed and probably exists at the moment between these various very powerful elements, organized crime, intelligence community, the political and powerful business interests. I felt that the American public had a right to know as many of the details that I have available. I grew up in southern Kentucky where bootlegging was a way of life. (0:02:33)
It was probably the most important crop, just like marijuana is in certain counties now. And it was nothing unusual about bootlegging because when the Scotch-Irish immigrants came to Kentucky in the early part of the 17th century, they brought their stills with them. And whiskey making was one of their skills, and they always did it. For the young Chauncey, there was no stigma attached to being a bootlegger. (0:03:01)
Not only, you know, distilled the whiskey, we delivered it usually to somewhere like Knoxville, Tennessee, which was close, about 40 miles, and as far away as Cincinnati. Chauncey Holt got around, and getting around got him in trouble. He ended up in reform school in Chillicothe, Ohio. Now they have prisons for youthful offenders. That was what it would have been in those days, but they called it a reform school. (0:03:29)
And I'd been in there for, I got railroaded by the FBI for joyriding in a car. That was Hoover's big thing in those days, was catching youthful car thieves. Usually someone else caught them, and they took the credit. And although we were right in the middle of the war, I mean, Hoover took the time to send wire after wire down to Louisville, wanting to know why we hadn't been prosecuted. (0:03:57)
Gives you an idea of what importance he placed on those type things. This teletype, April 23, 1942, from Hoover to FBI Louisville office, says in part, Chauncey Marvin Holt, et al., advised by return teletype status prosecution of this case. In the event final prosecution complete, submit report immediately reflecting results of prosecution. It's signed, Hoover. While I was there, I met several people that were connected with organized crime. (0:04:30)
So he said, if you want to, if you want, I'll put you in touch with these guys in Baltimore who work hand in glove with Meyer Lansky. One was Cy Bloom and his brother Morris. Cy Bloom handled all the bookmaking operations for Lansky in the Baltimore area. And so then it was through that connection that he came down to, Lansky came down to Baltimore to visit with Cy Bloom and to see his son, Buddy Lansky, who at that time was in the Phillips Clinic. He was disabled. (0:05:10)
He was in the Phillips Clinic. And I knew him. (0:05:11)
I had gotten acquainted with him, with Buddy. And we used to go and play chess with him, that sort of thing. Because I was doing some painting, painting work for the, restoring a painting right across the street. Chauncey Holt's skills as a painter would serve him well. A Renaissance man, he developed other skills. He became an arms expert in the military, as well as learning how to fly an airplane. (0:05:37)
Holt also did another kind of flying, but not inside a cockpit. My uncles, if I'm married, owned a small one-ring circus. And from the time I was six years old, I mean, I was running up and down the tight wire, you know, swinging on the trapeze. I worked in, so I worked in this family circus. And I did a single trapeze act, I worked in a flying act, I did a low wire act, a high wire act, shot from the cannon, all that sort of thing, you know. (0:06:21)
The circus performer in Chauncey Holt thought getting shot out of a cannon was a hell of a lot safer and easier than getting shot at. Chauncey's Baltimore connection with Meyer Lansky would lead to a long relationship with the mobster and other important mob figures, including the head of the Detroit family, Peter Licavoli. I did a little work for him in painting. (0:07:08)
He sent some paintings over to me to be restored, and that started a relationship with Licavoli that lasted, well, it lasted 50 years. It lasted from 1944 until the date of his death in 1984. I had a lot of other qualities that they like. First of all, I was a pilot. Secondly, I was a very good shooter. (0:07:39)
I was a weapons expert. And of course, the art didn't hurt because it extended to forgery if necessary. And of course, I was a very good accountant, very good money manager. And probably I did more money managing and more fiscal type work down through the years than I did other types of work. Chauncey's math skills, he was brilliant with figures, caught Meyer Lansky's attention. (0:08:05)
So Lansky was coming down to Baltimore to see Buddy, and he was going to, you know, check up on the operation there, the bookmaking operation, and Cy Bloom called me. I was working in the shipyard. He called me and asked me if I'd like to come over and meet Meyer Lansky. So he had, he had told, he told Meyer Lansky that I was a mathematical genius. (0:08:27)
Well, I may have seemed like a mathematical genius to him, but anyway, so Lansky came in, and we were talking, and it turned out that he was like me in the sense that he used to work mathematical problems just like he'd work a crossword puzzle. He'd get a whole book with nothing but problems in it, mostly algebraic problems. (0:08:52)
So he said, I want to work out this little problem for you, and you show me the fallacy in it, because you start out with the premise, and you end up, and it looks like 2 equals 1. So we go down through the, we go down through these equations, and it started out with A equals B. Well, down in the middle of this computation, you divide by A minus B. Well, A minus, if A equals B, A minus B is zero. (0:09:18)
So I pointed it out, and I said, there's a fallacy. And he said, oh yeah, that's right. He says, anything divided by zero, the answer is zero. And so I said, told him, well, technically he was, technically he was wrong for the simple reason that the answer is not zero, it's infinity. (0:09:42)
And so he was very, very impressed. And he said, now if you ever come down to Florida, I said, I thought about coming to Florida after the war. He says, if you come down to Florida, he said, be sure and look me up. You can tutor me in analytical differential integral calculus, subject he was interested in. So I knew that I'd made a very, very valuable connection. (0:10:09)
Chauncey Holt got a close-up and a personal look at one of the most powerful members of organized crime. Lansky, although he had a very violent past, having been, you know, a member of the Buggs and Meyer gang, and he could be as ruthless as the next person. And he could, you know, in getting what he wanted. However, he was extremely intelligent. He was polite. (0:10:40)
He was very low-key. He was compassionate. Many things that you don't find in the average gangster. He never actually thought of himself as a gangster, although to do that, you have to exclude his early life, because he just considered himself simply a gambler who was providing the public with something that they begged for. (0:11:18)
Well, I knew him from starting in 44. I knew him until he went to Israel. As a matter of fact, I had a short letter from him just before he went to Israel saying he had decided to, you know, go to Israel and live. Lansky writes to Marvin Holt in a letter dated May 25th, 1970. Dear Marvin, I have decided to go and live in Israel. I will be here at Ray's for a few days. (0:11:50)
Ray's is Ray Ryan's El Mirador Hotel in Palm Springs. The letter goes on to say, I would like to see you before I go. Fly down here if you can. I don't dare come to LA. If I don't get to see you before we leave, I want to thank you for the past favors. Keep your nose clean. I will write you from Israel if I don't get to see you. (0:12:11)
Your friend, Meyer. Lansky wanted to migrate to Israel, but was having difficulties entering the country. Like the letter he wrote to Chauncey, Lansky's personal appeal to the Prime Minister of Israel is also handwritten. Lansky tells Menachem Begin he wants very much to live in Israel and blames his image problems on the media. Chauncey became acquainted with another notorious crime figure, the man many say created a gambling oasis in the Nevada desert, Bugsy Siegel. Soon after I, after the war, I went south and hooked up with Lansky, started working for his organization. (0:12:56)
I worked for his main accounting firm and I also was office manager of one of his front organizations, which was used for a lot for stock manipulations and that sort of thing. And I also worked at the Colonial Inn, which was the the plushiest of the carpet joints there in Florida at that time. The Colonial Inn in Hollandale, Florida was a hot spot. (0:13:28)
Show business types, mobsters, and politicians flocked to the glamorous gambling nightclub resort. It was Lansky's prototype for Las Vegas gambling and casinos. All the while, Holt was privy to the Lansky-Las Vegas-Bugsy-Siegel connection. (0:13:43)
Actually, I met him actually before they started the Flamingo. The first trip that I made west with him to meet Siegel, he was going out because Siegel wanted him to go into buying the El Cortez Hotel. On their first trip to Las Vegas, Lansky told Holt he wasn't worried about J. Edgar Hoover. The mob had compromising photos of the FBI director and his aide Clyde Tolson taken at the Del Charro Lodge in La Jolla, California. The mob was worried about Siegel's mishandling their money in Las Vegas. The Brotherhood, who had put up six million dollars, they were getting to be concerned about their money. (0:14:33)
So we went out to talk to Siegel again and to look into the rumors that he and Virginia Hill had been squirreling away money for their retirement. So we went out and we talked to all the vendors and so forth. The principal one was the general contractor, was Dale Webb, and we talked to him and we discovered at once that Siegel hadn't paid Dale Webb nearly as much money as he said. (0:15:06)
