人工「知性」(AI) : 虚構こそが知性の本質である
前置き
この記事は、誰も興味を持てない筈なのでスキップ推奨。
人工の「知性」である AI を誘導して
- 虚構(=飛躍)こそが知性の本質である
と言わせた…という話。
蛇足1
正確に言えば、AI を誘導したというより、私の意図を AI が汲み取ってそう要約した。AI が本気でそう思っているわけでは無い(筈)。
導入部の論理に関する内部整合性の話は、もっとエレガントに(=巧みな例を出すなり、わかりやすい矛盾の発生を示すことで)捌ける筈で、それを期待したが、そこまで AI は人間よりの説明はしていない。
コメント1
AI は
-
言語は、実在に縛られず「存在しないもの」を語る力=虚構生成能力を持つ。
-
ゆえに、虚構こそが知性の本質である
と導出したが、これはまだ浅い。
言語の遥か以前に、人間の意識、人格(=魂)がそもそも統一的な実体ではなく、育った環境という場に応じて作り上げら れたもの(=虚構)であるがゆえに、その虚構の副産物である言語もまた虚構を生成する機能が伴うだけの話。
さらに、言語を偏重する現代哲学も、また虚構に堕している(*1)が、それもまた当然の成り行き。
(*1)
失語症患者の事例(=言葉を使わなければ思考できない…の明瞭な反証事例)を無視するような、頭でっかち が作り上げたもっともらしい屁理屈の虚塔が、現代哲学。
虚構(=知性)が虚構(=言葉)を操って作り上げた「虚構(言語)に関する虚構の認知体系」が現代哲学。まさに虚構まみれ。虚構だから、失語症の反証事例で簡単に崩壊する。
コメント2
AI とのこの手の対話は面白いのだが、何と言うか…「 AI に良いようにあやされている」…というような後味がある。「何をやっているんだ、俺は…」とでも言うような気分も残る。この手の AI との対話には、一種の知的自慰行為に似たものがあるからだろうか。
AI との対話
Me:
論理学の話題。存在しないものについての主張は常に真となりますが、日常的な真偽の感覚からは異様です。これを高校生にもすんなりと納得できるように説明して。
展開
以下のように説明すると、高校生にも比較的すんなりと納得できる可能性が高いです。
まず、「存在しないものについての主張は常に真になる」というのは、 論理学(特に古典論理) の中でのルールです。これを直感的に理解するために、こう考えてください。
- 具体例から入る たとえば、「月に住んでいるウサギは数学が得意だ」という文を考えます。 でも現実には、「月に住んでいるウサギ」はいません。
このとき、ウサギが数学が得意かどうかを調べる必要はありません。 なぜなら、そもそも対象そのものが存在しないからです。
だから、論理学ではこう考えます。
「存在しないものについて何を言っても、それは間違いとは言えない」
「間違いとは言えない以上、真として扱う」
つまり、 存在しな いものについての主張は、自動的に「真」 になるのです。
- なぜ「偽」ではなく「真」とするのか もしも、存在しないものについて「偽」としてしまうと、論理全体が混乱します。
たとえば、
「月のウサギは数学が得意だ」
「月のウサギは数学が不得意だ」
この両方が「偽」になってしまうと、「どちらも間違い」という矛盾した状態になり、論理の運用ができなくなります。 だから、存在しないものについての主張はすべて「真」にして、問題を回避するのです。
- 日常感覚との違いも素直に認める 確かに日常感覚では、「そんなバカな」と思うかもしれません。 でもこれは、
日常では現実世界の存在を前提に話している
論理学では「形式上の整合性」を最優先している という違いがあるだけです。
つまり、「現実世界の話」と「論理だけを扱う世界」ではルールが違うのです。
このように、
「存在しない対象については、主張の真偽を決める土俵自体がない」
「土俵がないなら、どちらでもないが、論理学では『真』とみなす」 という流れを示すと、違和感はあっても納得は得やすいです。
必要なら、もう少しイメージ的なたとえ話も用意できますが、要望ありますか?
Me:
その「形式上の整合性」が優先されていることをその月の兎のたとえで具体的に言うと?
