「無数の人間がいるのに、なぜたったひとりのこの俺が――俺なんだ?」⇒ この難問を解く (途中1)(書式変換)
前置き
「無数の人間がいるのに、なぜたったひとりのこの俺が――俺なんだ?」とは意味不明のタイトルだが、その意味は…
文学作品の中で述べられる超難問体験/自我体験の例には、体験が誘発される条件が示唆される場合がある。最近の例として、和製ヒロイック·ファンタジー、『グイン·サーガ』(第60巻、早川書房、一九九八年)の一節から引用しよう。
そうなんだ …… 全部本当にあったことだったんだよな …… 何もかもだ。俺の人生 …… いったいなんだって、こんなふしぎな人生が俺の人生だなんて––信じられるか?俺は–俺は …… 何が不思議だっていって、俺が俺だってことだよ! こんな不思議なことはありゃしない。この世に何千万人の人間が生まれ、死んでゆくのに、なぜたったひとりのこの俺が–俺なんだ?俺だったんだ?(二八ー二九頁)
出典 : 渡辺恒夫、『<私の死>の謎』、99頁
渡辺 恒夫によれば、この疑問は長らく超難問とされてきたという。
この超難問の答えとして超一流の物理学者だった Schrödinger は梵我一如を、作家の稲垣足穂は輪廻転生を持ち出していると(*1)。
私も上の引用部分のような疑問を長らく抱いてきた。凡庸な私にはこの難問に正面から取り組む能力はないので、あくまで私の手の届く範囲内で、自分がある程度まで納得できそうな「手頃な答え」を探していた。
先ごろから UFO/ET/missing-time/abduction/missing-411 の謎を解く足がかりが見えかけてきた気がするが、それと並行するようにしてこの疑問の手頃な答えもぼんやりとだが、見えてきた気がする。その手頃な答えを記録しておく。
(*1)
梵我一如の教説は、ウパニシャッド思想の後継を称するヴェーダーンタ哲学学派の中で、梵と我の絶対的同一を説く「不二一元論」となって展開する。自我の多数性は幻に過ぎす、真我と梵とは絶対的に同一であるから、死を待たずして誰しも何らかの瞑想修行によって即座に自らが唯一の梵と同一であることを、悟ることができるという。
なぜシュレーディンガーにとってこの思想が超難問の解決として考えられたのだろう。それは、「なぜ私はこの特定の人間であってあの特定の人間ではないのか」という問いへの可能な解が、「私がこの特定の人間であってあの特定の人間ではないというのは幻に過ぎない。私はあらゆる人間なのだから」という答えにあると感じられたからであろう(シュレーディンガーの体 験と思索については、次章と第6章で詳しく検討する)。
次に独自の死生観創出の例としてあげるのは、特異な幻想作家として知られる稲垣足穂である。彼のエッセイ、「兜率上生」の一節を第2章五九頁に【事例2-8】として引用したので参照して欲しいが、ここでは、明晰な言葉で超難問の問いが発せられ、そして、それに対する解決としての独自の死生観が、輪廻転生観として語られている。なぜ輪廻転生が解決になるかというと、(第2章で述べたように)一九〇〇年から一九七七年までしか存在していない一日本人だけに唯一、「今、ここ」があるという不条理よりは、「今、ここ」はいろんな時代を通じていろんな人間にあったと考えるほうがいわば斉一性原理にかなうからである(足穂については第5章一七一頁も参照のこと)。
出典 : 渡辺恒夫、『<私の死>の謎』、98頁
履歴
(2024-12-23) 書式変換。ついでに OCR 処理。
(2023-03-08) 追加。「無数の人間がいるのに、なぜたったひとりのこの俺が――俺なんだ?」⇒ この難問を解く (途中1) (2023-03-08)
(2022-01-25) 作成。【編】無数の人間がいるのに、なぜたったひとりのこの俺が――俺なんだ? (途中1) (2022-01-25)