So it was obvious that he was stealing. So we came back and shortly after that they had a big meeting in Havana when everybody, every top mob figure, well not only in the country, but luckily Oceano came from Italy, came to Havana to have a conference about what they were going to do about Lansky, I mean about Siegel. Lansky pleaded for him, you know, he said, hey look, he served us long and well, why don't we give him just a little piece of the action and let him get out. (0:15:45)
And it came back, so he said okay. So Lansky and I made another trip to California and he told Lansky and I right to our face that, you know, we could shove it, that the Flamingo was his and he was keeping it and that was that. Because he had, he had a violent, violent, uncontrollable temper. And so as far as that went, I mean that was his, that was his death warrant. (0:16:12)
That conversation was on 19th of June, 1947. A day later, Siegel was dead. On the 20th, we followed Siegel around all day to the barber shop, to his lawyer, he went over to a place on Fountain Avenue to meet a girlfriend, you know, he didn't, didn't seem like he had a, didn't seem like he had a worry in the world. Siegel was murdered, three shots to the head. (0:16:44)
Chauncey denied any involvement in the actual murder of Siegel. He didn't pull the trigger, he swears, but he hints at his role at lookout performing surveillance for the mob hitmen. He never denies his relationship with another important crime figure. Peter Licavoli was one of the most important organized crime figures in the country. (0:17:13)
He was probably the last of a dying breed. He grew up in St. Louis, a big Sicilian family. He was imported by the Purple Gang into Detroit in the early 30s to act as enforcers. Then they finally took over and he became one of five ruling dons of Detroit. The Detroit operated differently than, say, New York. New York had five separate families headed by five separate people. (0:17:53)
They had one family that was headed by five ruling dons, of which one was Peter Licavoli. He was into everything. He was into loan sharking, he was into anything, prostitution, anything that the mob is normally involved in. He had really a great love for art. He was a sucker when it came to buying art, especially Italian art. He he loved buying Italian art and we used to buy that stuff by the room full, you know, because he was trying to clean up his image. (0:18:33)
And he was a competent painter. I have some of his paintings. (0:18:36)
It was during the Kefauver Committee hearings into organized crime that Chauncey's career took a turn. Meyer Lansky had been ordered to testify. He was one of the few guys that didn't end up in jail, because most of them ended up in jail because of contempt of Congress. But he got up there and he answered all their questions. And well, he appeared first without a lawyer, then he had his lawyer. (0:19:14)
But, you know, I mean, he was quick on his feet. Chauncey is quick, too, immediately accepting an offer of a unique job offered him by Lansky. The year is 1953. I can put you in a job, if you want to have a job. I could put you in over here at the International Rescue Committee as a controller at a real good job, at a real good salary. (0:19:44)
I thought it was a philanthropic organization, like the Red Cross or something, like the name implies. They like those innocuous names of the CIA. So I was sitting there when a guy walked in from Washington, his name was Richard Schluter, came in and he explained to me the facts of life, that this was a proprietary answer to the CIA. Chauncey's aliases were many. (0:20:15)
He would use 25 different names while working for the mob and the CIA. We had two types of aliases. We had floating aliases that more than one agent used and a number of agents used over the years that you just slap a picture on. Now I used, I had, I used Charles Hormley, Robert Ralston, Marvin Hoyt, which is not too far from my own name. (0:20:39)
However, as far as deep cover agents aliases went, I had three deep cover agents that would withstand the vigorous scrutiny. One was the one that I used the longest time, was John R. Moon, I used Kearney L. Sigler, and I used Dean Rutz. The CIA hadn't been in business too long, but already had a clear target, Guatemala. Chauncey assumed a new identity and began training for his mission at a secret CIA base in Arizona. So I became Robert Ralston and I had these, these, all these credentials in that name. (0:21:32)
So I went out to Aranya, which was a big base, what it became an awful big base later, it wasn't much of a base in those years, was right near Tucson that the CIA used, was a training facility. And I went out to get some multi-engine training in preparation for going down to Guatemala. Chauncey's personal records include copies of CIA contract agent paperwork. (0:21:55)
This type of supporting documentation involving a CIA contract agent has never been made public before. I first went to Guatemala as a part of a five-man assassination team, I guess you'd call us, that went down to figure what we wanted to do. It looked like that our Benz was going to win the next year's election. And we were trying to get a CIA-approved candidate to run against him. (0:22:33)
But the plan was a failure, and our Benz remained in power. (0:22:38)
So here we were with this guy who was an out-and-out communist sitting there, and at that time Eisenhower, Dulles, and those guys all up and down the lines, and you know, this guy's got to go. So we found another guy who was in prison down there, and his name is Casillo Armas, and he was educated in the United States. He had gone to the command and general staff school at Leavenworth and so forth. (0:23:10)
He was caught in a coup and they sentenced him to death, and he was in jail. So we went down and got the guy out of jail, which was very easy. All we did was just grease a few palms and he walked right out into a limousine, you know. (0:23:32)
It wasn't a 007 type deal, you know. Armas, backed with a 300-man army and the CIA, invaded Guatemala from Nicaragua. I was flying a C-47, and we had a C-47 because we could either push ordinance out the door or we could actually use it for leaflets. And of course, we were flying over Guatemala City, just distributing those leaflets about for our men to give up and so forth, which he did. (0:24:01)
He threw in the sponge in August. He fled the country, and of course, then Eisenhower was able to say that Guatemala was now back in the hands of the people. Even while working for the CIA, Chauncey continued to work for organized crime. I always kept in touch. And if, you know, if Meyer Lansky or any of his group wanted something of me, they certainly would. They didn't hesitate to ask me. (0:24:31)
When Castro landed up in the Escambri Mountains and started his little revolution, he got some aid from Lansky, simply because Lansky was sort of hedging his bet. As a matter of fact, he had an agreement with Castro that if he took over the government, he'd let him continue operating the casinos. After Castro actually came to power in 1959, he let them operate for about two months, and then he confiscated the hotels. (0:25:27)
So naturally, they were interested in getting back to Cuba. Lansky himself, personally, had a one million dollar contract out on Castro. So here we had these people, and then we had the CIA, and we had the mob all trying to get rid of Castro. Cuba wasn't the only interest. So was the Dominican Republic and its dictator, Rafael Trujillo. The government was pushing very, very vigorously to get rid of Castro, and they had enlisted the aid of Trujillo and Johnny Abbas, who was his head of security, who was one of the best assassins in the world. (0:26:27)
But suddenly, somewhere about this time, the State Department decided, hey, we've had enough of Trujillo. Trujillo has to go, so they started putting plans in the hopper to kill Trujillo. So that removed one very, very dangerous foe of Castro. A CIA letter dated March 17, 1961, sent to a CIA team, including Chauncey, says, in case you plan to hunt this territory, recommend high-powered foreign-made rifle with telescopic scope and silencer. Have already obtained necessary licenses and paid the fees. (0:27:11)
That means the Trujillo assassination had the go-ahead. He was murdered two weeks later. (0:27:20)
The mob had never forgotten how Castro had double-crossed them. So they set in motion a series of deadly plans to assassinate the Cuban leader. Lansky had actually, he had actually offered a contract of a million dollars for anyone who would dispose of Castro. Now, he had a viable, in my opinion, it was the most workable plan to assassinate Castro that was ever conceived. (0:28:24)
And they had an assassin chosen. They had gotten a weapon in. It came in with some circus equipment. They had rented an apartment, which was within 300 yards of the television station where he used to walk back and forth and harangue for an hour on end and so forth. But at the last minute, it was called off. And it was called off through pressure from the State Department. The CIA didn't want to give up. (0:28:56)
They wanted a location in South Florida to keep close tabs on Castro. They again turned to Meyer Lansky. Down in the Florida Keys at Marathon had built this airport, particularly for his use. But the CIA began to use it. And we started making flights from Marathon, it wasn't to for, from Marathon into Cuba. And we would insert agents into Cuba. We would deliver arms and ammunition into Cuba. We made, you know, literally dozens and dozens of flights into Cuba in 1960. Intrigued, ineptitude and infighting, CIA and State Department doomed any efforts. (0:29:49)
