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Jacques Valee: 「中世の性的誘惑を行う魔物」の現代版として ET abduction

· 77 min read

前置き

見かけたので消える前に記録しておく。

出典

http://web.archive.org/web/19980424210028/http://www.brotherblue.org/brethren/magonia.htm

和訳(DeepL(2024-07 model))

「宇宙人」デーモニアリタス

妖精信仰が今日のおとぎ話に堕落したように、民俗学がマイナーな文学形式に堕落すると、当然ながらその内容の多くが失われる。このような不思議な物語で、スパイシーなディテールが検閲された結果、単なる驚きの場になってしまったのである。

ビラス=ボアス事件[ブラジルの「UFO誘拐」事件で、農夫のアントニオ・ビラス=ボアスがUFO船に乗せられ、媚薬入りの液体を飲まされた後、魅力的な赤毛で胸のとがった「宇宙人」の女性と2回交尾させられたとされ、その際、動物のような奇妙なうなり声をあげたという、よく知られた事件である。

彼女にとってそうであったように、彼にとってもそうであったことを我々は願っている。-B:.B:.】は保育園の読み聞かせにはふさわしくないが、この物語から小柄な女性を排除することは、この物語を深い象徴性や心理的価値のない物語にしてしまうだろう。性的な文脈こそが、このような物語に文学的な影響力を与えるのである。妖精信仰にインパクトを与えるものなのだ。

性的な文脈がなければ--現代のおとぎ話では決して聞くことのない、チェンジリング、人間の助産婦、ジェントリーとの婚姻の話がなければ--妖精に関する伝統が時代を超えて存続していたかどうかは疑わしい。人間以外との性的接触の最も顕著な事例は、スパイシーな円盤の本にも妖精伝説にも載っていない。

それらを見つけるには、まずラテン語を学び、これらのユニークな記録が保存されている数少ない図書館に入館しなければならない。しかし、そこで見つけた記録は、ヴィラス=ボアス事件を比較にならないほど淡白なものにしている。

私たちが研究している人間以外の種族と人間との間の婚姻の可能性を信じることは、すべての歴史的文脈における出現に付随するものであることを、まずはっきりさせておこう。このことは、聖書の物語を読めば一目瞭然なので、詳しく説明する必要はないだろう。

天使の性別は、あらゆる神学的問題の中で最も難しい--それどころか、最も明確である--ものではない。アナトール・フランスの『天使の反乱』では、天界の存在の一人であるアルカードがこう語っている:

「健全な参考文献があるに越したことはない。天使と女性の情欲的な抱擁について、私があなたを欺いていないことを確信するために、モーリス、ユスティンの『弁明』IとII、フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』第1巻111章、アテナゴラス『復活について』、ラクタンティウス第11巻15章を調べてほしい;Lactantius, Book 11, Chapter XV; テルトゥリアヌス『処女のヴェールについて』、エフェソスのマルクス『プセロス』、エウセビオス『福音書』第五巻第四章、聖アンブローズ『ノアと方舟』第五章、聖アウグスティヌス『神の都』第十五巻第二十三章、イエズス会のメルドナ神父『悪魔論』248ページ。 ..」

愛人である可愛いマダム・ジルベルテを盗んだことを謝ろうとする哀れなモーリスに、彼の守護天使であるアーケードはこう語りかけた。反乱を起こした他の天使たちは皆、私がジルベルテにしたようにしただろう」。

「使徒は言う、「天使のために、女性は頭を覆って祈るべきである」。 これで十分明らかだ。しかし、妖精やエルフはどうだろう?彼らはそのような肉欲に支配されているのだろうか?次の事実を考えてみよう。 17世紀のデンマークの歴史家トルフェウスは、『ホルフのサガ』の序文で、アイスランドの学者アイナード・クスモンドがエルフについて述べたことを記録している:

「私たちと同じように結婚し、男女の子供がいる。その証拠に、彼らの女性の中には、単純な人間との愛を知っている者もいる。

ウィリアム・グラント・スチュワートは、『スコットランドのハイランド人の俗信と祝祭の娯楽』の中で、妖精についての考察の第二部を捧げている。妖精の情熱と性癖について」と題された章で、彼は妖精との性交渉について次のように述べている:

「妖精はその情愛の深さが際立っており、自分たちの種族とは呼べないような人々との間に愛着やつながりを持つことに、さほど後ろ向きではない。

これは複雑な言い回しの美しい例である。スチュワートは、このような出来事はもはや人間と妖精の間では起こっていないようだと報告するとき、それほど明らかに困惑していない:

「トマントゥール村に住んでいる年老いた靴屋を除いては、若いころにラナン族と交わったことがあると告白しているが、個人的にこのようなことをした人物を知らない」。

もしスチュワートが今日戻ってきたら、UFOの資料を読んでこの発言を修正しなければならないだろう。カークはもっと明確にこう述べている: 「われわれのスコットランドには、サキュビとして、あるいは歓楽的な愛人や売春婦として、淫らな若者と頻繁に会う、そのような空中秩序を持つ多数の美しい生き物がいる。

中世のオカルティズム、特に薔薇十字理論において、このような「馴染みの霊」が重要であったことを、読者に思い出させる必要はないだろう。また、そのような身近な霊がいるという証拠によって死刑になった被告の魔女の数についても言及する必要はないだろう。

性的な問題に関して、妖精信仰とufologyの間にギャップはない。このことは、例えば次のような話を記録しているウェンツの研究からも明らかである:

「祖母のキャサリン・マクニスは、彼女の知り合いのラフリンという男が妖精の女に恋をしていたことをよく話していた。その妖精は毎晩ローフリンに会うのが日課で、ローフリンは彼女に愛想を尽かし、彼女を恐れるようになった。

ついに事態は悪化し、ラフリンは妖精女から逃れるためにアメリカへ行くことを決意した。計画が決まり、彼が移住しようとするとすぐに、草原で夕暮れ時に乳搾りをしていた女たちが、妖精女がこんな歌を歌っているのを耳にした: 「茶髪の女はどうするのだろう、レイチーが船出したら"。 「レイシーはケープ・ブレトンに移住し、ノヴァ・スコシアのピクトゥに上陸した。"友人たちに宛てた最初の手紙には、同じ妖精の女がアメリカにいる彼を悩ませていると書かれていた。

この件に関するウエンツのコメントは極めて重要である:

「これほど珍しく、好奇心をそそる物語を発見することは......あらゆる証拠から見ても、非常に興味深いことである。そして、その文学的価値の高さはさておき、現代において人間をその愛に誘う妖精女性が、中世の神秘主義者たちのサキュビと同じではないにしても、ほとんど同じであることを決定的に証明している。"

そこで、前述した宗教的記録に話を戻そう。その中のひとつに、私がこれまでに出会った中で最も驚くべき出現の事例がある。その驚くべき内容や衝撃的な特徴において、我々がすでに研究したいくつかの報告、たとえばヒルズ事件やヴィラス=ボアス報告を凌ぐ話が存在するとは信じがたい。

