Richard Lang : Douglas E. Harding の『頭がない私』の続き (書式変換+文字起こし+和訳)
はじめに
妙な経緯でタイトルの件に遭遇した。
Richard Lang (MUFON の STAR team のリーダー)の講演動画を見終え、彼の名前で検索したら下の動画がヒット。同姓同名の別人のインタビュー動画だったが、そこで語られている話が AI 関連の本に収録された話(『頭がない私』:下)に妙に似ていた。
ref: ダグラス・R. ホフスタッター、『マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈上〉』、1992-10、TBSブリタニカ、32頁
チェックすると、確かにこの『頭がない私』の著者の開発した技法(というか禅めかした風変わりな哲学?)の話題だった。
履歴
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(2025-01-22) 書式変換+文字起こし+和訳
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(2019-04-07) 追加。Douglas E. Harding が自分の頭を指さしているシーンを追加。 Douglas E. Harding の『頭がない私』の続き (途中:その4) (2019-04-07)
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(2019-04-06) 追加。「頭がない私」というタワゴトを粉砕する「たった一言+一つの仕草」を追加。
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(2019-03-25) 追加。
- ヒマラヤでの体験は事実ではなく、印象操作のための演出だった…という話を追加。
- タイトルに含まれる名前を修正(Donald (Douglas) E. Harding → Douglas E. Harding )。
- ついでに Douglas Harding の「啓示」が全くのタワゴトであることを解説(途中)。
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(2019-03-09) 作成
抜粋
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動画(1:58:55)
Richard Lang - Buddha at the Gas Pump Interview
www.youtube.com/watch?v=PAckqzUSPiw
関連
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コメント
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(2019-03-09 end)
(2019-03-25 begin)
抜粋
13:30
Douglas E. Harding が本や講演で述べている、彼のヒマラヤでの(私には頭がない…という)啓示体験は実際の出来事ではなく、いわば印象操作の演出だった。
実際は、そのもっと前に Ernst Mach の本に描かれた絵(*1)を見たときにこの啓示体験をしていた。
動画(1:58:55)
・Richard Lang - Buddha at the Gas Pump Interview
www.youtube.com/watch?v=PAckqzUSPiw
(*1)
下の絵のこと。
https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%8F_%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%8F%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81
参考
Douglas Harding の啓示体験については下の日本語記事が詳しい。
The Headless Way―頭がない方法 ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法 - http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/99_blank.html
