田川建三:「真のクリスチャンは神を信じない」。なぜなら神は偶像であり、実在しないゆえに。(全体 + OCR)
履歴
(2024-07-23) 追加。引用箇所の画像を OCR で文字起こしした。
(2022-08-19) 追加。田川建三:「真のクリスチャンは神を信じない」。なぜなら神は偶像であり、実在しないゆえに。 (全体) (2022-08-19)
(2018-08-10) 作成。
はじめに
下の過去記事で、「神を信じないクリスチャン」である田川建三が「神は存在しない」と説教した件について言及した。
(彼は)チャペルで礼拝のとき講壇から「神は存在しない」「存在しない神に祈る」と説教した。
...
神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝であり、「神とは人間がでっちあげた」ものなので、「神を信じないクリスチャン」こそが真のクリスチャンであり、自分は「神を信じないクリスチャン」であるとする。聖書ギリシャ語は教会解釈に逃げているのであり、「私はある意味で聖書を破壊した」という。またイエスという男はほとんど神について語っていないと考えている。
ref: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B7%9D%E5%BB%BA%E4%B8%89
ref: フィリップ・K・ディックの神秘体験とその検証 (+追加) (2018-08-04)
この
「神とは人間がでっちあげた」ものなので、「神を信じないクリスチャン」こそが真のクリスチャンだ
という主張の委細を田川建三が解説している文章を記録しておく。
引用
このことは「王」という語に限らない。原則的にすべての語にあてはまる。人間たちは神々ないし神の存在を信仰するようになり、それと並行して、この世を超えた彼岸に対する信仰も強く持つようになった。しかしもちろん、彼岸など誰も見たことはないし、神を本当に知っている者なぞ一人として存在するわけがない。
そもそも神だの彼岸だのというのは、所詮、人間が自分たちのさまざまな水準での願望を、この世の生では満たされない思いを、あるいはこの世の生の中においては自分たちにはどうにもすることのできない、自分たちを超えた力がさまざまな仕方で自分たちの上にのしかかる状態を何とか頭の中で了解をつけたいという思いを、その他いろいろな思いを、頭の中で考えた彼岸の世界に投影して描き出した架空の理念にすぎない。
従ってもちろん、彼岸の世界を描く、神の何たるかを描くと言っても、それは所詮、人間がこの世の生、この世の現実の中で知っている事柄、そこから得たさまざまな概念、それを言語化したさまざまな語、表現を用いて、それを比喩的に用いて、この世ならぬ存在を描き出そうとしているのである。
しかし人間が人間社会の現実の中で作り出した言語表現でもって、人間社会を絶対的に超越するはずの神を描くことなぞ、しょせん無理な相談なのだ。神の像、彼岸の像などというものは、人間が自分たちの創造した言語表現を勝手に投影して作ったものにすぎない。
その意味では、古代ユダヤ教徒及びそれを受けて古代キリスト教徒が、異教徒が礼拝の対象として神殿などに安置している神々の像は所詮すべて人間が作り出した偶像であって、人間が作り出した偶像が人間世界を絶対的に超越する神であるわけがない、と強く批判したのは、極めてまっとうな意見であった。
ただし彼らが間違ったのは、それなら彼ら自身が自分たちの宗教信仰の対象として信じているユダヤ教の神、キリスト教の神にしたところで、それと同等だ、ということに気がつかず、自分たちの神様だけはそうではない例外だ、と鼻を高くして思い込んだ点にある。
木や石や金属を刻んで作った彫像の「神」は人間が造形した「偶像」にすぎないのだから、そんなものが神であるわけがない、とおっしゃるのならば、言語だって人間が作った人間的創作物であるのだから、言語によって表象される神の像だって偶像である点では変らないのだ。
出典
田川 建三、『新約聖書 訳と註 第七巻 ヨハネの黙示録』、作品社、2017/8/31、438頁
コメント
この田川建三の主張には半分同意するが、のこり半分は同意できない。
そもそも、私は「クリスチャンであること」に宗教的価値も意義も全く認めない。なので、真のクリスチャンだろうが、モグリのクリスチャンだろうが、好き にしてくれ…という気分。これが同意できない点の一つ。
更に… … … … …
(2018-08-10 end)
(2022-08-19 begin)
前置き
4年間、放置状態だったが後始末をつけておく。
「存在しない神に祈る」とはどういうことか
田川は
「神は存在しない」
と主張してるが、それは
「人間がでっちあげた神」(人造の神)は存在しない
という意味でしかない。だから、彼はその立場に立って
「(人造の)神を信じないクリスチャン」こそが真のクリスチャンであり、自分は「(人造の)神を信じないクリスチャン」だ
と主張している。
その上で、田川は「人間がでっちあげたものではない」神、人間の理解も思慮も及ばない「本物の神」を信じている。人間の理解も思慮も及ばないものはそれがなんであれ、人間の知性にとっては「存在しない」ものと等価となる。
要するに田川の言う
「存在しない神に祈る」
とは、
人間の理解も思慮も及ばない「本物の神」に祈る
という意味でしかない。
言い換えると、「本物の神」は知性では理解も思慮も及ばないが、感性・霊性・直感の類でのみ観ることができる。それがゆえに、感性・霊性・直感の類にもとづいて「本物の神」に祈ることが可能となる…これが田川の一見すると逆説的な表現の内実である筈。
つまり、田川の逆説的表現を平明に言い換えると、以下のようになる。
-
人間が知的・概念的に捉え、表現した神は「存在しない」。存在しないから信じるに値しない。
-
人間がその感性・霊性・直感の類で希求する神こそが本物であり、祈るに値する。その神は知的・概念的には捉えられないという意味では存在しないが、人間が霊的に希求し祈りを捧げる象徴として、感性的には最高度の実在性を持つ。
「本物の神」の落とし穴
ところが、この「本物の神」にも同じ落とし穴がある。この
人間がその感性・霊性・直感の類で希求する神こそが本物であり、祈るに値する。その神は知的・概念的には捉えられないという意味では存在しないが、人間が霊的に祈りを捧げる象徴として、感性的には最高度の実在性を持つ。
という本物の神もまた、まごうかた無き「人間がでっちあげた神」(人造の神)でしかない。田川は「それ」に祈ることによって
- 「存在しない神」というラベルを貼った神
をでっち上 げてしまっている。ラベルにどんな能書きが書かれていようが関係ない。「天にまします」であろうが「存在しない」であろうが偶像であるという点では同じこと。偶像に「これは偶像ではない」とラベルを貼れば偶像でなくなるわけではない。
最初に掲示した田川の長い文章の文意からすれば、
- 知的・概念的な対象も霊性・直感の対象もどちらも等しく偶像
となる。後者は前者に比べると、内実が曖昧で明確な表現が困難なゆえ、概念操作が難しく、教団組織運営用の教義構築ツールには向かないというだけの話。それゆえ後者は巨大で壮麗な教会建築や教会音楽、凝った儀式などの感性に訴えるツールとして利用されてきた。
田川の「存在しない神」も所詮は虚構
田川の言う「存在しない神」も下の過去記事で述べた宗教的境地と同様の(だがかなりマイナーな)規範幻想であり、虚構でしかない。
さらに言えば…。宗教的境地は共同体の間で共有される模範幻想の一種ですから、多数派の凡人にもそれがある程度は察知できなければなりません。誰にも察知できない宗教的境地は存在しないのと同じです。もともとが幻想ですから、実体はありません。なので曖昧に察知されるだけの虚構的存在です。虚構ですが、カネと同じで共同体に強い影響を及ぼし、構成員の思考パターンを支配します。