しかし、注目すべきことではあるが、後者の2つの証言は、現象全体の一面に言及しているに過ぎない。これらの証言は、必要な背景を提供する、あまり知られていない何百もの事例の連続性の中に位置づけられて初めて解釈することができる。インキュバスの幻影とポルターガイスト現象を結びつけている点で、この事件はユニークである。

ルドヴィカス・マリア・シニストラリ・デ・アメノ神父は、17世紀後半に書かれた手稿『De Daemonialitate, et Incubis, et Succubis』の中でこの事件を報告し、論じている。シニストラリ神父とは?1622年2月26日にイタリアのアメーノで生まれた神学者・学者で、パヴィアで学び、1647年にフランシスコ会に入った。高名な学者としての名声に惹かれてパヴィアに集まった多くの学生たちに哲学と神学を教えることに生涯を捧げた。

また、異端審問最高裁判所評議員やミラノ大司教付神学者を務めた。1688年にはフランシスコ会の規約の編纂を監督した。1701年に死去。 シニストラリ師は、『De Delictis et Poenis』という著作を出版しているが、この著作は、ありとあらゆる罪と犯罪を「tractatus absolutissimus」として網羅的にまとめたものである。

つまり、シニストラリ師は17世紀のカトリック教会に仕えた、人間心理と宗教法に関する最高の権威の一人だったのである。彼の『De Daemonialitate』に比べれば、『Playboy』は穏やかな回想の集まりである。良き父はこう書いている:

「今から25年ほど前、私がパヴィアの聖十字架修道院で聖なる神学の教授をしていた頃、その街に優れた道徳性を持つ人妻が住んでいた。彼女を知る者は皆、特に聖職者たちは、彼女を最高の賛美の対象としていた。彼女の名はヒエロニマといい、聖ミカエル教区に住んでいた。

「ある日、ヒエロニマはパンを作ってパン屋に持って行き、焼いてもらった。パン屋はそれを彼女のところに持って帰り、同時に、バターとベネチアのペーストで作られた、ベネチアでケーキを作るときに使われるような、とても変わった形の大きなパンケーキを持ってきた。彼女は、こんなものは作っていないと断った。

「しかし、パン屋は言った。このパンケーキもあなたの家で焼いたものに違いありません。 「良い婦人は納得し、ホットケーキを受け取り、夫と3歳の娘と召使いの娘と一緒に食べた。

「翌日の夜、夫と一緒にベッドに入り、二人とも眠っている間に、彼女は非常に細かい声で、どこか甲高い口笛のような音で目が覚めた。その声は、彼女の耳元で、とてもはっきりとした言葉を発した: ケーキはいかがでしたか?恐怖のあまり、私たちの善良な婦人は十字架の印を使い、イエスとマリアの名前を続けて唱え始めた。

「その声は言った。危害を加えるつもりはない。それどころか、あなたを喜ばせるためにしないことはありません。私はあなたの美しさに恋しており、私の最大の望みはあなたの抱擁を楽しむことです」。

「同時に、彼女は誰かが自分の頬にキスをしているのを感じた。彼女は何も答えず、ただイエスとマリアの名前を何度も繰り返し、十字架の印を押して抵抗した。誘惑はこうして30分ほど続き、その後、誘惑者は立ち去った。

「朝になると、その婦人は知恵と知識のある告解者のもとに行き、信仰の道を確認し、強い抵抗を続けるように、そして聖なる遺物を使うように訴えた。

「次の夜も同じような誘惑があり、同じような言葉や接吻があった。しかし、このような試練が続くことに嫌気がさした彼女は、懺悔官や他の真面目な人々の助言を受け、彼女が憑依されているかどうかを判断するために、訓練を受けたエクソシストによる検査を受けるように頼んだ。エクソシストたちは、彼女に悪霊の存在を示すものは何も見つからなかった。

エクソシストたちは家、寝室、ベッドを祝福し、インキュバスに悪霊の侵入を止めるよう命じた。しかし、すべては無駄であった。彼は彼女を誘惑し続け、愛で死にそうなふりをし、女性の憐れみを誘うために泣き叫び、呻き声をあげた。神の助けもあり、彼女は動じなかった。

「金色の巻き毛で、金色に輝く金髪の顎鬚を蓄え、海緑色の目をした少年か小男の姿で現れたのだ。さらに誘惑の力を増すために、彼はスペインの法衣をエレガントに着こなしていた。そのうえ彼は、彼女が一緒にいるときでさえ、彼女の前に姿を現し続けた。恋人たちがするように、彼は愚痴をこぼし、キスを送った。

一言で言えば、彼は彼女の好意を得るためにあらゆる誘惑の手段を使ったのだ。彼女だけが彼を見聞きした。 「この優秀な女性が数ヶ月間揺るぎない決意を保ち続けたとき、インキュバスは新たな迫害を加えた。

「まず、聖遺物でいっぱいの銀の十字架と、彼女がいつも身につけていた教皇ピウス5世の祝福された蝋でできた子羊を奪った。その後、指輪や金銀の宝石が続いた。彼は、それらが収められていた棺の鍵に触れることなく、それらを盗んだ。その後、彼は彼女を残酷に殴り始め、殴られるたびに、彼女の顔や腕、あるいは体の他の部分に痣や痕ができ、それが1日か2日続いた後、突然消えた。

「彼女が娘に乳を飲ませると、彼はその子を膝から抱きかかえて屋根に運び、雨どいの端に置いた。「あるいは、娘を隠すこともあったが、娘に危害を加えることはなかった。 「彼はまた、家庭を混乱させ、時には皿や土器を粉々に砕いた。しかし、瞬く間に元の状態に戻した。

「ある夜、彼女が夫とベッドに横たわると、インキュバスはいつもの姿で現れ、精力的に彼女に自首するよう要求した。彼女はいつものように拒否した。激怒したインキュバスは立ち去り、しばらくして、ジェノヴァやリグーリア地方の住民が家を覆うのに使う平らな石を大量に積んで戻ってきた。

その石でベッドの周りに天井近くまで届く高い壁を作った。この壁は石灰を使わずに作られた。石垣は取り壊され、石は隅に保管された。しかし、2日後には消えてしまった。

「聖ステファノの日、その夫人は数人の軍人を招いて食事をした。ゲストをもてなすために、彼は立派な夕食を用意した。彼らが習慣に従って手を洗っていると......!-- 突然、食器、大鍋、皿、そして台所にあるすべての土器、水差し、瓶、グラスとともにテーブルが消えてしまったのだ。

招待客の驚き、驚きは想像に難くない。その中にスペイン人の歩兵隊長がいて、彼らに言った:

「恐れることはない。恐れることはない。しかし、ここにはかつてテーブルがあったはずだ。私はそれを見つけるつもりだ」。そう言うと、ベは両手を広げて部屋を回り、テーブルを奪おうとした。しかし、何周も回っているうちに、空気に触れているようにしか見えなくなり、皆に笑われた。