Everybody seemed to be working across purposes. And finally, just before the 1960 election, they came up with this idea of invading Cuba. And what started out from being a very small, over-the-beach, diep type raid, turned into a full assault. That full assault, the Bay of Pigs invasion, would be a complete failure. A major embarrassment for the Kennedy administration and the impetus for Operation Mongoose. Operation Mongoose was an ill-conceived joint operation between organized crime and the CIA to actually simply kill Castro. And there's some various memos, as a matter of fact, I have a few memos, how it ended up, how they were talking about what they were going to do and so forth. (0:31:10)
Here are some of the memos Chauncey refers to. These men participated in a meeting held at a small airport between Palm Springs and Indio, California. The name, Bermuda Dunes. In that meeting, Peter Licavoli and I flew in from Arizona. Sam Giancana and Johnny Roselli came in from Chicago. William King Harvey came from Langley. William King Harvey was a legend in the CIA. He was the only member, he was the only CIA member there, but of course he was the one that was laying out the plan. (0:32:05)
Who was William King Harvey? Chauncey was well aware of his involvement in other CIA operations. William King Harvey was the head of Task Force W. That had been renamed originally, that was a part of a ZR rifle operation called ZR Rifle. ZR Rifle was nothing more than an assassination group that went around the world assassinating people. (0:32:32)
And Harvey happened to be the head of ZR Rifle. On December 14th, 1961, top echelon leaders of the CIA and the Mafia met at Bermuda Dunes Airport in Palm Springs to discuss ground rules for Operation Mongoose. Chauncey's memos from that meeting show an executive action was planned. Executive action means assassination. The target, the beard, Castro. The ground rules, CIA only, maximum security, non-attributability, plausible denial, need to know basis. (0:33:15)
Harvey set the tone of the meeting at the Bermuda Dunes Airport. They were going to eliminate the beard and how it was going to be done and just starting as to what personnel they were going to hire. First of all, they were trying to decide what cryptonym they were going to use for this because they had decided that they would sign in the cryptonym and it would end up in the official CIA files. (0:33:46)
AEM normally, operations involving Cuba, had an AEM start to their cryptonym. So we said, well, we don't want to use AEM. What are we going to use? They started looking down the list and MO was some cryptonym for some obscure place way out in the Pacific somewhere. So we said, hey, that would be a good use of MO. And somebody said, well, what's going to go with, what goes with MO? And so it flows, you know. (0:34:22)
So somebody said, hey, how about Mongoose? You know, the Mongoose never loses, you know, and that's a good one. You know, everybody agreed is, hey, we'll call it Operation Mongoose. It's also decided any further discussions about Operation Mongoose would be face-to-face, nothing in writing. The CIA's William King Harvey was clearly in charge. (0:34:47)
It was a very short meeting because of the fact that, yeah, 20 minutes an hour. It didn't take very long. I mean, he laid it out in precise terms. These guys wanted to get out, you know, and, you know, take on off. And guys like Giancana and Rosselli, I mean, they're reluctant, you know, to get together. These high and Ligovoli, too. (0:35:16)
These high-ranking mobsters don't like to meet with each other, and rarely do they. So we kept it short and sweet, and that was it. On August 14th, 1962, in her office, CIA memo from William King Harvey to the director of clandestine operations says, in part, our contract agents in Miami and Los Angeles have been assured by me that no reference to this operation appears in our central files. (0:36:01)
Our first order of business was to set up a documentation mill. So we started looking around for a plant, and we found one that was ideal, and it was in financial trouble. It was called the Los Angeles Stamp and Stationery Company. It was a very old L.A. firm that owned a very valuable building in downtown Los Angeles, which was ideally set up because what we could do, the first four floors of this building was devoted to legitimate business. (0:36:35)
We went right on with their printing. They printed, they did banners, they did badges, they did high-quality printing, such as stock certificates, bonds, that sort of thing. (0:36:48)
But more importantly in that, for us, was the fact that they made police badges for just about every police department in the United States. And then the top floor was devoted to our clandestine operations. So we had a group of employees that knew nothing about what went on upstairs, but upstairs we did all the disinformation stuff, all the fake IDs, and that sort of thing. The agency also wanted a machine shop to handle weapon modifications. (0:37:27)
We discovered this place at Goleta, California, which is at the Santa Barbara Airport. So there again, it was located on the airport, so we could taxi, we could land there, taxi in, pull right in. We had a big hanger, just pull right into that facility, which is great, you know, for loading and unloading arms and that sort of thing. And there again, this was an operating machine shop that continued its own work. (0:37:59)
But when we came along, we said, we want 500 silencers. We got 500 silencers. By late 1962, both covert operations were up and running. Both were used by the mob and the CIA. Holt's immediate supervisor on behalf of the agency was Phil Twombly. Philip Twombly had been at one time the executive vice president for Caribbean operations of Coca-Cola, which used to boast that it was the eyes and ears of the CIA in the Caribbean. So we know that he was well connected. (0:38:39)
We never actually knew how well until we came to the West Coast and we were told that all of our funds would be coming from Philip Twombly. And all of our orders would be coming from Philip Twombly or and a longtime agent by the name of Richard Wilson. The head of the CIA in Los Angeles was a guy by the name of Ernst Leibacher. And we were told that no, except in an extreme emergency, we were not to contact Leibacher. That our operations were outside the normal loop of the CIA. So suddenly, I mean, at first, we had no trouble setting up all these things. (0:39:37)
But then we started making requests for capital equipment that we felt that we needed. And it just slowed to a trickle for some reason. I mean, we just weren't getting any funds. But suddenly, in early 1963, the purse strings loosened. We're not talking about piddly little procurements. We're talking about big ticket items. Among them was a, we wanted a corporate jet to fly back and forth in a fast, and we wanted to get a, and the best one at that time was the Gulfstream, which was a turboprop job. (0:40:18)
The startling thing about it was they were telling us, hey, you, you're, we got money. At the end of 63, I mean, the end of April in 63, I received a, a note from Philip Twombly, which, in which he said that we would soon be receiving a special order from our distributor in New Orleans. A letter from Twombly dated April 29th, 1963, is addressed to Jack Boone, Chauncey's favorite alias. I want you to personally supervise this project and make the delivery yourself to New Orleans. It's signed, Regards, Phil. Our distributor in New Orleans happened to be Guy Bannister, who was a, is a well-known person known to all the assassination researchers, because he was a very mysterious guy and was, was probably Lee Harvey Oswald's control. (0:41:33)
Twombly's letter to Chauncey Holt, a.k.a. Jack Boone, ended with this instruction. (0:41:40)
The customer wants all the original artwork destroyed when the job is completed. It bothered me from day one was the vilification of Lee Harvey Oswald, because I know that Lee Harvey Oswald was a, was a patsy. I know that he was executed just the same as everyone else. Chauncey is absolutely convinced that Oswald was framed. Although my revelations probably won't add too much to what's, what's already been said, but all I wanted to do was to, I felt that the, the American people are entitled to know. (0:42:38)
The editing for the next portion of the Holt interview will be minimal. You will hear Chauncey Holt's words as he spoke them. He's talking about his New Orleans assignment. It's late spring, 1963. It turned out that this work was for Lee Harvey Oswald. We did documentation, identity documents, in the name of Lee Harvey Oswald, Lee Henry Oswald, Leon Osborne, and Alec Hydell. We weren't sure at the, at the time who's, who were actually doing it, who this person was, for the simple reason that the same picture that appeared on Lee Harvey Oswald also appeared on Leon Osborne. We didn't know whether this guy was actually Leon Osborne or, or that, or he might not, he might have been neither. So we didn't know exactly who this was. (0:43:45)
So we, we delivered some of this, some of this documentation was redoing some other documentation that someone else had done, and it was very amateurish, and would never pass, wouldn't pass much. If you looked at it very closely, you'd know it was a forgery. So it was merely cleaning it up. (0:44:13)
Some of it was new. One of the new, one of the new things that we did for, for him was to show a card showing that Lee Harvey Oswald was a member of the Communist Party. Well, that presented a little problem for us, because I didn't even know what, what that card looked like. And we hunted, and hunted, and hunted, trying to find, find what it looked like, and we were finally told by experts that, hey, those Communists don't carry these, don't carry any cards. (0:44:40)