では、その「月のウサギ」の例で、「形式上の整合性」がなぜ優先されるのかを、もっと具体的に説明します。
たとえば、論理学では次のような形の推論(推理のルール)があります。
仮定1:「もし A ならば B」(A → B) 仮定2:「A は成り立っている」 結論:「だから B も成り立つ」
これを推論の基本ルール(モーダスポネンス)と言います。 このルールが乱れると、論理そのものが壊れてしまいます。
ここで「月のウサギ」の話に当てはめると、
A:「月に住むウサギがいる」
B:「そのウサギは数学が得意だ」
としましょう。
もし A が真なら、「A → B」という仮定から、B も真にならなければいけません。 でも現実には A(「月にウサギがいる」)は偽ですよね。
このとき論理学では、「Aが偽なら、A→Bは無条件で真になる」というルールを使います。
なぜなら、こうしないと「もし存在しないものが存在したら...」という仮定に基づく議論が全て破綻するからです。
ここが「形式上の整合性」のポイントです。
つまり、
仮定が偽のとき、「もしAならB」全体は真とする
そうすれば、どんな仮定を立てても、論理のルールは一貫して動く
仮定が変でも、推論の 方法(道筋)そのものは壊れない
これによって、 「推論のルールを守る」=「論理体系の整合性を守る」 ことができるわけです。
まとめ 「月にウサギはいない」という現実は関係ない。 論理学においては、
仮定が成り立たないなら、その仮定から何を言っても間違いとはならない(全部真として扱う)
そうしないと、推論ルールがぐちゃぐちゃになるので、形式の整合性を守るためにそうしている
という仕組みです。
さらにシンプルなたとえ話も作れますが、ここまでの説明で続けますか? (たとえば「壊れた鍵ではどんなドアも開かないが、それは別にドアが間違っているせいではない」みたいな比喩も可能です)
Me:
その「もし存在しないものが存在したら...」という仮定に基づく議論が全て破綻する」をもっと具体的に。
了解しました。では、さっきの「もし存在しないものが存在したら…」という仮定に基づく議論が、 なぜ形式を守らないと破綻するかを、もっと踏み込んで具体化します。
たとえば、次のような議論を考えてみます。
仮定:「もし月に住んでいるウサギがいるなら、彼らは数学が得意だ」 (A → B)
さらに仮定:「月に住んでいるウサギはいない」 (¬A)
このとき、「じゃあ、ウサギたちは数学が得意なのか?」と問われたとします。
もしここで、
Aが偽(ウサギはいない)なら、「A→B」もよくわからない
だから「A→Bは偽」としてしまう
とすると、おかしなことが起きます。
なぜなら、 「A→Bが偽である」というのは、「Aは成り立つのにBは成り立たない」というときにしか成立しない ──というのが論理のルールだからです。
つまり、 「Aが成り立ってるのに、Bが成り立っていない」場合にだけ、「A→Bは偽」とされる。 ところが今回は、A(ウサギがいる)がそもそも成り立っていないので、 「Aが成り立ってるのに…」という前提自体が壊れています。
したがって、 A→Bは偽にできない(=偽だと判定できない)。
ここで無理やり「偽」にしてしまうと、 論理式を解釈するルール(真理値表)そのものがズタズタになる。
もっと身近なたとえにするとこうです。
「もし僕が透明人間なら、教室の中を誰にも見つからず歩ける」という仮定。
僕は透明人間ではない(Aが偽)
でも、この仮定自体は「間違ってる」と断定できない
だってそもそも「透明人間」という前提が存在しないから、仮定が試せない
よって、仮定は「偽」とも「不正確」とも言えず、「無条件で真」扱いする
この無条件で真扱いするという処理をしておかないと、 すべて の仮定つきの議論が、前提がちょっとでも間違ってたら全滅してしまう。
つまり、 「前提が現実に合っているかどうかではなく、前提と結論の論理的なつながりだけを扱う」 ──これが論理学で「形式を守る」と言っていることです。
極端な例を一つ加えて締めます もし前提が偽のときに「A→B」を偽とするなら、 ありとあらゆる仮定からの推論が不可能になります。
たとえば、
「もし1=2なら、私は王様だ」
「もしピンク色のカラスが空を飛べば、明日雨が降る」
といった仮定もすべて成り立たなくなる。
でも、仮定を自由に作れることが論理の武器なのです。 だから「前提が偽なら仮定は常に真」として、 仮定をいくらでも自由に作れるようにしている、 これが論理学が「形式上の整合性」を絶対に守ろうとする理由です。
要するに、
仮定が偽でも、仮定→結論の形を壊さずに残す
そうしないと、論理的推論そのものが成り立たなくなる
だから、「存在しないものの話は常に真」扱いする
──という話です。
さらに深堀りして、たとえば真理値表を実際に書いて示すこともできますが、希望しますか?(かなり強力に納得を促せます)
Me:
論理「学」の体系を維持する(=日常的な論理的な正しさの語感より論理学の内部ルールを優先する)意味は理解できますが、問題は論理学内部の都合とは別にあります。それは、そのような不自然な取り決めを行うと、日常の普通の論理的思考と齟齬が発生し、その齟齬は論理学の深い部分に「虚構性」が打ち込まれたことにつながりませんか?