そして夕食の時間が過ぎたので、皆はコートを取って家路についた。丁重に付き添っていた夫と一緒に玄関に着いたとき、ダイニングルームで大きな音がした。何だろうと思って立ち止まってみると、召使いの娘が走ってきて、台所には新しい皿がたくさん並んでいて、テーブルがダイニングルームに戻ってきていることを告げた。

「テーブルはナプキン、食器、グラス、銀食器で覆われていた。そして、珍しいワインが注がれた貴重なカップがずらりと並んでいた。キッチンにも新しい水差しや調理器具があった。しかし、客たちはお腹が空いていたので、この奇妙な食事を食べた。食後、暖炉のそばで話していると、すべてが消え、古いテーブルが手つかずの食器とともに戻ってきた。

「しかし、奇妙なことに、誰ももうお腹が空いていなかったので、このような豪華な夕食の後、誰も夕食を食べようとしなかった。

「この迫害が数ヶ月続いたので、婦人はフェルテルの福者ベルナルディーノに相談した。そして同時に、ベルナルディーノが所属していた修道会の小さき兄弟たちが使っていたような、ロープをベルト代わりにした灰色の修道衣を一年間着用することを誓った。彼の執り成しによって、インキュバスの迫害から解放されることを願った。

「実際、9月28日--大天使聖ミカエルの奉献の前夜祭であり、福者ベルナルディーノの祝日である--に、彼女は奉献服を着た。翌朝は聖ミカエルの祝日であった。苦悩する婦人は、先に述べたように、自分の教区である聖ミカエルの教会に向かった。10時頃で、大勢の人がミサに集まっていた。

貧しい婦人が教会の地面に足を踏み入れるやいなや、突然、法衣と装飾品が地面に落ちて風に流され、手のひらを返したように裸になってしまった。非常に幸運なことに、群衆の中に二人の壮年の騎士がいた。彼らはそれを見て、急いで上着を脱ぎ、その女性の裸をできるだけ隠した。そして彼女を馬車に乗せ、家まで送った。インキュバスに盗まれた法衣と宝石は、半年後に返却された。

「長い話を短くすると、このインキュバスが彼女に仕掛けたトリックは他にもたくさんあり、驚くようなものもあったが、何年も彼女を誘惑し続けたと言えば十分だろう。しかしついに、彼は自分の努力が無駄であることを悟り、この異常で煩わしい悩みを打ち切った。

神学者であったシニストラリ神父は、現代のUFO研究家の多くがヴィラス=ボアス事件に困惑しているように、このような報告にも困惑していた。シニストラリ神父は、教会の基本教典がこのようなケースについて明確な見解を示していないことを見て、宗教法によって裁かれるべきなのか疑問に思った。

彼の原稿の大部分は、この問題の詳細な検討に費やされている。上記の例の女性は、インキュバスが彼女と性交することを許さなかった。しかし、教会の記録(特に魔女裁判)には、性交があった他の事例が数多くある。シニストラリ神父によれば、教会の観点からはいくつかの問題がある。

第一に、そのような性交が物理的に可能なのか?第二に、悪魔崇拝は獣姦とどう違うのか?第三に、そのような性交を行う者はどのような罪を犯すのか?第四に、彼らはどのような罰を受けるべきなのか。

demonialitas "という言葉を最初に使ったのは、J. Caramuelの『Theologia Fundamentalis』である。彼以前には、悪魔性と獣姦を区別した者はいなかった。聖トマス・アクィナスに倣うモラリストたちは皆、獣姦を 「異種のものとのあらゆる種類の肉的性交 」と理解していた。このように、カイエタンは聖トマスの注釈書の中で、悪魔との性交を獣姦の範疇に入れ、シルヴェスターは贅沢を定義し、ボナチーナは『結婚論』第4問の中で獣姦を定義している。

ここには神学の微妙な論点があり、シニストラリは明白な権威をもって論争している。彼は、聖トマスが悪魔との性交を獣姦の定義に含めるつもりはなかったと結論づける。シニストラリによれば、聖人は 「異なる種 」とは生きとし生けるものの種を意味するのみであり、悪魔にはほとんど当てはまらないという。

同様に、人が死体と交わったとしても、これは獣姦ではない。特に、死体に人体の性質を否定するトミズムの教義によれば。動物の死体と交わった場合も同様である。この議論を通して、著者の優れた知性と人間心理に関する明らかな知識には目を見張るものがある。

シニストラリ神父のUFO報告に直接関係する分野での考えを追うのは非常に興味深い。ヴィラス=ボアスやベティとバーニー・ヒルが17世紀に生きていたら、審問官の前で苦労したに違いない。

[ブノワ・ド・ベルヌは75歳で、エルメリーヌという名のサキュバスと40年間も性交していたことを告白した。彼は生きたまま火刑に処された。一応言っておくが、我々の最も著名な科学者たちは、コンドンと同様、このような報告を無視することを選んだ。

しかし、その数世紀前、最高の頭脳を持つ者たちは、同じような証言の中に、人間の本性についての知識を深める機会を見出し、この研究にかなりの時間を費やすことが哲学者としての尊厳に値しないとは感じなかったのである。20世紀の科学者である私が本書を書くのに謝罪が必要であるとすれば、これは先例となるに違いない。]

シニストラリは、愛の行為には人間の生成が含まれると書いている。非自然的な発芽、つまり、発芽に続かない性交は、自然に対する罪の別の種類を構成する。しかし、その種の下にある様々な罪を区別するのは、その発芽の対象である。もし悪魔と獣姦が同じカテゴリーに属するなら、悪魔と交わった男は告白者にこう言うことができる:

「私は獣姦の罪を犯しました。しかし、彼は明らかにその罪を犯していない。

しかし、悪魔との性交の肉体的過程を特定しなければならない場合には、かなりの問題が生じた。これは明らかに最も困難な点であり(空飛ぶ円盤の物理的性質を特定するのと同じくらい困難である!)、シニストラリはそれについて驚くべき考察を行っている。

議論の主な目的は、これらの罪がどの程度の罰に値するかを決定することであることを指摘し、悪魔の罪を犯すことができるすべての異なる方法を列挙しようとする。まず彼はこう言う:

「悪魔は、インキュバスやサキュバスのどちらであっても、男性や女性だけでなく、動物とも肉的な結びつきを持つということである。

シニストラリは、若い女性がしばしば幻視を見たり、安息日に出席したと想像したりすることを否定しない。同様に、普通のエロチックな夢は、教会によって、我々が研究している問題とは全く別に分類されている。シニストラリが悪魔性について語るとき、そのような心理的現象を意味しているのではなく、魔術に関する基本的なテキストが論じているような、実際の肉体的な性交を指しているのである。

このように、『マレフィカルム大全』において、グナッチウスは悪魔と肉体的接触を持った魔女の18の事例を挙げている。すべての事例は、その証言が疑問の余地のない学者たちによって保証されている。その上、聖アウグスティヌス自身も不確かな言葉でこう言っている:

「一般にインキュビと呼ばれるシルヴァンやファウンは、しばしば女性を苦しめ、求婚し、性交を得た。ガリア人がドゥース(=ルチン)と呼ぶ悪魔でさえも、そのような不純な行為を頻繁に行っている。

「さて、悪魔はこのような肉欲的な接触において二つの方法を用いる。ひとつは魔術師や魔女に用いるものであり、もうひとつは魔術とは完全に異質な男女に用いるものである。"

これは最も重要な点である。シニストラリが言っているのは、悪魔と呼ばれる存在と接触する可能性があるのは、2種類の人々であるということである。すなわち、悪魔と正式な盟約を結んだ人々--そして彼はこの盟約を結ぶプロセスの詳細を述べている--と、たまたま悪魔から「接触」された人々である。

このオカルティズムに対する基本的な声明が、妖精信仰や現代のUFOの話の解釈に対して持つ意味は、読者にとって明らかであろう。

悪魔には肉体がない。では、どうやって男性や女性と性交できるのか。もし女性たちが特別に願望を表明するならば、どのようにしてそのような結合から子供を産むことができるのだろうか?神学者たちはみな、悪魔は男でも女でも人間の死体を拝借するか、あるいは他の材料でこの目的のために新しい体を形成すると答えている。老人を若く、大人を小さく、小人を大きくすることができる」。

悪魔は、次の2つの方法のどちらかで進行すると言われている。まず女のサキュバスの姿になり、男と性交する。あるいは、サキュバスが眠っている男に淫らな夢を見せ、その結果生じる「汚染」を利用して悪魔が第二の作戦を実行する。これがグナッチウスの説であり、グナッチウスは多くの例を挙げている。

同様に、ヘクトル・ボエティウスは『スコットランド史』の中で、ある若いスコットランド人の事例を記録している。彼は数ヶ月間、窓もドアも閉め切った寝室に、絶世の美女であるサキュバスが訪ねてきた。彼女は彼と交わるためにあらゆる手を尽くしたが、彼は彼女の愛撫や懇願に屈しなかった。

このような悪魔はエクソシストに従わない。彼らは聖遺物やその他の聖なるものを恐れないので、人が憑依される悪魔と同じカテゴリーには入らない。しかし、では彼らは本当に悪魔の創造物なのだろうか?妖精やエレメンタルとよく似ている彼らを、別のカテゴリーに置くべきではないだろうか?そして、もしそのような生き物が自分の肉体を持っているとしたら、インキュビやサキュビは人間の死体を借りた悪魔だという伝統的な説は成り立つのだろうか?

そのような結合からどのようにして子供が生まれるのか、説明できるのだろうか?そのような子供たちの身体的特徴はどのようなものなのだろうか?

本章で先に引用したUFO報告が、この現象が遺伝的な内容を持っていることを示していることを認めるならば、上記の疑問は根本的なものであり、シニストラリがどのように理解したかを見ることは重要である。そこで、この問題に関する彼の議論の全訳を以下に示す。

「神学者や哲学者にとって、人間(男または女)と悪魔の交尾から人間が生まれることがあるのは事実である。多くの博士によれば、反キリストはこのプロセスによって生まれるに違いない: ベラルマン、スアレス、マルエンダなどである。

[ル・ブランのコメントはさらに光を投げかけている:『もしこれらの子供の肉体が他の子供の肉体とは異なっているならば、その魂は他の子供にはない特質を持つに違いない:ベラルマン枢機卿が反キリストはインキュバスと性交した女性から生まれると考えているのはそのためである。]

その上、彼らは、ごく自然な原因として、インキュビによってこのように生み出された子供たちは、背が高く、非常に強く、非常に大胆で、非常に壮大で、非常に邪悪であることを観察している...」。

マルエンダは、さまざまな古典的著者の証言によって、次のような結婚がその起源であることを証明している:

「リヴィ 「と 」プルターク "によれば、ロムルスとレムス。

「ハリカルナッソスのデニス 「と 」プリニウス 「によれば、ローマ人の第6代王 」セルヴィウス=トゥリウス"。 「哲学者プラトン、ディオゲネス・ラエルティウスと聖ジェロームによる。

「アレキサンダー大王、プルタークとクインテ・カースによる 「シリア王セレウコス、ユスティンとアプリアヌスによると 「アフリカ王スキピオ、リヴィによる。

「カエサル・アウグストゥス皇帝、スエトニウスによる。 「メッセニアのアリストメネス、ギリシャの名将、ストラボとパウサニアスによれば 「シャルルマーニュの娘、インキュバスと修道女の間に生まれたイギリスのマーリンまたはメルキンを加えよう。

「そして最後に、マルエンダが引用したコクレウスの記述によれば、あの忌まわしき異端者、その名はマルティン・ルターである。

しかし、私は多くの偉大な医師たちに敬意を払っているにもかかわらず、彼らの意見が検査に耐えられるとは思えない。実際、ペルクリウスが『創世記注解』第六章でよく観察しているように、人間の精子のすべての力、すべての力は、温かく貯蔵されていた生殖器の腔から出るやいなや、蒸発して消えてしまう精霊に由来する。

このことは医師たちも認めている。従って、悪魔が受け取った精子を、生成するのに十分な完全な状態に保つことは不可能である。なぜなら、悪魔が精子を保とうとする容器がどのようなものであっても、この容器は人間の生殖器の自然な温度に等しい温度でなければならず、この温度は同じ生殖器以外にはどこにも見られないからである。

自然な温度ではなく、人工的な温度である器では、霊魂は分解され、生成は不可能である。第二の反論は、生成とは、人間が自分の物質から、自然の器官を使って、生成に適した場所に精子を導入する生命的行為である、というものである。

それとは反対に、我々が今考えている特別なケースでは、精子が母体に導入されるのは彼ではないので、精子の導入は、生成する人間の生命的行為ではありえない。また同じ理由から、精子の属する男が、子孫を残す胎児を生んだとは言えない。

精子は彼自身のものではないからである。こうして、父親を持たない子供が生まれる--これは不合理である。第三の反論:父親が自然に生殖するとき、そこには二つの因果関係が存在する。哲学者の一般的な意見によれば、父親は生成の材料である精子を提供するから物質的なものであり、生成の主体であるから効率的なものである。

しかし私たちの場合、精子を提供する以外に何もしない男は、単に材料を与えるだけで、生成に向かう作用はない。このことは、インキュバスが生んだ子供はインキュバスの子供ではなく、インキュバスに精子を借りた男の子供であるという考え方に反する...。

また、聖書(創世記6:4)には、神の子と人の娘との性交の結果、巨人が生まれたと書かれている。バルヒ3:26にあるように、この巨人たちは背が高く、他の人間よりもはるかに優れていた。その怪物のような大きさに加えて、彼らはその強さ、略奪、暴虐によって注目された。コルネリウス・ア・ラピデの『創世記注解』によれば、大洪水の主な原因は、この巨人たちの犯罪にある。