頭がない方法 ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法 -
http://www.headless.org/japanese/welcome-%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%9D.htmコメント
・Douglas Harding の啓示体験と、それにもとづいた「頭がない私」という主張には Douglas R. Hofstadter(*2) もまんまと誑かされ、Hofstadter の本(『マインズ・アイ』)にも掲載された。
・Douglas Harding の啓示体験の核心部分が下図だが、彼の「啓示」は実は全くのタワゴト。人は彼の主張のトリックにまんまと操られ、ここには深い真理が含まれているのかも知れない…と錯覚させられ、誑かされている(*3)。
・Douglas Harding の「啓示」と主張の どこが どのように タワゴトなのか? それを面倒な理屈抜きに、「たった一言+一つの仕草」だけで誰にでも一発で納得させることができる。
・たった一言だけでも十分だが、Douglas Harding はすぐ上の図のような仕草による解説がお好みだから私もそれに付き合って仕草のおまけを付きバージョンにしておくw
・その「たった一言+一つの仕草」とは… (後述)
(*2)
Dennett (『マインズ・アイ』の共編者)がまんまと騙されるのは さもありなん だが、Douglas R. Hofstadter まで騙されるとはねぇ。
Douglas R. Hofstadter については下の過去記事を参照。
Douglas Hofstadter が『ゲーデル、エッシャー、バッハ』を書きだした経緯 (2013-11-22)
ゼノンのパラドックスは「無限級数の収束」では解決しない (2014-05-18)
Douglas R. Hofstadter : Ray Kurzweil の Singularity 説を肯定的に評価 (2014-05-15)
(*3)
我々のような凡人が
- これには深淵な真理が含まれているようだ。微かだが、その真理の確たる手応えを私も魂の深みで感知できている
…などと思うような「真理」は大概、タワゴトでしかない。そもそも我々凡人と「深淵な真理」の間には接点がない。
名前の修正
タイトルに含まれる名前を修正した。
Donald (Douglas) E. Harding → Douglas E. Harding
Web で調査すると Douglas E. Harding なのは明らかだが、過去記事では
Donald (Douglas) E. Harding の『頭がない私』の続き (途中:その1) (2019-03-09)
というように Donald (Douglas) E. Harding と名前を記載していた。一番上の引用画像にあるように、日本語訳の
ダグラス・R. ホフスタッター、『マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈上〉』、1992-10、TBSブリタニカ、32頁
に Donald E. Harding と記載されていたので、日本語訳の顔を立てて Donald を優先させ、Douglas をかっこで補足していた。
だが、原書をチェックしたら下のように "D. E. Harding" となっていた。どうやら日本語訳が名前を誤記したようだ。
出典:
(2019-03-25)
(以下、2019-04-06 追加分)
「頭がない私」というタワゴトを粉砕する「たった一言+一つの仕草」
Douglas E. Harding の「頭 がない私」がタワゴトであることは、面倒な理屈抜きで「たった一言+一つの仕草」だけで誰にでも一発で納得させることができる。ざっとこんな感じ。
- (1) D. E. Harding が講演で下の図のような仕草をして「私の頭は無い」と語っているとする。実際、彼は講演でそれを十八番にして解説している(*4)。

-
(2) 私は D. E. Harding の眼の前に進み出て、彼の手首を掴んでグイと押しやる。(当然、彼の人差し指は彼の鼻の下あたりに突き当たる。)
-
(3) そして、私は D. E. Harding に尋ねる。「これは何かね?(あなたの指が触れているのは何だ?)」

