Skip to main content

「無数の人間がいるのに、なぜたったひとりのこの俺が――俺なんだ?」⇒ この難問を解く (途中1)(書式変換)

· 12 min read

前置き

「無数の人間がいるのに、なぜたったひとりのこの俺が――俺なんだ?」とは意味不明のタイトルだが、その意味は…

文学作品の中で述べられる超難問体験/自我体験の例には、体験が誘発される条件が示唆される場合がある。最近の例として、和製ヒロイック·ファンタジー、『グイン·サーガ』(第60巻、早川書房、一九九八年)の一節から引用しよう。

そうなんだ …… 全部本当にあったことだったんだよな …… 何もかもだ。俺の人生 …… いったいなんだって、こんなふしぎな人生が俺の人生だなんて––信じられるか?俺は–俺は …… 何が不思議だっていって、俺が俺だってことだよ! こんな不思議なことはありゃしない。この世に何千万人の人間が生まれ、死んでゆくのに、なぜたったひとりのこの俺が–俺なんだ?俺だったんだ?(二八ー二九頁)

20220125_sf_mk.jpg

出典 : 渡辺恒夫、『<私の死>の謎』、99頁

渡辺恒夫によれば、この疑問は長らく超難問とされてきたという。

この超難問の答えとして超一流の物理学者だった Schrödinger は梵我一如を、作家の稲垣足穂は輪廻転生を持ち出していると(*1)。

私も上の引用部分のような疑問を長らく抱いてきた。凡庸な私にはこの難問に正面から取り組む能力はないので、あくまで私の手の届く範囲内で、自分がある程度まで納得できそうな「手頃な答え」を探していた。

先ごろから UFO/ET/missing-time/abduction/missing-411 の謎を解く足がかりが見えかけてきた気がするが、それと並行するようにしてこの疑問の手頃な答えもぼんやりとだが、見えてきた気がする。その手頃な答えを記録しておく。

(*1)

梵我一如の教説は、ウパニシャッド思想の後継を称するヴェーダーンタ哲学学派の中で、梵と我の絶対的同一を説く「不二一元論」となって展開する。自我の多数性は幻に過ぎす、真我と梵とは絶対的に同一であるから、死を待たずして誰しも何らかの瞑想修行によって即座に自らが唯一の梵と同一であることを、悟ることができるという。

なぜシュレーディンガーにとってこの思想が超難問の解決として考えられたのだろう。それは、「なぜ私はこの特定の人間であってあの特定の人間ではないのか」という問いへの可能な解が、「私がこの特定の人間であってあの特定の人間ではないというのは幻に過ぎない。私はあらゆる人間なのだから」という答えにあると感じられたからであろう(シュレーディンガーの体験と思索については、次章と第6章で詳しく検討する)。

次に独自の死生観創出の例としてあげるのは、特異な幻想作家として知られる稲垣足穂である。彼のエッセイ、「兜率上生」の一節を第2章五九頁に【事例2-8】として引用したので参照して欲しいが、ここでは、明晰な言葉で超難問の問いが発せられ、そして、それに対する解決としての独自の死生観が、輪廻転生観として語られている。なぜ輪廻転生が解決になるかというと、(第2章で述べたように)一九〇〇年から一九七七年までしか存在していない一日本人だけに唯一、「今、ここ」があるという不条理よりは、「今、ここ」はいろんな時代を通じていろんな人間にあったと考えるほうがいわば斉一性原理にかなうからである(足穂については第5章一七一頁も参照のこと)。

20220125_sf_mk2.jpg

出典 : 渡辺恒夫、『<私の死>の謎』、98頁

履歴

(2024-12-23) 書式変換。ついでに OCR 処理。

(2023-03-08) 追加。「無数の人間がいるのに、なぜたったひとりのこの俺が――俺なんだ?」⇒ この難問を解く (途中1) (2023-03-08)

(2022-01-25) 作成。【編】無数の人間がいるのに、なぜたったひとりのこの俺が――俺なんだ? (途中1) (2022-01-25)

「手頃な答え」の粗筋

結論を先に言えば…。タイトルの疑問は、ある先入観を暗黙の前提としている。ところがその先入観は根深い錯覚(*2)でしかない。その錯覚はあまりに根深いため、取り除くのはほぼ不可能。だが錯覚であるという了解はかろうじて、ぎりぎり可能。その了解にたてば、タイトルの疑問はもう疑問として成立しなくなる。疑問の土台が崩れるゆえに。それが私の「手頃な答え」の粗筋。

(*2)

根深い錯覚…

私という自我意識そのものが、この根深い錯覚の上に成立している。ゆえに意識がそれを取り除くのはほぼ不可能。実際、その錯覚の延長線上に梵我一如だの輪廻転生、カルマといったありがちな「解答」が生まれてきた。この点から言えば、 Schrödinger が期待をかけた古代インド思想は全体がその錯覚の上に構築されている。釈尊の仏教も例外ではない。

… … …

(2022-01-25 end)


(2023-03-08 begin)

前置き

ダルくて放置してきたが、気がつけば最初の記事から既に 1年以上が経過してしまった。そろそろこの難問に対する私の答えを文章化しておかねばその先へ進めなくなる。

根深い錯覚

前回の記事で述べた「根深い錯覚」とは

  • 「この私」という意識的存在の核(=雑に言えば魂)は不生不滅だ

というもので、素朴だが極めて強烈な本能的信念となっている。これは生存本能を源泉とし、生存本能に直結した信念であるがゆえに自覚されることはないが、この私が<存在する>という揺るがぬ実感の岩盤となっている。

これだけでは重要なニュアンスが欠落しているので付け足せば、実感としては

  • 「この私」という意識的存在の核(=雑に言えば魂)があり、それは不生不滅だ

という二段構えの捉え方ではなく、

  • 不生不滅=「存在の核」=私の本質=魂

というような直結した地続きの捉え方をしている。言い換えれば、

  • 不生不滅(*1)であるがゆえに自分という「存在の岩盤」たりうる

というような本能的信念になっており、その信念が「この私」という意識的存在の核を支えている。

(*1)

盤珪永琢禅師の不生禅の悟りの核、「一切事が不生でととのう」はこの本能的信念の自覚的発見、追認を指すのだと思える。自己の「存在の岩盤」の発見・追認であるから、大悟と呼びうる。(だが、その「存在の岩盤」は虚構でしかない(*2))

(*2)

蛇足だが…

存在の岩盤(=自己という<存在>の基盤)は虚構だが、意識それ自体は「純然たる物理現象」であるから実在。喩えると…。ロウソクの炎は物理現象として実在するが、ロウソクの炎の<本質>(=イデア)は虚構。


この根深い錯覚によって何が起きるのか?

この根深い錯覚があるゆえに

  • 「この私」という意識的存在は、最初から存在していたものではなく、ある時点で萌芽的な存在として生成され(受精卵)、数年かけて徐々に発育し、やがて未熟ながら自我意識を形成させたものだ

という当然の認識を無自覚の内に妨げ、視界から完全に隠蔽してきた。

そしてその無自覚の隠蔽が、 「無数の人間がいるのに、なぜたったひとりのこの俺が――俺なんだ?」という難問を生じさせた。その詳しい機序は次のようなものとなる。

… …

(2023-03-08 end)