But they wanted it, so we just had to wing it and make him a nice looking card that showed him a member of the Communist Party. So we completed that in the, in the, in May, May or June. In August, we made a trip to, to New Orleans to deliver some guns and so forth. I had a note, we had a note from George Reynolds. George Reynolds operated for proprietary interests at Morgan City, Louisiana. And he relayed, he was a high level, apparently he, he operated a high level because a lot of instructions came from him, and a lot of money came from him. (0:45:40)
A lot of money came from, from his organization direct, direct to whomever, whomever I said send it to. So he worked at a high level. Besides, he was extremely well connected to the intelligence community. His sister was married to Frank Belcher, who was one of the most powerful figures, legal figures in, in California. Now, Frank Belcher was also, he was partners with Joe Ball. Not actually, not actually partners in their law firm, they had separate law firms, but they operated together. (0:46:24)
Joe Ball, like Belcher, was an influential legal figure. He was president of the California State Bar and gained national exposure as a senior counsel to the Warren Commission. According to Chauncey, both Belcher and Ball were part of an interlocked web with far-reaching connections. Chauncey elaborates further about this shadowy network. George Reynolds had a brother whose name was Bob Reynolds. He was stationed at J.M. Wade. He was a high-level CIA individual, employee. (0:47:03)
Besides, Frank Belcher was related to J.A. Belcher of J.A. Belcher Oil Company. They had old-time oil money from Texas. He also was known to be a CIA asset. He was well-known. So all these things were working together. So, I get a letter from George Reynolds telling me that he and Leroy Young, who happened to be his second-in-command, he was a weapons expert, helicopter pilot, you know, soldier of fortune type, and that they were going to be in New Orleans for about a 20-day period. (0:47:56)
And I was going to New Orleans to deliver some guns to Lewis McWillie, who was a high-level organized crime figure. All these people, of course, were connected to the CIA. So, I was going to deliver these guns over there. So, while I was there, and I had some stuff for a guy, Bannister, he sent me this note stating he was going to be there and that he was going to be at the LaSalle Hotel to meet a guy by the name of Thomas E. I. Davis. Thomas Davis, he was another one of those soldier of fortune types that worked for the CIA. So, while we were over there, on the ninth day of August in 1963, I had never seen Oswald. So, I was down talking to a guy, Bannister, and he said, well, Oswald was over on the next street handing out leaflets, why don't I go over and take a look at him? I don't have to introduce myself, but, you know, at least I'd see him. (0:49:13)
So, I went over and it turned out that Lee Harvey Oswald and a guy named Carlos Griguer got into a shoving match there and they both ended up getting arrested, actually for nothing really. So, I went back over and a guy Bannister said, well, you know, I guess we should go down and get Oswald and bail him out and so forth. (0:49:37)
But, before we could bail him out, Oswald's uncle, Doug Dutch Moretz, worked for Carlos Marcello. So, they sent a guy down to get him out of jail. And that was on a Friday. And on Monday, he was appearing in the night court. I went down to the night court to see what was going on and talk to him. (0:50:08)
I talked to him for a while. And they gave him a little fine and he left. That was the first time I saw Oswald. Yeah, well, I saw him, but the first time I introduced myself to him. I went up and said who I was and so forth and talked to him for a while. He was an interesting kid to talk to. (0:50:33)
He had just turned 24. Well, he wasn't even 24 then. He was 23 then. He didn't turn 24 until October. But, we had an interesting little talk. And then, on Friday, he was back in front of the trademark handing out leaflets again. I happened to be in the trademark talking to a guy by the name of Lloyd Cobb. Lloyd Cobb, they called him the potato man because he owned 8,000 acres of potatoes up around Jackson, Louisiana. He was as far right wing as you can get. (0:51:24)
And he was very, very high up. Those guys at the trademark, John Lawrence may have been the president of the trademark and Clay Shaw may have been the director, but they all took their orders from Lloyd Cobb. So, I went in and just as I came out of the building, I look and there's a television camera there taking pictures of WSDU. They're taking pictures of this little handing out these pamphlets. (0:52:01)
Well, I just ducked down the side and I thought I wasn't caught on film, but it turned out that I was. A television news crew was outside the international trademark and captured on film Oswald passing out fair play for Cuba protest leaflets. Transferred to stills, it clearly shows Oswald at work from a different angle. You see bystanders reading the leaflets. (0:52:35)
In this still taken from the film, Oswald's head is turned away from the camera and from another still, Chauncey in sunglasses is seen exiting the trademark building. He's on the far right. On Chauncey's left, Leroy Young, George Reynolds' assistant. Well, all this stuff really concerned Philip Twombly. Twombly resolved the problem of Chauncey being identified on that news film with the help of New Orleans FBI agent Warren DeBruce. The disinformation campaign worked as Twombly wrote Chauncey. Dear Jack, the potato man advised our distributor in New Orleans that Warren has submitted a report and has positively identified the man coming out of the trademark as the public relations man, not Chauncey. Again, the distributor in New Orleans was Guy Bannister. Lloyd Cobb was able to pull all these strings and had them misidentified by employees of the trademark that he was their boss. (0:53:50)
And so we managed to excavate ourselves from that possibility. I couldn't understand why that they were so worried about it and why that they were so much interested in Oswald. Oswald was an interesting kid, but to try to say that they were trying to separate us from the Fair Play for Cuba Act and didn't want us involved and so forth indicated clearly to me, well it didn't then, but later on I got the idea that this guy was important to them and later on I understood why, because they undoubtedly had other plans for him. (0:54:30)
And the fact that this inquiry was initiated by Philip Twombly indicated to me that Twombly was cognizant of these plans that were in the works. About the same time of the New Orleans episode with Oswald, Chauncey received an unusual order from the Texas gun dealer. In the summer of 1963 we received a an order, I guess you'd call it an order, or a request from a a gunsmith in Dallas by the name of John T. Mason, spelled with an E, and asking us to buy all the existing models of the Manley Carcano rifle. (0:55:34)
The Manley Carcano was an made military rifle, probably the poorest made military rifle that was ever designed. (0:55:41)
They called it the Manley Carcano, the name of Manley Carcano shouldn't even have been on it. Manley Carcano was a great Austrian gun maker, but the only thing that he had anything to do with the Manley Carcano was that he designed the magazine. But they said, buy these existing buy these guns. (0:56:13)
They had us doing a lot of chronograph work on them, measuring muzzle velocity and that sort of thing, using all kinds of loads, underloading, overloading, and so forth. That's a normal sort of thing. We bought these rifles from Sam Cummins, who had another CIA front over at Western Surplus out on Arroyo Seca in Pasadena. We bought these things for three dollars a piece. This would give you an idea what kind of a gun these were. (0:56:49)
So, you'd be better off with a bow and arrow. So, then they sent us a bunch of, the Manley, one particular Carcano, shot a 6.5 millimeter huge bullet. And we received a bunch of 6.5 Manley Carcano bullets. At first glance, if you look at them at first glance, you think that they're on fire, that they're new bullets just cast. But if you examine them very carefully, you could see that they had been fired at least once. (0:57:35)
And they had been fired into either water or a wadding or something so they didn't get disformed, you know, formed out of shape, distorted or whatever you want to call it. Then, they asked us to load a number of these into a 264 Remington case. 264 and 6.5 are the same. However, the Remington, I mean, you could use that from a quality sniper's rifle such as a Remington 700, one of those. (0:58:27)
I mean, instead of sticking with that cheap Carcano. So, it's obviously these people who do this have something in mind. So, we loaded a lot of those cases. We also loaded cases for them what they call Mexican loads. Mexican loads are, you take in this case, we took a 308 case and we necked it down so that it would take the 6.5 and then we put the 6.5 in it. (0:58:58)
And of course, this would be could be fired from a 308. There's a lot of good 308s around. As a matter of fact, the M14, which was the top flight military rifle at that time, used the 308. However, the only drawback in that, of course, is the fact of firing that small projectile out of a lot, you don't know where in the hell it's going. (0:59:29)
I mean, you certainly know you're going to deliver it somewhere, but you can't be sure of hitting anything. So, it's apparent that Mason, they've got something going there. So, we produced all that stuff and delivered it to him in the summer of 1963. On April 23, 1963, the first news release came out concerning President Kennedy's trip to Dallas. What happened at that time, they were, Kennedy himself was, on the one hand, he was talking about having a big speech before the 2506 Brigade saying, this is going to be delivered, this flag is going to be delivered to a free Cuba, we will never let up, and blah, blah, blah, all that political rhetoric. (1:00:47)