本当は彼の腕を掴んで押しやるより、「寝言をほざいてんじゃないよ」と言って彼のおでこにデコピンを一発かましたいところ。だが、それでは彼は屁理屈の言い逃れ(自他の観点の相違があーだこーだ…の類)を試みる筈。なので、そういった屁理屈を完全に封じるために彼自身の指が彼の顔(頭)に突き当たる場面を観衆に見せつける。
おまけ: 中論や般若心経で説く空も同型のタワゴト
このように D.E. Harding の主張は全くのタワゴトでしかないのは明白な筈だが、実際に大勢の人々が誑かされ「あるいは深い真理が含まれているのかも…」と惑わされている。
実はこれと同様の手口が宗教業界では十八番となっている。仏教で言えば龍樹(ナーガルジュナ)の中論や色即是空で有名な般若心経がその典型例。中論や般若心経で説く空の中核は D. E. Harding の「頭がない私」と同型のトリックとなっている。
中論や般若心経は D. E. Harding のそれより手口が巧妙化しているために、錚々たる知識人を含めた大半の人間がコロリと騙されている。仏教学者の中にも般若心経はタワゴトだと指摘した人物はごく少数ながら存在するが、そういった人たちですら中論がタワゴトだとは見抜けていない(or 勘付いてはいるがそれを認めるのに躊躇している。万一それを認めれば彼の信じる流派――唯識 or 中観 or … ――を含む大乗仏教全体の土台が崩壊する。ゆえに怖気づく)。
(2019-04-07 begin)
(*4)
実際に D. E. Harding が講演で自分の頭を指さして解説しているシーンをいくつか列挙しておく。字幕からもわかるようにロシア語圏やフランス語圏、スペイン語圏などでも彼の主張に誑かされた人々が大勢いるようだ。イギリスの著名な作家も彼の説をすっかり信じ込んでいたという。
D. E. Harding が講演で自分の頭を指さしている時、実は鼻の先や瞼の縁が見えている筈だが、彼はそれに言及しようとない。
D. E. Harding が「 Ernst Mach の本に描かれた絵(*1)を見たときにこの啓示体験をしていた」のであれば、Mach の絵に鼻の先や瞼の縁が描かれていることに気づかない筈はない。
つまり、D. E. Harding が得意とする仕草ですら、最初から論旨が破綻している。
26:30
実演動画(32:39)
Look Who's Here Pt 1 A
2:29
動画(6:15)
Douglas Harding On Having no Head
2:37
動画(4:13)
douglas-harding-vivre-sans-tete.wmv
(2019-04-07 end)
(2025-01-22 begin)
前置き
文字起こし+和訳 をつけておく。
FasterWhisper AI(large-v2 model) + DeepL(2024-07 model)
▼和訳 展開
ブッダ・アット・ザ・ガス・ポンプへようこそ。私はリック・アーチャー、今日のゲストはリチャード・ラングです。リチャードは1970年、『ヘッドレス・ウェイ』の著者、ダグラス・ハーディングのワークショップに参加し、ハーディングの実験を行うことで、本当の自分が見えてくることに驚かされた。彼は実験の効果に感銘を受け、この方法をできるだけ多くの人に伝える仕事に携わるようになった。 (0:00:57)
そして、この準備のためにリチャードのインタビューや講演を聞いたり、彼の本を読んだりしていると、なぜかダグラス・トレヒアーン・ハーディングというすごいストリングスバンドの曲を思い出した。曲名はダグラス・トレヒアーン・ハーディングだが、ハーディングのミドルネームはエジソンだったよね? そうだ。なぜトレヒアーンと呼ばれたのですか? トーマス・トレヒアンは17世紀頃のイギリスの有名な神秘主義者で、彼は一つの目を持つこと、そして世界の静電容量についてよく話していたんだ。 (0:01:27)
、ストリングスバンドのマイク・ヘロンが『トレヒアーン』を読んでいたんだ。『トレヒアーン』はダグラスのお気に入りだったから、いい選択だったよ。 それをブレンドしたんだ そう、トレヒアンとダグラスを組み合わせたんだ。 クールだ。実はその曲の歌詞を少し読んでみたいんだ。そのうちのひとつは、Skypeのちょっとした紹介文として時々使っているんだ。 (0:01:53)