神の子らの名の下に、セスの子らを、人の娘らの名の下に、カインの娘らを理解しなければならないと述べる者もいる。しかし、クリュソストムやキリルなど、この見解を共有する人々には敬意を表するが、この見解が聖書の明白な意味と食い違っていることは明らかである。

聖書は何と述べているのか。上記の組み合わせから、怪物のような体格の人間が生まれた。したがって、これらの巨人は以前には存在しなかったのであり、もし彼らの誕生がその結合の結果であったとすれば、セスの息子たちとカインの娘たちとの間の性交が原因であるとすることは許されない。

従って、問題の性交が怪物のような体格の生物を生んだとすれば、そこには通常の男性と女性との性交ではなく、その性質から神の子と呼ぶにふさわしいインキュビの働きを見なければならない。

この意見は、プラトン主義の哲学者やヴェネツィアのフランソワ・ジョルジュの意見であり、歴史家ヨセフス、フィロ、聖ユスティン殉教者、アレクサンドリアのクレメンス、テルトゥリアヌスの意見と矛盾するものではない。実際、これから述べるように、そこには二重の外観を持つ一つの意見しかない。

ここにあるのは、私たちの種族と、人間ではない、身体的性質は異なるが生物学的には私たちと互換性のある別の種族との接触に関する完全な理論である。

天使、悪魔、妖精、天国、地獄、あるいはマゴニアの生き物たち。彼らは私たちの最も奇妙な夢を刺激し、運命を形作り、欲望を奪う......。

しかし、彼らは何者なのか?

抜粋: マゴニアへのパスポート: UFO、フォークロア、パラレルワールドについて 1969 ジャック・ヴァレ著 ISBN 0-8092-3796-2

原文

▼展開

"Space Alien" Daemonialitas

When folklore becomes degraded to a minor literary form, as the fairy-faith was degraded to the fairy tales we know today, it naturally loses much of its content: precisely those "adult" details that cannot be allowed to remain in children's books. The direct result of the censorship of spicy details in these marvelous stories is that they really become mere occasions for amazement. The Villas-Boas case [the well documented Brazilian "UFO abduction" case wherein farmer Antonio Villas-Boas was allegedly taken on board a UFO craft, given an aphrodisiac liquid to drink then made to copulate twice with an attractive red-haired, pointy-breasted "space alien" female who made odd animal-like grunting noises during the act. We certainly hope it was as good for him as it apparently was for her. -B:.B:.] is hardly appropriate for nursery-school reading, but to eliminate the little lady from the story would turn it into a tale without deep symbolic or psychological value. The sexual context is precisely what gives such accounts their literary influence. It is what provides impact to the fairy-faith.

Without the sexual context -- without the stories of changelings, human midwives, intermarriage with the Gentry, of which we never hear in modern fairy tales -- it is doubtful that the tradition about fairies would have survived through the ages. Nor is that true only of fairies: the most remarkable cases of sexual contact with non-humans are not found in spicy saucer books, nor in fairy legends; they rest, safely stored away, in the archives of the Catholic Church. To find them, one must first learn Latin and gain entrance into the few libraries where these unique records are preserved. But the accounts one finds there make the Villas-Boas case pale by comparison, as I believe the reader will agree before the end of this chapter.

Let us first establish clearly that the belief in the possibility of intermarriage between man and the non-human races we are studying is a corollary to the apparitions in all historical contexts. This is so obvious in biblical stories that I hardly need elaborate. The sex of the angels is not the most difficult -- on the contrary, it is the clearest -- of all theological questions. In Anatole France's Revolt of the Angels it is Arcade, one of the celestial beings, who says:

"There's nothing like having sound references. In order to assure yourself that I am not deceiving you, Maurice, on this subject of the amorous embraces of angels and women, look up Justin, Apologies I and II; Flavius Josephus, Jewish Antiquities, Book I, Chapter 111; Athenagoras, Concerning the Resurrection; Lactantius, Book 11, Chapter XV; Tertullian, On the Veil of the Virgins; Marcus of Ephesus in Psellus; Eusebius, Praeparatio Evangelica, Book V, Chapter IV; Saint Ambrose, in his book on Noah and the Ark, Chapter V; Saint Augustine in his City of God, Book XV, Chapter XXIII; Father Meldonat, the Jesuit, Treatise on Demons, page 248..."

Thus spoke Arcade, his guardian angel, to poor Maurice, as be tried to apologize for having stolen his mistress, pretty Madam Gilberte. And he added shamelessly, "It was bound to be so; all the other angels in revolt would have done as I did with Gilberte." "Women," saith the Apostle, "should pray with their heads covered, because of the angels."

This is clear enough. But fairies and elves? Are they subject to such carnal desires? Consider the following facts.

In the Preface of the Saga of Hrolf, Torfeus, a seventeenth- century Danish historian, records statements made about the elves by Einard Cusmond, the Icelandic scholar:

"I am convinced they really do exist, and they are creatures of God; that they get married like we do, and have children of either sex: we have a proof of this in what we know of the love of some of their women with simple mortals."

William Grant Stewart, in The Popular Superstitions and Festive Amusements of the Highlanders of Scotland, devotes the second part of his discussion to fairies. In a chapter entitled "Of the Passions and Propensities of the Fairies," he has this to say on sexual intercourse with them:

"The fairies are remarkable for the amorousness of their dispositions, and are not very backward in forming attachments and connections with the people that cannot with propriety be called their own species."

This is a beautiful example of convoluted phraseology. Stewart is less obviously embarrassed when he reports that such events no longer seem to take place between men and fairies:

"We owe it, in justice to both the human and the fairy communities of the present day, to say, that such intercourse as that described to have taken place betwixt them is now extremely rare; with the single exception of a good old shoemaker, now or lately living in the village of Tomantoul, who confesses having had some dalliances with a 'lanan-shi' in his younger days, we do not know personally any one who has carried matters this length."

If Stewart came back today, he would have to revise this statement after reading UFO material. Kirk stated the case more clearly when be said: "In our Scotland there are numerous and beautiful creatures of that aerial order, who frequently assign meetings to lascivious young men as succubi, or as joyous mistresses and prostitutes, who are called Leannain Sith or familiar spirits." I hardly need to remind the reader of the importance of such "familiar spirits" in medieval occultism, particularly in Rosicrucian theories. Nor do I need to mention the number of accused witches who were condemned to death on the evidence that they had such familiar spirits.

There is no gap between the fairy-faith and ufology regarding the sexual question. This is apparent from the study made by Wentz, who records, for example, the following story:

"My grandmother Catherine MacInnis used to tell about a man named Laughlin, whom she knew, being in love with a fairy-woman. The fairy-woman made it a point to see Laughlin every night, and he being worn out with her began to fear her. Things got so bad at last that be decided to go to America to escape the fairy- woman. As soon as the plan was fixed and he was about to emigrate, women who were milking at sunset out in the meadows heard very audibly the fairy-woman singing this song:

"What will the brown-haired woman do When Lachie is on the billows?"

