メインコンテンツまでスキップ

超常現象 や ESP 現象は実質上「無意味かつ無価値」なので無視すべき

· 約12分

要旨

宗教/精神世界 界隈では、超常現象や ESP 現象 に絡む話題が付き物となっている。超常現象や ESP 現象 は、この日常生活の場である現実世界を超えた「超越性」の具体的な証だと見なされてきた。

具体的に言えば、宗教に付き物の奇跡物語や、聖者に備わるとされる不思議な能力や神通力の類が、その「超越性」の証と見なされてきた。

だが、超常現象や ESP 現象は

  • 「超越性」の証ではないし、
  • (実質上)無意味かつ無価値1であるから、
  • 無視して構わない(むしろ無視すべきだ)

と私は提言する。私はこれまで、

  • 神秘体験や超越体験、大悟/解脱 体験 は有害無益

と主張してきたが、今回はそれに加えて「超常現象 や ESP 現象」は無意味かつ無価値だと主張する。

超常現象や ESP 現象 は、本 Blog の開始当初からメイン・テーマの一つとして扱ってきたが、そろそろこのような結論を出して良いと判断した。

超常現象や ESP 現象 が「無意味かつ無価値」である根拠

「宝くじの大当たり」と同じ

超常現象や ESP 現象は、喩えると「宝くじの大当たり」のようなもの。大当たりが実在したとしても、我々の日常生活には無縁。大当たりを期待することも利用することもできない。

捏造を除くと、ESP 現象を含む超常現象は、

  • 統計的に 5σから6σの範囲外で起きる(=極稀に起きる)、現代科学のモデルの枠外の現象

だと推測する。喩えるとアタリが公表されない巨額の宝くじのようなもの。

  • a. 科学教ドグマの盲信者は「アタリなど存在しない。全ては妄想や詐欺だ」と否定し、

  • b. 宗教/精神世界 ドグマの信者は「誰もが 心がけを良くすれば/修行すれば アタリを引ける」と主張

どちらも極論であり間違っている。

ref: ❏ Whilhelm Reich の気候制御装置の謎を(少しだけ)解く (2024-06-12)

超常現象や ESP 現象には実用性がない

あの PK man の異名をとった超能力者 Ted Owens は貧困暮らしの一生だった。Uri Geller でもせいせいが小金持ちクラスでしかないし、彼によって何かが達成されたり、解明されたこともない。彼の本質は特殊な芸ができる芸人のようなものであり、彼の人生が羨ましいと思える人はそれほど多くない筈。

そして我々は Ted Owens や Uri Geller ほどの ESP 現象を持ち合わせていない。

近い将来、超常現象や ESP が解明される見通しはない

18世紀以降、幾人もの優秀な科学者が超常現象や ESP の解明を試み続けてきたが未だにその解明の緒すらつかめていない。近い将来、解明される見通しもない。

従って現在も(そしてほぼ確実に 30-40年後になっても)実用性がない。

「誘惑の罠」としての超常現象や ESP 現象

大勢の優秀な人々が、超常現象や ESP 現象の謎に誘惑され、引き込まれてきたが、結局のところ時間の浪費でしか無かった。

まるで「山中に隠された財宝」の在り処を示すとされる地図のようなもの。大勢がその地図を手に山中に分け入ったが、誰も見つけ出せていない。

あたかも、周辺視野にはチラリと垣間見えるが、視野の中心を向けるともう見えないようなもの。

なぜか?

おそらく、超常現象や ESP 現象は、意識の焦点から外れた「周辺的、辺境的な意識」が関与しているのではないか。だからそれを「シッカリ見定めよう」すると逆に見えなくなる(=現象が生じなくなる)。

憶測だが、この理由で超常現象や ESP 現象は進化によって排除されてきたのだろう。生存における

  • a. シャープな意識の利点
  • b. 不明瞭な意識だが、超常現象や ESP 現象を稀に誘発できる利点

の競争で a が b を圧倒したのではないか。つまり、生存競争において「超常現象や ESP 現象」は利用価値が低いために打ち捨てられた。

この意味で、

  • 霊性が高くなると ESP 能力がついたり、超常現象が引き起こせるようになる

のではなく、

  • 過度の修行による脳のダメージにより、ダメージの副産物として ESP 能力がついたり、超常現象が引き起こせるようになる(= ESP バグ説)

のだと考えると全体の筋が通る。

超常現象や ESP 現象は「超越性の証」ではない

超常現象や ESP 現象が稀に発生する真正の事実だとしても、それは

  • あの世や転生の実在
  • <真の実在>、彼岸、超越世界、本源的世界の類

を示すものではなく(*2)、

  • 機序は不明ながら、時空間を隔てた出来事を感知した体験がごく稀に(大抵は人生に数回程度)生じることがある

というだけの事。当たれば印象的な体験だが、ハズレ体験の方が当たり体験より一桁以上多く混じるので、そういった体験を真に受けることもできないし、その体験を役立てることも(ごくごく稀な例外は別として)できない。

(*2)

その理由を下の過去記事で詳しく述べた。

「超越体験」とは「超越」ではなく、「日常体験の裏返し」でしかない

皆が誤解しているが、超越の本質は、いわゆる「超越」ではない。

惨めで飽き飽きするようなこの地上世界の日常体験が、裏返しとなって虚空に投影された理想の世界…それを我々は「超越世界」だと思い込んできた。

そして、「裏返しとなった日常体験」が、(重度のトラウマや過酷な修行が引き起こした一時的な意識障害による)幻想の中で超越体験だと実感された。これが神秘体験とか、大悟、解脱と呼ばれてきた。

「超越体験」と「日常体験」はいわば、捻って裏返しにしたメビウスの輪のようになっている。局所的に見れば、「超越体験」と「日常体験」は互いに隔絶し、真逆の関係にある。だが全体を俯瞰すると同じ面で地続きになっている。

関連

❏ 井筒俊彦と Ken Wilber が陥った、ふたつの根本的な錯誤 (途中 1) (2024-02-15)

「究極の真理」の中身が常に空っぽである理由 (2024-07-26)

❏ Dean Radin 博士 : 深い瞑想で至福を感じるのは、本来の<私>である純粋な覚醒意識に触れるからだろう (+追加) (2024-01-25)

(2024-09-12)

Footnotes

  1. 一般人にとっては「無意味かつ無価値」だが、例外的に超常現象の研究者にとっては「研究対象として」価値がある。何事も好事家にとっては価値があるのと同じ。