歌はこう始まる。私の目は一つで、私の体は光で満たされていた。 そして、私がいた光は、私が見た光だった。そして私が見た光は、私がいた光だった。 そして、この曲にはさらにたくさんの歌詞があり、リフレインがある。1つの光、ランプはたくさんあっても、光は1つ。海そのものがあなたの血管を流れ、あなたが天をまとい、星を戴くまで。 (0:02:28)
そう、最後の部分がトレヒアーンだ。ああ、いいね。そうです。インクレディブル・ストリング・バンドを聴いたことがない人は、ぜひチェックしてほしい。彼らは60年代後半から70年代前半のハイライトのひとつだった。ダグラスは60年代後半にイングランド北部のヨークで彼らに出会い、マイク・ヘロンに首がないことを見せ、友達になったんだ。 (0:02:51)
そしてダグラスはロイヤル・アルバート・ホールでの彼らのパフォーマンスを何度か見に行った。クールだね。だから、数年前に初めて首なしについて聞いたとき、私はおそらく多くの人が抱いたような反応をした。もし頭がなかったら、僕は死んでいたよ。見えないからといって、頭がないわけじゃない。 (0:03:11)
つまり、僕も肝臓は見えないけど、肝臓があることにはそれなりに自信がある。だから、そういう膝関節反応をする人もいるかもしれない。では、たっぷりと時間をとって、なぜヘッドレスと呼ばれるのか、その全体像と、あなたの経験について説明してください。数時間かけて、本当にこのことを解き明かしていきましょう。 (0:03:31)
素敵ですね。リック、まずはこのインタビューに招待してくれてありがとう。素晴らしい。ここに来られてとてもうれしいです。首のない道を共有できてうれしい。多くのリスナーがあなたを招待したいと言ってくれた。それは、私が人を招待する時の基準の一つなんだ。 (0:03:52)
というわけで、お待たせしました。素晴らしい。ありがとう。なぜなら、基本的な質問は明らかに、私は誰なのか?自分とは何なのか?そして人は、自分が実際に経験する自分自身を見つめ直すのです。 (0:04:07)
だから、その意味するところや、それが真実かどうかということに踏み込む前に、人はただ、自分の頭が見えないという、まっさらでニュートラルな体験に気づくのだ。自分の頭が見えるか見えないかについては議論できるだろうが、自分が見ている場所で自分の頭が見えないという事実に反論することはできないと思う。 (0:04:36)
で、もちろん鼻は少し見えるんだけど、僕から見ると無に消えている。それは誰にとっても同じことだと思う。そうすると手が消えて、また現れるんだ。それは本当だ。本当か? リック そう、みんなはこの実験を見ながら試すことができるんだ。 そう、これがポイントなんだ。実験をして、見て、手が消えることに気づくんだ。 (0:04:58)
これが基本的な体験で、非言語的で非感情的だ。それに気づくために、特別な方法でこれを理解する必要はない。ただ、自分の目が見えない、何も見えないということに気づくだけだ。そして、それを実際に経験するために、いい気分になったり、何か理解したりする必要はないんだ。 (0:05:28)
そしてダグラスは、この視点が真実かどうかを検証するために、たくさんの実験を開発した。自分の頭が見えるかどうかだけでなく、後ろを振り向いたらどうなるか?自分が動いているのではなく、景色が動いているのだ。あるいは、今私があなたを見ているとしたら、リック、私はあなたの顔を見るが、私の顔は見ない。だ から、その顔をノーフェイスと呼ぶんだ。これが非言語的、非感情的体験の最初の導入です。あまり魅力的に聞こえませんが、どうぞ。 (0:05:55)
私の記憶では、ダグラスは最初にこれに出くわした。彼はスピリチュアルな求道者で、ヒマラヤでハイキングをしていた。 実際はそうではない。それは「頭がない」ということについて書かれたものだった。彼が初めて自分が何者であるかを知った20年ほど後に書かれたものだ。 (0:06:21)
ダグラスのストーリーを簡単に説明すると、彼はキリスト教の原理主義的なグループで育ち、21歳のときに自分の考えを言われるのにうんざりして家を出て、自分なりの考えを持ち始めた。そして彼はまず、相対主義者たちから影響を受けた。つまり、何かが何であるかは、そこからどれだけ離れているかによって決まるということだ。
(0:06:48)
そうです。非常に単純な言い方をすれば、あなたはカメラを通して私を見ているので、私の顔が見えている。また、他の機器を使って近づけば、細胞などを見ることができる。 (0:07:09)