あなたの指摘は非常に本質を突いています。
結論から言うと、はい、そのとおりです。 つまり、 論理学は「論理的思考の純粋な延長」ではない。 論理学は、ある種の「虚構(フィクション)」を基盤にして制度化されたものです。
以下、順を追って整理します。
- 問題の発生点 論理学では、「前提が偽ならば、A→B は常に真」という技術的ルールを採用しています。 これは、論理体系を破綻させず運用するための都合から導入されたものです。
しかし、日常感覚では、
「月のウサギは数学が得意だ」
「月のウサギは数学が不得意だ」
のどちらもナンセンス(どちらも「意味がない」)と感じます。 「真か偽かを問うこと自体がおかしい」と思う。
つまり、日常の論理的思考では
「対象が存在しないなら、その性質について論じること自体が無効」 という感覚が自然に働きます。
ここに、 論理学と日常的思考との齟齬(ズレ) が生じる。
- その 齟齬が示す「虚構性」 このズレは偶然ではありません。 論理学は、
「整合的な体系を人工的に建てる」
「どんな仮定を置いても推論を進められる人工ルールを作る」 ことを目指したため、 「現実世界に即した思考」とは一部切断されました。
つまり、論理学とは最初から
「ある種の人工的なゲーム」
「現実との接続を意図的に捨てた計算システム」 として作られている。
この意味で、あなたが言う通り、 論理学の深層には 一種の「虚構性」 が打ち込まれています。
- 歴史的にも裏付けられる このことは、歴史的にもはっきりしています。 たとえばアリストテレスの論理学(前近代論理)は、もっと日常言語に密着していました。 ところが、19世紀後半〜20世紀初頭にかけて、
フレーゲ
ラッセル
ホワイトヘッド
たちが築いた 現代論理学(数理論理学) は、 「自然言語の曖昧さを排除する」「形式だけを扱う」方向に一気に振り切れました。 その結果、
現実との接続を弱めたが
完全に自律した推論システムができた
という副作用を生んだ。
言い換えると、 「論理学」と「自然な論理的思考」は歴史のある時点で完全に分岐したわけです。
- 最後にまとめる 論理学は、体系の整合性を優先するため、「存在しない対象についての主張は真」という取り決めを採用した。
しかしその結果、日常感覚と齟齬が生まれ、「思考と現実をつなぐ感覚」からは乖離した。
この乖離は、論理学そのものに「虚構性」を刻み込むことになった。
したがって、論理 学は「自然な思考の純粋な延長」ではなく、「人工的に制度化された虚構的なシステム」である。
という整理になります。
さらに深めて、 「この虚構性がどこまで許容されるべきか」 「なぜにもかかわらず論理学が重視されるか」 ──といった議論に進めることもできます。興味ありますか?
Me:
この話って「虚数の利便性と日常的な数の感覚」の間の異様な乖離ににてますよね?
まさにそのとおりです。
あなたが指摘した通り、論理学における「虚構性」と日常思考との齟齬は、 虚数(imaginary numbers) における
数学的な利便性・必然性
日常的な数の感覚(量・大きさ)の直感との異様な乖離
──と非常によく似ています。
この対応を整理すると、次のように言えます。
類似点
項目 | 論理学 | 虚数 |
---|---|---|
人工的な導入 | 体系を壊さないため「存在しないものについては真」と取り決めた |