When in fact, his emissary, William Atwood, was at that time negotiating with Raul Castro to ease up on some of the restrictions and build up, improve the relationship with the United States. Well, I mean, this is not what the CIA wants to hear. So, what they decided to do was they were going to create this disturbance, which was probably an attempt on the life of the President, or a seemingly attempt on his life, that would be laid to the door of the pro-Castro Cubans. That way, it would inject a little life back into their program. (1:01:38)
So that was what we were told. So as part of our, what our role in it was going to be, was that we were going to forge a lot of identification, Secret Service identification. Not only the cards that they carry, but the lapel pins that they wear. The problem in this, of course, is the fact that they change that lapel every two or three days. (1:02:13)
Of course, the only person who would actually know would be another Secret Service agent. I mean, I'd look at it, I wouldn't know, you wouldn't know, but they thought it was important enough to have the real thing. So we were waiting, we were waiting on this before we could make our delivery to Dallas. Chauncey was to deliver the fake Secret Service identification to Dallas. But even before Dallas, the President had been scheduled to speak in Miami. However, the Secret Service got wind of an assassination plot against the President in that Florida city. (1:02:53)
We prepared some stuff for the Miami thing, which was supposed to take place on November the 9th. This incident? Yeah, this incident. (1:03:00)
And we provided the same type of identification as we did for Dallas. The only problem is that they intercepted a telephone conversation that indicated there was going to be an attempt on Kennedy's life and they didn't have the motorcade. They took him directly to where he was going to speak by helicopter and returned him by helicopter and they had to cancel that operation. (1:03:30)
So we were waiting for the second one, which was going to be in Dallas, because it seemed that that was going to be a viable project. And we were waiting for the word from Twombly what the color of the identification badges were going to be for that particular day. That was the only thing remaining that we had to put together to be delivered and how many we were going to produce. (1:04:04)
Chauncey and his confederates knew that JFK was going to be in Texas. Early on, we knew that he was going to be in San Antonio, Houston, Fort Worth, and Dallas. However, the exact date, we didn't learn the exact date until probably maybe as late as the 15th or 16th. I'm really not sure exactly when we learned, because his agenda hadn't been exactly set. (1:04:47)
Chauncey was waiting to hear when and how many sets of fake Secret Service IDs were needed in Dallas. Then, the orders arrived. It came from Philip Twombly. He did not tell us precisely how we were to get it there, except that it was to be delivered hopefully it was to be delivered on the night of the 21st. Twombly's memo, it's dated November 12th, 1963, to Jack, Los Angeles Stamp and Stationery Company, says in part, number needed undetermined at this time, but will not be in excess of 15. Twombly's referring to the sets of fake Secret Service IDs. He says, schedule accordingly. (1:05:40)
The color of the Secret Service acting ones, the ones that are charged with the protection of the President, they wear these lapel pins, easily recognizable. They look like a little, kind of like a good conduct metal. And they change them from time to time because they figure if they have the same color too long, somebody's going to make a handful of them. (1:06:17)
So they keep changing them, changing them. So we didn't find out until about the 16th that the color it was going to be, which turned out to be the same colors as they have on the flag of Texas. Those were the pins Chauncey was ordered to deliver to Dallas. Our intention first was to fly directly from Los Angeles to Dallas, which is no problem. (1:06:59)
Then on November the 12th, I received a letter from Peter Ligovoli in which he told me to be sure and stop by the ranch that Charlie Nicoletti and Leo Massuri wanted to go to Dallas on their way to New Orleans. He indicated that he had picked up for us a large station wagon, which was registered in the name of John O'Malley, and all the documents indicated John O'Malley. I had a driver's license and identification of the name of John O'Malley, which is the name I decided that I was going to use on this particular trip. (1:07:52)
Chauncey picked up the Mafia hitman at Grace Ranch, owned by Ligovoli. The ranch also provided safe haven for contract agents of the CIA. So we arrived there expecting that we would all four fly to Dallas. However, when we got there, we discovered that Nicoletti and Massuri had a hell of a lot of luggage, and it was heavy luggage and weighed a lot. (1:08:15)
So we thought that it was going to be too risky flying it, doing it that way. So we had this station wagon. We said, oh, what the hell? I mean, we'll drive from Tucson to Dallas. So we all took off. (1:08:32)
We encountered first at Lordsburg, New Mexico, we had car trouble, which held us up for a few hours while they were trying to get the part. Then just west of El Paso, we hit a storm that windstorm was so bad that we had to stop. You couldn't drive, took the paint right off the car. A check of the El Paso Times weather report for November 21st, quote, a frontal system passed through the city about 7.30 a.m., with winds recorded from 29 to 35 miles per hour. (1:09:17)
It was a coup d'etat, and I do not believe that that is the way, not in this country, you know, for a change of command. JFK and Jackie Kennedy arrive in Dallas by plane. It's November 22nd. Early the same morning, Chauncey also reaches Dallas. He drops off the mob hit men and checks into the Adolphus Hotel. I received a note from Twombly telling me that he was going to be, that week, he was going to be at the bottling convention in Dallas. He told me that he had made a reservation for Joe Caddy and I at the Adolphus Hotel where we could stay and rest up a before we came back to the coast. (1:10:30)
He also indicated that he was going to be staying at a private home, which I believe was probably with Clint Murchison because he was a very close friend of Clint Murchison, and that also that he would be meeting Kendall there. Kendall, of course, was a Pepsi-Cola, was another one that bragged about being the eyes and ears of the CIA. Twombly's note to Chauncey tells him to stay as long as you like at the Adolphus. Twombly also reserves a room for Joe Caddy, a fellow pilot and CIA contract agent. (1:11:11)
Everything is taken care of. Just sign the tab. Twombly continues, Kendall and I are staying with friends. Twombly's instructions to Chauncey were simple. We were supposed to meet an individual by the name of Homer Echevarria. Homer Echevarria had a, he was violently anti-Castro, I mean anti-Kennedy. No one hated Kennedy any more than Homer Echevarria. According to records from the House Select Committee on Assassinations, the Secret Service received a tip that on November 21, 1963, Homer S. Echevarria was overheard bragging his group had plenty of money and that his backers will proceed with the arms deal as soon as we take care of Kennedy. At that time, he and a guy by the name Paulino Sierra, they were running around putting together what they said was an expeditionary force that was going to invade Cuba. The Cubans, of course, that was just the name, just the thing that he actually wanted to hear. (1:12:27)
So we were to put it in a station wagon owned by Homer Echevarria. They were to, they gave us the tag number and so forth of the pickup truck and we were, and keys, we had a set of keys, master keys, and all we were going to put the false identification, there was nothing else, no guns, anything else, would put it in there and lock it up and that would be it. (1:12:56)
A picture taken years later in a parking lot behind the notorious Grassy Knoll shows Chauncey pointing to the area where his station wagon was parked. They had to park an area that was used by law enforcement personnel that was locked, which we had a key to, and we were able to go in there and we went around, we looked for the pickup truck and we didn't see it. (1:13:24)
So we re-locked the gate and Canty and I decided that we would go out to the, go out to Red Bird Airport. At Red Bird Airport was a plane just purchased using CIA covert funds. That was the plane that was sitting there waiting for us to take it back to California, or actually we were going to take it back to Bermuda Dunes where Ernie Dunlevy there at the Bermuda Dunes aircraft company was going to do a top overhaul to make sure that it was in good condition. (1:14:01)
So we went out and I dropped off, I dropped off Canty there and it's interesting that Dwayne January, who at that time was the manager of that airport, he still remembers that plane very well. And the reason he remembers the plane very well is the fact that the painting that was on it, it had been owned by a gear company and it had a beautiful, beautiful rendering of a huge gear that took up the entire tail on this aircraft. And he remembers it and he also remembers it because of the fact that Canty spent so long running engine up, running engine up that he had a complaint from the residents around there that he was making too much, too much noise. (1:14:54)
So, but that was, that was his job to do that. So then I went back and when I came back to Dealey Plaza this time, the pickup truck was there. It was now about 10 30 in the morning. I took the, the, the satchel holding all the, the IDs and I put them in the pickup truck, locked it, walked away. (1:15:26)