一方、私から離れれば、私の全身が見えるし、イギリスや惑星、星なども見える。そうしてダグラスは、自分がただの人間ではないこと、自分には層があることに気づき始めた。実際、これは何度かお見せすることになると思いますが、これは彼が70年代に作った彼の存在の層の模型です。そう、素晴らしいんだ。 (0:07:31)
つまりこれは、ゼロ距離の自分、この無の状態を表している。そしてその外側には、さまざまな距離で見えるものがあります。この距離で、これが見えますか?人がいる。 (0:07:45)
つまり、あなたはカ メラを通して、その距離で私を見ているわけです。でも、もしあなたが私に近づいたら、細胞や分子や粒子などが見つかるでしょう。でも、もし僕から離れたら、残りの人類や惑星や星や銀河系を見つけることになるよね?そうだ。うん、いいね。素晴らしいモデルだね。 ああ、素晴らしい。 (0:08:12)
私たちの身体と精神が一つの地図になっている。この話はまた今度。 でも、それは私じゃない。私とは、あなたがそこに振り下ろした3番目か4番目の小さなもの、つまり、そこに立っている男のことだ。それが私だ。それ以外はすべて僕じゃない。悪魔の証明だ。 (0:08:29)
それが普通の見方だ。でもダグラスが客観的に見たとき、私たちが鏡に映っている普通の私というのはナンセンスだと気づいたんだ。肺や、肺を構成する細胞や、細胞を構成する分子や、地球の大気や、星の暖かさと光がなければ、私は呼吸できない。つまり、全体がひとつの生命システムなのだ。 (0:09:03)
さて、ダグラスが気づいたのは、私とは誰かという問いだった。それは単に外見や体つきがどうであるかということではなく、それは絶対に重要なことだが、これらすべての層の中心にいるのは誰なのかということだ。 そして、近づけば近づくほど、その存在は小さくなっていく。彼は1937年にイギリスを出て結婚し、建築家として働くためにインドに行った。インドで建築家として働くために。 (0:09:38)
戦争が勃発し、妻と子どもたちは帰国して、実際にアメリカに行った。しかし彼は、自分とは誰かという問いに深く関わり、それに取り組み、層という考え方に取り組んでいた。 あらゆる偉大な宗教がこのことを語っているけれど、それはどちらかというと観念のようなものだった。 (0:10:08)
1942年か43年のある日、彼は読んでいた哲学書の中でエルンスト・マッハの絵を目にした。エルンスト・マッハは初期の相対主義者であり、科学者でもあった。そしてエルンスト・マッハは、ダグラスが読んでいたこの本の中で、初心に戻り、言語化する前の自分の直接的な経験について述べることにした。 (0:10:48)
そして彼は自分の絵を描いた。それは頭のない体で、描いている紙とその向こうの部屋に腕が伸びている。そして大きな鼻、ほら、片目を閉じると鼻が天井から床まで伸びている。
(0:11:09)
さて、ダグラスはこれを見たとき、自分も同じ状態であることに気づいた。そして、ただ外から自分の中に入り込もうとするのではなく、層をはがし、中心へと到達しようとするのではなく、この絵は中心から外を眺めたものなのだ、と。ダグラスはもうほとんど家にいるようなものだったが、この写真によって家がどんなものかがはっきりした。 (0:11:42)
そしてこれは1942年か3年のことでした。彼は10年間この仕事に取り組んでいた。彼はすでにパブリックに関する本を2冊書いていた。 (0:11:52)
そして彼は戦争の残りの期間中これに取り組み、1945年にイギリスに戻り、建築に戻る前に5年間休みを取りました。彼は外から中心部に入り込もうとしていて、それが何であるかはなんとなくわかっていたのですが、突然それが見えるようになったのです。 (0:12:25)
そして彼はそれに触発され、現代科学と哲学の観点からそれを理解する必要があることに気づいた。 それで彼は妻に言ったんだ、いいか、1年間休んでこの本を完成させるつもりだ、と。もう3、4年書き続けているんだ。とにかく、彼は少しお金を貯めたから、そして1年後、彼は完成に近づいていた。 (0:12:51)
そして1950年までかかった。さらに5年、1日14時間、週7日、休日なし。すごい。これこそ天と地のヒエラルキーだ。 信じられないような、持続的な業績、注意深さ、深さ、そして彼はあらゆる質問に突っ込んだ。最も感動的な本だ。彼は初心に戻り、伝統に学び、すべての人を読み、すべての人の肩の上に立っている。だから、1950年に出版されたんだ。だから、さっき君が言っていたのは、『On Having No Head』の中で彼が山の中を歩いている描写のことだね。 (0:13:30)
