自我体験(意識)の超難問を解く ⇒ 生まれたのは細胞組織の塊でまだ「私ではない」(書式変換)
前置き
「自我体験(意識)の超難問」とは、簡単に言えば
- なぜ私はこの特定の人間であって、別の誰かではないのか?
という疑問のこと。もっと具体的に言い換えると、
- なぜ私は「この時代の、この国の、この社会階層の、この親たちの、男(女)」の子供として生まれてきたのか? なぜ、別の誰かとして生まれなかったのか?
という疑問になる。
この難問に関する私の回答を下の過去記事、
「無数の人間がいるのに、なぜたったひとりのこの俺が――俺なんだ?」⇒ この難問を解く (途中1)(書式変換)
Greg Kaminsky : <私>と世界の真相は何か? なぜ私がこの世界に存在するのか? (⇒この難問に答える)(書式変換)
で述べたが、すんなり理解される内容にはなっていない。そこで別の方向から、この難問を扱う。それが下。
履歴
(2024-12-23) 書式変換
(2023-12-10) 作成。❏ 自我体験(意識)の超難問を解く ⇒ 生まれたのは細胞組織の塊でまだ「私ではない」
この難問を解く
結論もタイトルに入れておいた。要するに
-
(a)「私が」生まれてきた…のではない。
-
(b) 「この時代の、この国の、この社会階層の、この親たちの」男(女)の子供として生まれてきたのは、かなり成長したとはいえまだ細胞組織の塊であって、それはまだ「私」ではない。
-
(c) その細胞組織の塊が数年間かけて成長を続けた末に、やがて「私」という自己認知が徐々に芽生え、発達してくる。その自己認知の芽が伸びて花を咲かせた時が「私」という意識の確立となる。この時点で他人にも自分と同様の意識があることを明瞭に察知できるようになる(「心の理論」を持つレベルになる)。
…ということ。考えてみれば、(そして幼児の成長を見ていれば)ごく当たり前のことに過ぎない。
ところが、最初の a で誰もが躓く。「私が」生まれてきた…そう無条件に思い込んでしまっているから、b や c というごく当然の事に全く思い至らない。
a で躓くから、自我体験(意識)の超難問 が生じる。 a が理解できれば、超難問はもやは問題として成立しなくなる。
「私が」生まれてきた…という誤認が生じる理由
全ての生物は死を回避し、生き延びるためにあらゆる手段を尽くすように進化してきた。それができない生物は滅びた。
意識を少しでも発生させた生物なら、本能的に死を怖れ、生き延びることを渇望するようになるのは必然だし、実際にそうなっている(人間に特有の自殺は生物としては例外中の例外)。
この「本能的に死を怖れ、生き延びることへの渇望」が、「「私が」(別の何処かの世界から、この世界へと)生まれてきた…という誤認」をもたらしている。
なぜなら、その渇望が
- 「私」こそが、この宇宙全体の全ての存在の「存在性」を成立させている岩盤だ
という無自覚の確信をもたらしている(*1)。この無自覚の確信が古代インド思想の梵我一如に反映している。これが「全ては一つ:全一、Oneness」、「宇宙即我」といった馬鹿げた誇大妄想的な大悟や「一即多」、「色即是空」といった類の仏教の奥義めかしたヨタ話が生じる理由。
(*1)
誰もがこの無自覚の確信を抱いている。試しに
- 「私」が存在しない世界は、存在すると言えるだろうか?
と自問すると、妙に落ち着かない気分になる筈。
この「私」が死んで無に帰した時(天国や地獄に行って現実世界から完全に無縁となり、以後は二度と関係しなくなった仮定しても同じ。or 別次元の超越的存在になったと仮定しても良い )、私がかつて生きていた「かつてのあの世界」はまだ存続していると言えるだろうか?
実は、この自問は「引っ掛け問題」になっている。先の無自覚の確信…
…
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(2023-12-10)