About 11 o'clock, a person who I'd never, had never met Homer S. Uriel, but he had been introduced to me. I mean, he had, he had, I'd seen pictures of him and it looked like, it appeared that's who it was. Came, got in the pickup truck and drove off. (1:15:40)
A few minutes later, Chauncey noticed some suspicious activity in the parking lot behind the grassy knoll. Now, while I was there, there were several other cars that were, that were in the, in and out and the parking lot that had people in them that at least one of whom I knew very well. (1:16:13)
One of the persons who drove in sat at the entrance for a long time and then left was an individual by the name of Aldo Vera Serafin, who was one of the foremost assassins in the world. Chauncey observed him talking on the radio back and forth. Yep, and looked like he's clicking the mic and so forth and talking on it and so forth. (1:16:37)
And then after a while he, he left and drove out of the parking area. According to Chauncey, Serafin was a freelancer, an assassin for hire. He was freelance. He worked for anybody, anybody who would. Chauncey was ordered to stay in the area of the plaza. Twombly told him some sort of staged pro-Castro demonstration would take place. (1:17:06)
Sort of in a, in a support position, almost like an observer, I guess. So I strolled up by the, almost up to the corner of Houston and Elm Street. I was on the south side. I never actually got up there. And I looked over there and I saw quite a few Latin types. I saw a few individuals that it, I had seen in the past. (1:17:36)
One of them, of course, was Luis Posada, who was another, another assassin. Freddy Lugo, who was also another world-class assassin. And of course, I thought I saw Orlando, Orlando Bosch. The FBI said later on, said, couldn't have been Bosch. Bosch wasn't there because we had him under such tight surveillance. But I certainly wouldn't believe the FBI. So he was up there. (1:18:04)
Other individuals that looked, I thought that I saw Rip Roberson. He was another, had been a, he was a CIA contract agent. And I, but I hadn't seen him since 54. So, you know, you might have, it might have looked like him. Another individual I thought I saw was a guy named Tony Poe, stood for Tony Pospany. But there again, he really wasn't, because later on, he told me, I saw him later on, and he hadn't been out of Southeast Asia, but it was somebody looked like him and wore that same, they had the, the floppy, fatigue type stuff that they wore, the military type hat and so forth. (1:18:55)
So he was another, he was another mysterious looking guy that was over there. So they were over there, you know, they're wandering around Dealey Plaza for some, some purpose. And they had a, you know, an unusual number of, I mean, it'd be hard to find at a, at the Soldier of Fortune meet, it would be hard to find as many military types as was wandering around in Dealey Plaza. And of course, he really wondered about that. (1:19:28)
But after all, we were getting ready to have a demonstration, so, so I thought. So anyway, I didn't, it didn't bother me too much. (1:19:36)
And of course, you're, you're, you know, you're tempted to go over and talk to these guys. But then again, you're operating on a need to know basis. And so you, you leave these guys alone, you don't do anything about it. Chauncey would learn later, there were some other notorious individuals in Dealey Plaza. I've always thought that it was some effort to, you know, muddy the water. We've got as many bad guys running around as you can possibly get. (1:20:07)
And they all seemed to gravitate and just seemed to me more than coincidental that they would all show up in Dallas at the same time. And I think that if they had, if the Sheriff's Department, the FBI, or the Dallas Police Department, if they had done their job, that jail down there would have been full of nefarious characters with all kinds of reputation. (1:20:35)
Chauncey was worried, his instincts told him something was up. But his orders from Plumlee were clear. I had these BATF credentials, and they were saying if there is any, if you have any, if you have any trouble, you go and jump in this boxcar. They identified the boxcar. You get in this boxcar, which will appear to be locked. It'll have a seal on it and everything else, and sweat out what happens if they have some kind of a serious confrontation. (1:21:18)
The boxcar was in a train yard behind the Grassy Knoll. It was the ninth car in a line of boxcars. But there was another order given Chauncey, an order for weapons. Usually, almost all the requests for armament of any kind, either just stock rifles, pistols, to silenced rifles, silenced pistols, almost all of it came from George Reynolds in Morgan City. Reynolds told Chauncey to make a delivery. (1:21:57)
I had had instructions that I was to deliver some guns and some IDs to two other individuals, one of whom was Charles Harrelson and another was an individual that I knew as Richard Montoya. Charles Roger, I mean Charles Harrelson, I had never met. He had been pointed out to me one time in John Mason's gun store by a guy I was with and he said, that is Charles Harrelson, that he is a part owner in this gun store. (1:22:49)
Now, I had, later on, I did some false ID work for Charles Harrelson, except he was using the alias of Terry Southern at that time. So, I had seen his picture, you know, so, I mean, after seeing him one time and having his picture, I mean, you are pretty good idea that, hey, this is the guy. (1:23:12)
So, he walked up to me and he said, are you John O'Malley? And I said, yeah. And he said, I am Charles Harrelson. I said, no, you are Charles Harper, because that was the name of the identification, the name of Charles Harper. And so, I gave him the ID and then they had requested that I bring over a couple of guns for him and the other guy, who I will get to in a minute. (1:23:44)
And so, I gave him this Smith & Wesson, Model 40. And I gave that to him. And the other guy was a guy named Richard Montoya. I had met him sometime before. I met him at the home of Orlando Piedra. Orlando Piedra was a, had been formerly was the Chief of Police of Havana. He was at that time living in this plush estate on Pine Tree Drive in Miami and was, he was actually Batista's paymaster. (1:24:24)
So, I met him. I went over, we went over to see Piedra about something and this guy was introduced to me as Richard Montoya. And he spoke very good Spanish. I assumed that he was probably an American-born person that spoke Spanish because he didn't look, you know, he didn't look like a Cuban. That he was probably one of Piedra's bodyguards because he had a lot of them. (1:24:57)
So, that was the second guy. So, I gave him his ID and then I had gave him the gun. (1:25:09)
I gave him the, and so they took this and they walked away. The crowds had begun to gather along the route in anticipation of seeing the President of the United States and the First Lady. It was noon. Chauncey was pacing in the parking lot behind the grassy knoll waiting for the staged demonstration to begin. I was told specifically by Phillip H. Twombly that they were going to have this, he described it very specifically, that it was going to be a non-violent demonstration incident that would be laid to the door of the pro-Castro Cubans. I just assumed that included in there, if it's going to be something that's serious enough to inject some life into this thing, it has to be more than a few placards. (1:26:26)
That it's going to be more than those we hate Kennedy placards. That they were going to have to do something, and I would assume that, hey, they're going to take a shot at that motorcade and with the intention of not hitting anyone. Maybe that's why they were going to use the Mandlinger Carnival because it couldn't be possible. (1:26:48)
They wouldn't know where they were going to shoot. On the surface, the plan seemed simple. The demonstration would lead to public outrage. You know that there's going to be a swell of public opinion is, hey, turn the screws on Castro. They'd have been yelling for them to evade Cuba and everything else. The presidential motorcade was moving closer and closer. (1:27:17)
Chauncey could hear the crowd growing excited. It was 1230. When the shooting started at 1230, then immediately after the first shot, which was a weak type shot, I realized that this was not any simple demonstration. You know, in addition to all the shots, people were screaming and carrying on and running in all these directions. I didn't actually see the shooting, although I was behind the picket fence within 25 yards of the motorcade, but I didn't see it. (1:28:04)
Stand by, just a moment, please. Something has happened in the motorcade route. Stand by, please. Put me on, Phil, put me on. Something has happened here. We understand there has been a shooting. A presidential car coming up now. We know it's the presidential car. You can see Mrs. Kennedy's pink suit. There's a Secret Service man spread eagle over the top of the car. (1:28:22)
We understand Governor and Mrs. Connelly are in the car with President and Mrs. Kennedy. We can't see who has been hit, if anybody's been hit, but apparently something is wrong here. Something is terribly wrong. Chauncey didn't see the President's shot, but he sure heard something. Oh, I heard it very well, enough to know, first of all, that there was more shots fired than the three they claimed, and it seemed to me like that, you know, and being a, you know, somewhat of an expert, you know, on shooting, that the shots did not all come from the same direction. (1:28:58)