確かに彼は山を歩き、ヒマラヤに登りましたが、そこで初めて見たわけではありません。彼が初めて本当にそれを見たのは、この本に載っているこの写真を見たときだった。しかし、『On Having No Head』は1960年から61年にかけて書かれたもので、彼は大衆を惹きつけるために、ちょっと書きなぐり、ヒマラヤを歩いていたと書くことにしたんだ。 (0:13:57)
そう、ヒマラヤを歩いている必要はない。でもその後どうなったかというと、彼は建築の世界に戻り、そして執筆を続けた。彼は気づいたんです、何かとてつもなく重要なことを発見したと感じたんです。そして、その本に最初に気づいたのはC.S.ルイスだった。彼は多くの人に原稿を送り、最終的にルイスは返事を書き、こう言った。 (0:14:37)
あなたは誰ですか?なぜあなたのことを聞いたことがないのですか?そして、C.S.ルイスが序文を書き、彼に出世の足がかりを与えた。しかしその後、彼は建築の世界に戻り、他 のものを書き、『On Having No Head』で禅とラマナ・マハルシに出会い、50年代後半にロンドンの仏教協会のサマースクールを訪れた。そして仏教協会が彼にこの本を書くように、あるいはとにかくこの本を出版するように誘った。 (0:15:14)
そしてそこから、彼はよりよく知られるようになった。そして60年代後半、マイク・ヘロンと出会ったとき、彼は首なし体験をどんどん共有していった。ヘレンという女性は、彼の建築事務所で秘書をしていました。 (0:15:34)
そして彼女はそれを理解し、夢中になった。とてもパワフルな体験だった。頭でっかちというか。そうです。可能性に満ちているよね。ルイスはそのアイデアを理解していたけど、ヘレンのようにパワフルで感情的で知的な方法でそれを理解した人がいると、当時の彼の考えは、「もう死んでもいいや」となったんだと思う。 (0:16:01)
私はそれを他の一人と分かち合った。なぜなら、それは孤独な道であり、この最も明白なことに気づいていながら、それを分かち合うことができなかったからだ。しかしその後、徐々に多くの人がイエスと言うようになり、彼は60年代後半から70年代にかけて友人たちとともに実験を発展させていった。私が彼に会ったのは1970年で、実験のいくつかはそのときに開発されたものだ。 (0:16:23)
そして、その実験は実に画期的なもので、とても簡単に共有できるようになったからです。目の前にあるものを指差して、指差しているものを見る。色も形もある。そして自分の腕を指し示し、何かを指し示しているのだ。 (0:16:46)
でも、他の人があなたの顔を見ているところを指さします。そう、あなたは自分の顔なんて見ていない。指が見えるだけで、ここに固形物が見えるわけではありません。そして60年代後半から、ダグラスはどんどん友人を作り、このことをどんどん広く伝え、オープンハウスを開いて人々を招待した。 (0:17:17)
もしあなたがこのことに興味があるなら、私は隔週末に通って、たくさんの友達を作ったよ。これの素晴らしいところは、ヒエラルキーがないことだ。 (0:17:28)
そうだ、ここでひとつふたつコメントを挟ませてくれ。私はこれらの実験を少し試したことがあります。ご存知のように、私は40数年間、自分自身の精神的な道を歩んできましたが、非常に効果的だと思いました。特に好きなのは、指をさしてくるくる回るものだ。ある朝、鳥の餌入れに種を入れに行ったとき、朝の6時くらいにパジャマを着て、くるくる回っていたんだ。 (0:17:56)
、近所の人は誰も見ていなかったと思うけど、クールだったよ。つまり、ここには絶対的な透明さと静けさがあり、動じることがなく、それから世界が一転するんだけど、その透明さと静けさがまったく動かず、岩のように固いんだ。 YouTubeにアップされている、いろいろな人たちとのインタビューをたくさん聴きましたが、とても誠実で知的な人たちだと思います。 (0:18:26)
このような実験をした人のうち、何パーセントが実際にそれを手に入れたのか分かりませんが、もしかしたら、それはあなたがインタビューした、明らかに厳選されたグループなのかもしれません。 彼は精神的に不安定になり、1日か2日入院しなければならなかった。 (0:18:54)