"Lachie emigrated to Cape Breton, landing at Pictu, Nova Scotia; and in his first letter home to his friends be stated that the same fairy-woman was haunting him there in America."

The comments by Wentz on this case are extremely important:

"To discover a tale so rare and curious as this ...is certainly of all our evidence highly interesting. And aside from its high literary value, it proves conclusively that the fairy-women who entice mortals to their love in modern times are much the same, if not the same, as the succubi of middle-age mystics."

This allows us to return to the religious records mentioned above, one of which offers one of the most remarkable cases of apparition I have ever come across. It is difficult to believe that stories exist that surpass, for their amazing contents or shocking features, some of the reports we have already studied, such as the Hills case or the Villas-Boas report. But, remarkable as they are, these latter two accounts refer only to one aspect of the total phenomenon; they can be interpreted only after being placed within the continuum of hundreds of lesser- known cases, which provide the necessary background. The following case stands alone, and it is unique in that it relates the apparition of an incubus with the poltergeist phenomenon.

The authority upon which the case rests is that of Fr. Ludovicus Maria Sinistrari de Ameno, who reports and discusses it in his manuscript De Daemonialitate, et Incubis, et Succubis, written in the second half of the seventeenth century. Who is Fr. Sinistrari? A theologian-scholar born in Ameno, Italy, on February 26, 1622, he studied in Pavia and entered the Franciscan Order in 1647. He devoted his life to teaching philosophy and theology to numerous students attracted to Pavia by his fame as an eminent scholar. He also served as Councilor to the Supreme Tribunal of the Inquisition and as Theologian attached to the Archbishop of Milan. In 1688, be supervised the compilation of the statutes of the Franciscan Order. He died in 1701.

Among other books, Fr. Sinistrari published a treatise called De Delictis et Poenis, which is an exhaustive compilation "tractatus absolutissimus" of all the crimes and sins imaginable. In short, Fr. Sinistrari was one of the highest authorities on human psychology and religious law to serve the Catholic Church in the seventeenth century. Compared to his De Daemonialitate, Playboy is a rather innocent gathering of mild reveries. The good father writes:

"About twenty-five years ago while I was a professor of Sacred Theology at the Holy Cross Convent in Pavia, there lived in that city a married woman of excellent morality. All who knew her, and particularly the clergy, had nothing but the highest praises for her. Her name was Hieronyma, and she lived in the St. Michael Parish.

"One day, Hieronyma prepared some bread and brought it to the baker's to have it baked. He brought it back to her, and at the same time be brought her a large pancake of a very peculiar shape, made with butter and Venetian pastes, such as they use to make cakes in that city. She refused it, saying she bad not prepared anything like it.

"But," said the baker, "I have not had any bread to bake today but yours. The pancake must come from your house too; your memory probably fails you."

"The good lady allowed herself to be convinced; she took the pancake and ate it with her husband, her three-year-old daughter, and a servant girl.

"During the following night, while she was in bed with her husband and both were asleep, she found herself awakened by an extremely fine voice, somewhat like a high-pitched whistling sound. It was softly saying in her ear some very clear words: 'How did you like the cake?' In fear, our good lady began to use the sign of the cross and to invoke in succession the names of Jesus and Mary.

"'Fear naught,' said the voice. 'I mean no harm to you. On the contrary, there is nothing I would not do in order to please you. I am in love with your beauty, and my greatest desire is to enjoy your embraces.'

"At the same time, she felt that someone was kissing her cheeks, but so softly and gently that she might have thought it was only the finest cotton down touching her. She resisted, without answering anything, only repeating many times the names of Jesus and Mary and making the sign of the cross. The temptation lasted thus about half an hour, after which time the tempter went away.

"In the morning, the lady went to her confessor, a wise and knowledgeable man, who confirmed her in the ways of the faith and appealed to her to continue her strong resistance, and to use some holy relics.

"The following nights: similar temptations, with words and kisses of the same kind; similar opposition, too, from the lady. However, as she was tired of such lasting trials, she took the advice of her confessor and other serious men and asked to be examined by trained exorcists to decide whether or not she was possessed. The exorcists found nothing in her to indicate the presence of the evil spirit. They blessed the house, the bedroom, the bed, and gave the incubus orders to discontinue his importunities. All was in vain: he went on tempting her, pretending he was dying with love, and crying, moaning, in order to invoke the lady's pity. With God's help, she remained unmoved.

"Then the incubus used a different approach: he appeared to her in the figure of a young boy or small man with golden, curling hair, with a blond beard gleaming like gold and sea-green eyes. To add to his power of seduction, he was elegantly dressed in Spanish vestments. Besides, he kept appearing to her even when she was in company; he would complain, as lovers do; he would send her kisses. In a word, he used all the means of seduction to obtain her favors. Only she saw and heard him; to all others, there was nothing.

"This excellent woman had kept her unwavering determination for several months when the incubus had recourse to a new kind of persecution.

"First, he took from her a silver cross full of holy relics and a blessed wax or papal lamb of Pope Pius V, which she always had on her. Then, rings and other jewels of gold and silver followed. He stole them without touching the locks of the casket in which they were enclosed. Then he began to strike her cruelly, and after each series of blows one could see on her face, arm, or other areas of her body bruises and marks, which lasted one or two days, then vanished suddenly, quite unlike natural bruises, which go away by degrees.

"Sometimes, as she suckled her daughter, he took the child from her knees and carried her to the roof, placing her at the edge of the gutter. Or else he would hide her, but without ever causing her harm.

"He would also upset the household, sometimes breaking to pieces the plates and earthenware. But in the blink of an eye he also restored them to their original state.

"One night, as she lay in bed with her husband, the incubus, appearing to her under his usual form, energetically demanded that she give herself up. She refused, as usual. Furious, the incubus went away, and a short time later he returned with an enormous load of those flat stones that inhabitants of Genoa, and of Liguria in general, use to cover their houses. With these stones be built around the bed such a high wall that it reached almost to the ceiling, and the couple had to send for a ladder in order to come out. This wall was built without lime. It was pulled down and the stones were stored in a corner, where they were exposed to everyone's sight. But after two days they vanished.

"On the day of St. Stephen, the lady's husband had invited several military friends to dine with him. To honor his guests he had prepared a respectable dinner. While they were washing their hands according to the custom -- bop! -- suddenly the table vanished, along with the dishes, the cauldrons, the plates, and all the earthenware in the kitchen, the jugs, the bottles, the glasses too. You can imagine the amazement, the surprise, of the guests. There were eight of them, among them a Spanish infantry captain who told them:

"'Do not be afraid. It is only a trick. But there used to be a table here, and it must still be here. I am going to find it.' Having said that, be went around the room with outstretched hands, attempting to seize the table. But after he had made many turns, seeing he was only touching air, the others laughed at him. And since dinner time had passed, everyone took his coat and started for home. They had already reached the door with the husband, who was politely accompanying them, when they beard a great noise in the dining room. They stopped to find out what it was, and the servant girl ran and told them the kitchen was full of new plates loaded with food, and the table bad come back in the dining room.