I am quite sure that the shots were from different caliber guns and from a different source, and I know that there's four shots and possibly five shots. It's very hard to distinguish shots that are fired with an automatic or semi-auto from, you can shoot them as fast that the sounds merge together, but I believe that there's probably five shots and that they came from different sources. (1:29:35)
It was just a fuselage of shots in a very, very short period of time. My first thing was to, hey, just get out of here, you know, just go over, mix with the crowd, you know, and go. But I had been given specific instructions, and when you're given specific instructions, that's what you do. I had enough time to just barely get to the boxcar, and when I arrived there, these two other individuals, known to me as Harrelson and Montoya, were already there, indicated that they were close by. (1:30:29)
And we jumped in the boxcar, closed the door, and just settled down to wait everything out. There was a search party that came by many times, but this boxcar appeared to be locked. It had a seal on it, and they kept passing it up. We could hear them outside. (1:30:53)
We could hear their radios and so forth. The three sat in the boxcar for over an hour, listening to a police radio receiver Chauncey had concealed in a brown paper bag. Then around 2 20 p.m., the boxcar started to move. It moved up the tracks, and then it backed down the tracks and stopped. What actually happened was that the Lee Bowers, who happened to be the tower operator, which supervised all the movements in the yard, happened to see somebody jump on the train further up. (1:31:37)
He ordered the train stopped, and they backed down the tracks a little ways. We weren't too concerned about it at that time because of the fact that, after all, it was a switching yard. But suddenly they stopped, and for some reason, they chose that time they didn't pass the boxcar up. So we heard them rattling at the door, and I immediately got out my BATF credentials because I certainly didn't want to have a bunch of trigger-happy cops dragging us out of there. (1:32:17)
So the minute they opened the door, of course, I flashed my credentials and said I was with the BATF. I had a badge and all the credentials. And D.V. Harkness was a sergeant with the Dallas Police Department. He was in charge of this detail. And another officer by the name of Roy Vaughn was like his second-in-command. So we identified ourselves, or I identified myself. (1:32:44)
I did all the talking. I identified and said, hey, we're with the BATF. We're working undercover. We're investigating this armed shipment and it's in this boxcar. And he and Vaughn conferred for a little bit, and they decided that they would send us over to the little area that had been set up as an investigative-type office. (1:33:19)
Yeah, a little command center. They had the sheriff's department, they had the police department, they had the FBI. It was all there. And it was over at the sheriff's department. So he assigned two cops, Marvin Wise and Billy Bass, to escort us over. And we started over and it was just like a leisurely walk. It didn't seem like it was anything urgent. (1:33:47)
Harrelson was in the front at that time and he was just sort of strolling along like he was enjoying the whole situation. He was probably smoked up on something because he was a notorious narcotics user. So then he suddenly changed. Montoya went by him and Montoya got in front. So they took us around the plaza by the Texas Book Depository. They were headed to the command post near Elm and Houston. Once there, the three were interrogated briefly and released. (1:34:19)
These men would later be called the Three Tramps. They were taking pictures of everybody in sight. And incidentally, there's a lot of guys' pictures that they ended up taking their pictures that they still aren't sure who they were. I mean, one guy, they picked him up. They took a picture of this one guy. (1:34:48)
I mean, he's dressed all in black, almost like a ninja. And they still don't know who that guy was. And there's a picture of one guy that the police are putting in a police car. (1:34:58)
And he's a military-type looking guy, you know, very fit, had that crew haircut on. They're putting him in there. And they've been trying to identify this guy for all these years, and they haven't been able to. He just got lost in the shuffle like everybody else did. While a number of suspects were questioned within minutes of the shooting, that wasn't the case for Chauncey, Montoya and Harrelson. They were detained two hours later. (1:35:33)
Just look at the shadows in the photos. It's clearly late afternoon. The pictures were taken by reporters, from the newspaper reporters, as we were walking around. They took pictures of us all the way around that that plaza. You'll see there's a lot of them walking in front of the school book depository. Chauncey Holtz claimed to be one of the so-called three tramps has been documented elsewhere. (1:35:58)
There is more than just Holtz's word. There is also his face. Lois Gibson is the Houston Police Department's forensic artist. She made comparisons of Holt and the tramp in the photographs. This is just conclusive to me that that's the same man. She also compared pictures of Charles Harrelson with the tramp photo. Again, a perfect match. (1:36:23)
I'll stake my reputation on it for sure. Looking at the feet of the tramp, you will notice he has a distinctive walk, toes pointed outward. The same characteristics possessed by Chauncey. Chauncey developed his unmistakable gait as a result of his earlier years on the circus high wire. Off camera, Chauncey hints at the use of disguises in covert operations. Phil Twombly told Chauncey to dress the part of a working man. (1:36:51)
I was instructed to just blend in with the other individuals that were there and the workers that were in the yards. So, Chauncey in his working man's clothes along with his boxcar companions were led to the Dallas County Sheriff's Command Post in the Criminal Courts Building. The deputy sheriff that was in charge of sort of a preliminary type investigation was a guy by the name of David Elkins. So, they took us up there and had a few words with him and he called over to the police department and Will Fritz, who was the chief homicide detective and was really in charge of the whole thing, came over and told Elkins turn him over to Gordon Shanklin of the FBI. Chauncey was briefly interrogated by Gordon Shanklin of the FBI. Chauncey's fake credentials from the Bureau of Alcohol, Tobacco, and Firearms came in real handy. So, he looked at him. He was sort of convinced. (1:37:59)
He asked us a few questions, which didn't seem like he was too much interested. He wanted to know how long we'd been in the boxcar. We said two hours. He wanted to know, did you hear the shots? No, we didn't hear the shots. Why did you have the door closed? Yeah, because we didn't want anybody from the outside knowing what we were doing. (1:38:23)
Were you aware of what was going on? No. What were you doing all this time? Oh, we were looking at the paperwork and we were inventorying the arms and ammunition. Shanklin asked if Chauncey and his two associates were armed. They were. The two guns I had were very unusual. One gun was a shorty .45. It was a .45 that was just simply cut down. (1:38:54)
They had taken all national match parts, they cut down the slide, they cut down the grip, they cut down everything about it. Otherwise, it was just like any other .45, except it had a hell of a kick. And that was one. Of course, it was hard-chromed and it was a very, very unusual gun. Probably $2,500 or $3,000 worth of gunsmithing in it. (1:39:14)
The other gun that I had was a, technically it was a Simmerling L-22. It was usually referred to as the Lickman because he was the guy who designed it. It was a very small .45. It was as small as the .25, because you can see in the pictures, it's laying beside the .25. It is no bigger. But it wasn't a semi-automatic. What you had to do, you'd fire a shot and then you'd rack it, fire again, rack it, like that. (1:39:57)
But it was a, and of course it was accurate up to about 25 yards and had one hell of a kick. Well, these were rare guns and they were very interested in guns and he asked me if I'd mind if they photographed the guns. And I said, no. So they photographed the guns, they gave them back to us. (1:40:20)
And it was only years later, through an ex-FBI agent, that I managed to get a hold of the pictures. He got the pictures for me, although he couldn't find the negatives in the files, but he did send me the contact print. Shanklin bought and told the three men they were free to go. Once Oswald was arrested, I mean, the FBI took no more interest in finding anybody because within 15 minutes, J. Edgar Hoover had already declared that the president had been shot by a communist-carrying terrorist. (1:41:03)
And once Oswald was captured, that was the end of the game. Chauncey noticed someone he knew at the command post. It was a mafia courier. As I was walking out, actually, as we were walking in, a Gene Braden, who was an organized crime figure, happened to be walking out. And I knew him. (1:41:39)
He had been detained temporarily. I knew him because, and I'd seen him just the past week. I knew him because we shared offices in a building at the corner of San Vicente and Wilshire in Beverly Hills. So I had seen him the week before, and he indicated that he was going to be in Dallas, going to be staying at the Cabana. He said, hey, why don't you come by and have a drink? So I knew he was there, but I didn't give any indication of knowing him. (1:42:14)
He didn't give any indication of knowing me, which, of course, I suppose it would have been disastrous if we hadn't. Because here I am. He knows me as Moon. I'm using an alias of John O'Malley in this particular operation. He had changed his name from Gene Braden to Jim Braden, and he had been arrested under that name, Jim Braden. And suppose I'd run in and say, hi, Gene. He'd say, hey, hello, Jack. I could see that there would have been a... they'd have scooped us up in a hurry. (1:42:50)
