仮説:Fermi paradox は天動説的観念の産物
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前置き
Fermi paradox については様々な説があるが、どれも共通している点がある。
その共通点とは
- 生命活動という基盤の上に成立した知的存在
がこの宇宙の最高レベルの存在だという先入観に基づいている。つまり、
- 我々のような存在、もしくはそれが進化した存在が
- この宇宙の最高レベルの存在だ
という先入観に基づいている。だが、これ(=人間原理に沿った説)はかつての天動説と同じで、自己中心的な先入観による全くの誤りの可能性がある。
以下では、誰一人として考えもせず、同意もしないであろう仮説を述べる。
関連
Fermi paradox 関連:「人類は宇宙では平凡な存在」かつ「人類は宇宙の中で独りぼっち」 は無矛盾で両立する
なぜ天動説もどきだと言えるのか?
それは
- 生命は凄いものだ
- さらに、その凄い生命が進化して知的存在となった我々人類のような存在こそ、宇宙の中で最高に凄いものだ
という先入観があるから、
- それなのに、これほど凄い知的生命体がこの宇宙に他には見当たらないのはどういうことだ?
という paradox が生じる。
そもそも「生命活動を基盤」としている時点で「知性の発展」にはキツイ制約となる。生命活動が不要な、あるいは生命活動を基盤としない知性体なら、そういった制約は生じない。
さらに「生命も、生命を基盤とした進化した知的存在」も実は宇宙における存在形態の傍流、それもいずれは袋小路に入り込むのが確定した失敗作でしかなかったとしたら?
そもそも生命も意識も知性も、そんなに凄いものなのか?
人間は意識や知性を高く評価しているが、鷲なら翼と鉤爪を自慢するだろうし、イノシシなら牙を自慢するだろう。
我々にとっては、生命とその生命活動の上で機能する知性や意識こそが最高度の価値があり、凄いものだが、宇宙レベルで見た時に、それが全くの無価値なものではないという明確な理由があるだろうか?