"The table was now covered with napkins, dishes, glasses, and silverware that were not the original ones. And there were all kinds of precious cups full with rare wines. In the kitchen, too, there were new jugs and utensils; they bad never been seen there before. The guests, however, were hungry, and they ate this strange meal, which they found very much to their taste. After dinner, as they were talking by the fireplace, everything vanished, and the old table came back with the untouched dishes on it.

"But, oddly enough, no one was hungry any longer, so that nobody wanted to have supper after such a magnificent dinner -- which shows that the dishes which had been substituted for the original ones were real and not imaginary.

"This persecution had been going on for several months, the lady consulted the Blessed Bernardino of Felter, whose body is the object of veneration in St. James Church, some distance outside the city walls. And at the same time, she vowed to wear for a whole year a gray monk's gown, with a rope as a belt, like those used by the minor brothers in the order to which Bernardino belonged. She hoped, through his intercession, that she would be freed from the persecutions of the incubus.

"Indeed, on September 28 -- which is the Vigil of the Dedication of Archangel St. Michael and the Feast of the Blessed Bernardino -- she took the votive dress. The next morning was the Feast of St. Michael. Our afflicted lady went to the church of that saint, which was, as I have said, her own parish. It was about ten o'clock, and a very large crowd was going to mass. Now, the poor woman had no sooner put her foot on the church ground than all of a sudden her vestments and ornaments fell to the ground and were carried away by the wind, leaving her as naked as the hand. Very fortunately, it so happened that among the crowd were two knights of mature age who saw the thing and hurriedly removed their coats, to hide as well as they could that woman's nudity. And having put her in a coach, they drove her home. As for the vestments and jewels stolen by the incubus, be returned them six months later.

"To make a long story short, although there are many other tricks that this incubus played on her, and some amazing ones, suffice it to say that he kept tempting her for many years. But, at last, perceiving he was wasting his efforts, he discontinued these unusual and bothersome vexations."

As a theologian, Fr. Sinistrari was as puzzled by such reports as most modern students of UFO lore are by the Villas-Boas case. Observing that the fundamental texts of the Church gave no clear opinion on such cases, Sinistrari wondered bow they should be judged by religious law. A great part of his manuscript is devoted to a detailed examination of this question. The lady in the above example did not allow the incubus to have intercourse with her. But there are numerous other cases in the records of the Church (especially in witch trials) in which there was intercourse. From the Church's point of view, says Fr. Sinistrari, there are several problems. First, how is such intercourse physically possible? Second, how does demoniality differ from bestiality? Third, what sin is committed by those who engage in such intercourse? Fourth, what should their punishment be?

The earliest author who uses the word "demonialitas" is J. Caramuel, in his Theologia Fundamentalis. Before him, no one made a distinction between demoniality and bestiality. All the moralists, following St. Thomas Aquinas, understood by bestiality "any kind of carnal intercourse with an object of a different species." Thus Caietan in his commentary on St. Thomas places intercourse with the demon in the class of bestiality, and so does Sylvester when he defines luxuria, and Bonacina in De Matrimonio, question 4.

There is here a fine point of theology, which Sinistrari debates with obvious authority. He concludes that St. Thomas never meant intercourse with demons to fall within his definition of bestiality. By "different species," Sinistrari says, the saint can only mean species of living being, and this hardly applies to the devil. Similarly, if a man copulates with a corpse, this is not bestiality, especially according to the Thomist doctrine that denies the corpse the nature of the human body. The same would be true for a man who copulates with the corpse of an animal. Throughout this discussion, the great intelligence and obvious knowledge of human psychology of the author is remarkable. It is quite fascinating to follow Fr. Sinistrari's thoughts in an area that is directly relevant to UFO reports. And relevant it is indeed; for Villas-Boas or Betty and Barney Hill would certainly have had a hard time before the Inquisitors if they had lived in the seventeenth century.

[Benoit de Berne, at age seventy-five, confessed he had had intercourse for forty years with a succubus named Hermeline. He was burned alive. In passing, let us remark that the most eminent of our scientists choose, with Condon, to ignore such reports, which they label "crackpot" material. Yet, a few centuries earlier, the best minds saw in similar accounts an occasion to increase their knowledge of human nature and did not feel it was beneath their dignity as philosophers to spend considerable time in this study. If, as a twentieth-century scientist, I need an apology to write the present book, this should be as good a precedent as any.]

The act of love, writes Sinistrari, has for an object human generation. Unnatural germination, that is, intercourse that cannot be followed by generation, constitutes a separate type of sin against nature. But it is the subject of that germination that distinguishes the various sins under that type. If demoniality and bestiality were in the same category, a man who had copulated with a demon could simply tell his confessor: "I have committed the sin of bestiality." And yet he obviously has not committed that sin.

Considerable problems arose, however, when one had to identify the physical process of intercourse with demons. This is clearly a most difficult point (as difficult as that of identifying the physical nature of flying saucers!), and Sinistrari gives a remarkable discussion of it. Pointing out that the main object of the discussion is to determine the degree of punishment these sins deserve, be tries to list all the different ways in which the sin of demoniality can be committed. First he remarks:

"There are quite a few people, over-inflated with their little knowledge, who dare deny what the wisest authors have written, and what everyday experience demonstrates: namely, that the demon, either incubus or succubus, has carnal union not only with men and women but also with animals."

Sinistrari does not deny that some young women often have visions and imagine that they have attended a sabbat. Similarly, ordinary erotic dreams have been classified by the Church quite separately from the question we are studying. Sinistrari does not mean such psychological phenomena when he speaks of demoniality; he refers to actual physical intercourse, such as the basic texts on witchcraft discuss. Thus in the Compendium Maleficarum, Gnaccius gives eighteen case histories of witches who have had carnal contact with demons. All cases are vouched for by scholars whose testimony is above question. Besides, St. Augustine himself says in no uncertain terms:

"It is a widespread opinion, confirmed by direct or indirect testimony of trustworthy persons, that the Sylvans and Fauns, commonly called Incubi, have often tormented women, solicited and obtained intercourse with them. There are even Demons, which are called Duses [i.e., lutins] by the Gauls, who are quite frequently using such impure practices: this is vouched for by so numerous and so high authorities that it would be impudent to deny it. "Now, the devil makes use of two ways in these carnal contacts. One he uses with sorcerers and witches; the other with men and women perfectly foreign to witchcraft."

This is a point of paramount importance. What Sinistrari is saying is that two kinds of people may come in contact with the beings be calls demons: those who have made a formal pact with them -- and he gives the details of the process for making this pact -- and those who simply happen to be "contacted" by them. The implications of this fundamental statement to occultism for the interpretation of the fairy-faith and of modern UFO stories should be obvious to the reader.