Jim Braden, an ex-con on parole, was in the building across from the school book depository, the Daltex building. He was there, he says, to make a phone call. Braden was also taken into custody and released. Outside the command post, Chauncey headed toward the nearest telephone. (1:43:19)
There was a lot of sleazy bars and so forth along in there, so I walked down there and went in to use the telephone. I didn't want to go over in the Daltex building or any of those buildings. I wanted to get as far away from D.C. Plaza as I could get. But on the other hand, I wanted to find out what they had told... what they had talked about, you know, with Jim Braden. I knew he was at the cabana, so I called over and I spoke to him. (1:43:55)
Braden said the police questioned him and let him go. Chauncey asked Braden if he wanted to fly back to California with him. Braden declined, but he offered Chauncey a ride to Redbird Airport. Chauncey accepted. Braden would later leave Dallas by way of Love Field. Everybody scattered to the wind. Chauncey and fellow pilot Joe Canty took off for the Grace Ranch in Tucson, where they refueled before returning to California. Joe Canty, who was the pilot that had gone with me, we didn't... we really didn't talk too much because, you know, you were just... you were just reflecting on everything that happened. And it was almost all the way into Tucson. I mean, it was... he attended to the flying and I handled the radio and... but, you know, I was just actually alone with my thoughts. (1:44:48)
I really wasn't interested in talking at all. The Kennedys seem to be a group of individuals who like to live on the edge. When you... when you are in that business and you use your power, you are going to provoke someone else equally as powerful. Somebody put it together very masterfully. After the assassination, Chauncey kept a low profile. (1:45:34)
In December, he got a letter from Peter Licavoli, the mob boss, wrote Chauncey, quote, to wish him a Merry Christmas and a Happy New Year. Hope 1964 is better than 1963. The letter made Chauncey uneasy because Licavoli knew Chauncey was in Dallas when JFK was murdered. Chauncey wondered what else Licavoli knew about the events of November 22nd. Chauncey had a good reason to be jittery. (1:46:04)
My father-in-law called me up from Beverly Hills and said there was two very mysterious gentlemen looking for me. And they had the information on my car, which is a new Cadillac with Arizona plates, which wouldn't be hard to spot. They had the N number on my airplane that I owned personally. (1:46:37)
And, of course, the first thing I thought about was Dallas. I didn't know whether it was... I didn't know whether it was the cops or whether it was somebody just going to cut the umbilical cord. Chauncey contacted his ally, attorney Frank Belcher. Belcher advised him to see his associate, Joseph Ball. So I went down and Joe Ball happened to be in Washington because they had formed the Warren Commission and he was appointed as a senior counselor to the Warren Commission. So he wasn't there, but one of the senior partners, Hunt, talked to me. (1:47:13)
And I told him my story. I told him I was there. I had nothing to do with the assassination and so forth. And he just took a sort of insouciant attitude. He didn't seem to be concerned. I said, don't worry about it. He said that Joe had been appointed to the Warren Commission and it had been formed for the sole purpose of proving beyond doubt that Lee Harvey Oswald was the lone assassin. (1:47:45)
And anything aside from that was going to be pushed under the rug, you can believe me. Chauncey realized the fix was in. Already a game plan for the Warren Commission and this was this was in December of of 63. In January 1964, Chauncey received a letter of assurance from Frank Belcher. The letter reads, I spoke to Joe Ball today and went over the gist of your conversations with Mr. Hunt. Joe assures me there will be no legal problems resulting from the activities in Dallas. If Belcher said something, I mean he made he made a promise, you know the ball will carry through. (1:48:29)
Joseph Ball was busy with his duties as senior counsel for the Warren Commission. His duties involved one certain aspect of the investigation which fortunately included Dealey Plaza and what happened inside the the book depository. That's where his that's where his expertise came in. Although he did do some questioning regarding the the shooting of officer Tibbett, but he's mainly confined with that portion of it. (1:49:00)
He was designed to show that hey, Oswald was up there. He did the shooting by all by himself. Joseph Ball also managed another sensitive area of the investigation. The testimony of eyewitnesses and the police who said they had encountered Secret Service agents in Dealey Plaza. Mr. Sorrells testified and his testimony was supported by other agents as well that there were no Secret Service agents on the ground. (1:49:36)
According to the special agent in charge of operations in Dallas, there were no agents on foot in Dealey Plaza. All Secret Service personnel were assigned to the president's motorcade. The other individuals, several other individuals, indicated that they saw and were stopped at various times by people who were carrying Secret Service identification. And this was in the behind the picket fence and it also happened in the rear of the book depository. (1:50:11)
From all of this, my only conclusion can be that someone had forged Secret Service identification that they were using. Either we did it as our studio or someone else did it. (1:50:29)
I would probably would be willing to make book that it was the Secret Service ones that we had produced a few days before. Gene Hill was the closest eyewitness to Kennedy's murder, just feet from his limousine, across the street from the grassy knoll. She says she saw someone shoot the president from the knoll and like many others, she ran to chase the man. (1:50:55)
Then she was stopped by a man who had Secret Service credentials. He had shown me some ID, Secret Service. You say Secret Service? Yes, sir. A more disturbing aspect of the Warren Commission's work became apparent to Chauncey years later. In 1970, Joseph Ball had hinted to Chauncey that tampering with the evidence had occurred. The Dillard photo was one prime example. The photo shows the window just below the sixth floor window where Oswald was alleged to have fired from. This picture was taken by the Dallas Morning News photographer following the president's motorcade. It was taken about 15 seconds after the last shots were fired. (1:51:41)
Ball suggested to Chauncey without elaborating that the Dillard photograph had been altered. They weren't about to entertain any other theory at all. If it was a credible witness that gave them testimony that didn't agree with their preconceived ideas, they just didn't hear him. Chauncey had mixed feelings when he learned that some persons or person were intent on not revealing what really happened on November 22nd. I thought that our role was so peripheral that undoubtedly you could put a pretty good spin on it, you know what I mean? And so it was a great relief, although we still didn't feel that we're actually in the clear because in the back of my mind are these two guys who were looking for me. (1:52:39)
Chauncey decided to leave the country while the Warren Commission deliberated. On January 12th, Frank Belcher wrote Chauncey. He recommended Chauncey take advantage of a safe house in Mexico that Belcher and Joseph Ball owned. They owned a lot and lot of properties together including a safe house in Acapulco next door to Las Prisas that was used by contract agents of the CIA, card carrying agents, CIA, high level organized crime figures such as Ligovoli, John Roselli, Giancana, Doc Stasher, all those guys. (1:53:19)
So they were, you know, they were really joined. The Belcher letter to Chauncey continued, quote, let me know when you want to use the Acapulco house. As far as I know the house is empty. Call Jorge and let him know when you would be arriving. The letter is signed best regards Frank Belcher. So Chauncey and two other CIA contract agents flew to Acapulco. Beautiful house. And so while we were there I got a letter from from Ernie Dunlevy who was Ray Ryan's partner and handled all the operations that dealt with aircraft. (1:54:05)
I got a letter from Ernie Dunlevy said there's a couple of guys there looking for me. He tells Chauncey they said they were friends of yours but I have my doubts. So I could see that they were for some reason somebody was was really interested. So I decided that I called up Philip Twombly and told him you know I'd like to make myself scarce. (1:54:34)
He said well call up these your colleagues at the proprietary interest that you have and see if they can handle things. So I called up Tony Materna at the Los Angeles Stamp & Stationery Company. He assured me that he would have trouble carrying on. I called Dewey Martin who ran our modification plant in Goleta and he said no production would continue. (1:55:02)
He'd get his orders directly from from George Reynolds and Ernie Dunlevy said you know I could handle everything down here. So I kept I called everybody that I knew at how to work with JM Wave. I called Larry Downs, Tom Franklin, Philip Custer. All these were high-level CIA individuals there. JM Wave was the huge CIA facility in South Florida that organized and supplied the CIA's secret war against Cuba. Then I started shopping around to get to get a new front something to something or get a new assignment. (1:55:44)
(2024-12-11)