The devil does not have a body. Then, how does he manage to have intercourse with men and women? How can women have children from such unions if they specifically express the desire? All the theologians answer that the devil borrows the corpse of a human being, either male or female, or else he forms with other materials a new body for this purpose. Indeed, we find here the same theory as that expressed by one of the Gentry and quoted by Wentz: "We can make the old young, the big small, the small big."

The devil then is said to proceed in one of two ways. Either he first takes the form of a female succubus and then has intercourse with a man. Or else, the succubus induces lascivious dreams in a sleeping man and makes use of the resulting "pollution" to allow the devil to perform the second part of the operation. This is the theory taught by Gnaccius, who gives a great number of examples. Likewise, Hector Boethius, in Historia Scotorum, documents the case of a young Scot who, for several months, was visited in his bedroom, the windows and doors of which were closed, by a succubus of the most ravishing beauty. She did everything she could to obtain intercourse with him, but be did not yield to her caresses and entreaties.

One point intrigued Sinistrari greatly: such demons do not obey the exorcists. They have no fear of relics and other holy objects, and thus they do not fall into the same category as the devils by which people are possessed, as the story quoted above certainly shows. But then, are they really creatures of the devil? Should not we place them in a separate category, with the fairies and the Elementals they so closely resemble? And then, if such creatures have their own bodies, does the traditional theory that incubi and succubi are demons who have borrowed human corpses hold? Could it explain how children are born from such unions? What are the physical characters of such children? If we admit that the UFO reports we have quoted earlier in this chapter indicate the phenomenon has genetic contents, then the above questions are fundamental, and it is important to see bow Sinistrari understood them. Therefore, I give in the following a complete translation of his discussion of the matter.

"To theologians and philosophers, it is a fact, that from the copulation of humans (man or woman) with the demon, human beings are sometimes born. It is by this process that Antichrist must be born, according to a number of doctors: Bellarmin, Suarez, Maluenda, etc.

[Le Brun's comment throws more light: 'If the body of these children is thus different from the bodies of other children, their soul will certainly have qualities that will not be common to others: that is why Cardinal Bellarmin thinks Antichrist will be born of a woman having had intercourse with an incubus.']

"Besides, they observe that as the result of a quite natural cause, the children generated in this manner by the incubi are tall, very strong, very daring, very magnificent and very wicked...

Maluenda confirms what has been said above, proving by the testimony of various classical authors that it is to such unions that the following owe their birth:

"Romulus and Remus, according to Livy and Plutarch.

"Servius-Tullius, sixth king of the Romans, according to Denys of Halicarnassus and Pliny.

"Plato the philosopher, according to Diogenes Laertius and St. Jerome.

"Alexander the Great, according to Plutarch and Quinte-Curce.

"Seleucus, king of Syria, according to Justin and Applian.

"Scipio the African, according to Livy.

"The Emperor Caesar Augustus, according to Suetonius.

"Aristomenes of Messenia, the illustrious Greek general, according to Strabo and Pausanias.

"Let us add the English Merlin or Melchin, born of an incubus and a nun, the daughter of Charlemagne.

"And finally, as writes Cocleus, quoted by Maluenda, that damned heresiarch whose name is Martin Luther.

However, in spite of all the respect I owe so many great doctors, I do not see how their opinion can stand examination. Indeed, as Percrius observes very well in Commentary on Genesis, Chapter Six, all the strength, all the power of the human sperm, comes from spirits that evaporate and vanish as soon as they issue from the genital cavities where they were warmly stored. The physicians agree on this. Therefore, it is not possible for the demon to keep the sperm he has received in a sufficient state of integrity to produce generation; for, no matter what the vessel where he could attempt to keep it is, this vessel would have to have a temperature equal to the natural temperature of human genital organs, which is found nowhere but in those same organs. Now, in a vessel where the warmth is not natural, but artificial, spirits are resolved, and no generation is possible. A second objection is that generation is a vital act through which man, from his own substance, introduces sperm through the use of natural organs, into a place proper for generation. To the contrary, in the special case we are now considering, the introduction of the sperm cannot be a vital act of the generating man, since it is not by him that it is introduced into the matrix. And, for the same reason, it cannot be said that the man to whom the sperm belonged has engendered the fetus that is procreated. Neither can we consider the incubus as the father, since the sperm is not of his own substance. Thus here is a child who is born and has no father -- which is absurd. Third objection: when the father engenders naturally, there is a concourse of two causalities: a material one, for he provides the sperm that is the material of generation; and an efficient one, for be is the main agent in the generation, according to the common opinion of philosophers. But, in our case, the man who does nothing but provide the sperm simply gives material, without any action tending toward generation. Therefore be could not be regarded as the child's father, and this is contrary to the notion that the child engendered by an incubus is not his child, but the child of the man whose sperm was borrowed by the incubus....

We also read in the Scriptures (Genesis 6:4) that giants were born as a result of intercourse between the sons of God and the daughters of Man: this is the very letter of the sacred text. Now, these giants were men of tall stature, as it is said in Baruch 3:26, and far superior to other men. Besides their monstrous size, they called attention by their strength, their plunders, their tyranny. And it is to the crimes of these giants that we must attribute the main and primary cause of the Flood, according to Cornelius a Lapide in his Commentary on Genesis.

Some state that under the name of sons of God we must understand the sons of Seth, and, under that of daughters of men, the daughters of Cain, because the former practiced piety, religion, and all other virtues while the latter, the children of Cain, did exactly the opposite. But, with all the respect we owe Chrysostom, Cyril, and others who share this view, it will be recognized it is in disagreement with the obvious meaning of the text. What do the Scriptures say? That from the conjunction of the above were born men of monstrous corporeal proportions. Therefore, these giants did not exist previously, and if their birth was the result of that union, it is not admissible to attribute it to the intercourse between the sons of Seth and the daughters of Cain who, of ordinary size themselves, could have children only of ordinary size.

Consequently, if the intercourse in question has given birth to beings of monstrous proportions, we must see there not the ordinary intercourse of men with women but the operation of the incubi who, owing to their nature, can very well be called sons of God. This opinion is that of the Platonist philosophers and of Francois George of Venice, and it is not in contradiction with that of Josephus the historian, Philo, St. Justin Martyr, Clement of Alexandria, and Tertullian, according to whom these incubi could be angels who had allowed themselves to commit the sin of luxury with women. Indeed, as we shall show, there is nothing there but a single opinion under a double appearance.

What we have here is a complete theory of contact between our race and another race, non-human, different in physical nature, but biologically compatible with us. Angels, demons, fairies, creatures from heaven, hell, or Magonia: they inspire our strangest dreams, shape our destinies, steal our desires......

But who are they?

Excerpt from: Passport to Magonia: On UFOs, Folklore and Parallel Worlds 1969 by Jacques Vallee ISBN 0-8092-3796-2

(2025-01-11)