これが危険だと言っているのではない。単なる気分やちょっとしたマインド・トリックではなく、ここで言っていることを理解すれば、本当に自分の世界を揺るがすことができるのだ。 だから、このことが何年も何年も彼らの生活の中心であったダグラスの友人たちを紹介したかったし、また、このことの表現がいかに異なるか、そして、誰もが異なる表現をしていて、標準的な反応がないことを示したかったんだ。そして、そう、本当に楽しい。 (0:19:46)
、どれだけの人がこのことを理解したかという点では、私にはわかりません。とても難しいことですが、ダグラスは何千人もの人と分かち合ったと言うでしょう。彼は7年前に亡くなりましたが、何千、何万という人たちと分かち合いました。もちろん、どれだけの人が実際にそれを大切にしているかは別の話だ。 しかし、私は20年近く前に慈善信託、ショーリン・トラストを設立した。 (0:20:11)
私たちはウェブサイトを持っていて、ご存知のようにウェブサイト上で実験を行っている。定期的にメールをもらうんだ。 何年も何年も本を読み続けてきましたが、突然その意味がわかりました。 つまり、直接体験したんだ。 (0:20:37)
私たちは無料のスカイプミーティングをやっていて、最近、何人かの美しい人たちが突然現れたんだ。今朝、スカイプミーティングをしたんだけど、これを楽しんでいる新しい友達に会うのはとても楽しいね。そして、自分が彼らよりも良いことをしているなんて微塵も感じない。 (0:20:55)
今やっているように、あなたがそれを見るとき、あなたはそれを完璧に見ている。でも、あなたにはあなただけの表現があって、そのいろいろな表現を楽しむのがとても面白いんです。 そうだ ね、僕がインタビューする多くの人たちがそうであるように、バット・ギャップ・バンプを経験したら、スカイプミーティングで新しい友達ができるはずだよ。通常、このようなインタビューをすることで、人々はかなり良い反応を得る。 (0:21:22)
私たちがここで話しているのは、言っておきますが、私たちが言っている実験とは、あなたができることの束で、あなたに指摘したり、あなたが見ていなかったかもしれない方法で物事を見させたり、本質的な意味であなたが誰であるかを明らかにするものです。 (0:21:42)
そしてもちろん、これは実質的にあらゆるスピリチュアルな修行が行うようにデザインされていることだ。ダグラスからもあなたからも、あなたが他のスピリチュアルな修行を貶めるような感じは全く受けませんでした。実際、あなた自身、ダグラスとかなり一緒にいた後、仏教のコミュニティに入って熱心にそれを実践し、また心理療法にも入って熱心にそれを調べていました。 (0:22:08)
だから、これは必ずしも他のことに取って代わるものでも、他のことと対立するものでもなく、新しいものであり、新鮮なものである。これはある意味、自己探求の機械的な形のようなもので、実際に自己探求の助けになるようなちょっとしたテクニックで、ラマナ・マハルシの意図と完全に調和するものです。 (0:22:53)
もちろんリック。ラマナ・マハリシはダグラスのお気に入りだった。ダグラスはラマナの中に、とても共感できる引用をたくさん見つけたが、私たちが見つけたシンプルなものの中に、空虚を見つめているような自分がいるというようなものがあった。つまり、私は空虚を 見つめていて、今は空虚から外を見つめている。 (0:23:27)
、見る人ができるように、指をさして、ただ見る。もう片方の指を出せば、私は満腹を指していることになる。 (0:23:47)
そしてこれは仏教の考え方でもありますね。形は空であり、空は形である。この虚無と今のリック、そして私たちの声や感覚、あらゆるものの間には隔たりはありません。そう、だから本物を排除することはない。これは非言語的で、非感情的で、非独断的な体験と言えるでしょう。 (0:24:21)
あなたの本を全部読んだわけではないのですが、たぶん前半を読んで、それからあなたとダグラスとのインタビューの最後の部分を全部読みました。 (0:24:36)
そしてあなたは、これはあなたが長年にわたって取り組み続けたことであり、現在も取り組み続けていることであることを明らかにしました。実際にそう言う人もいる。というのも、「こんな風に目覚めたんだ。 (0:24:59)
それでいつも笑ってしまう。そうだね。まあ、終わったとしたら、むしろ悲しいことだ。 アマリナート・サマネラという僧侶の友人がいるんだけど、今朝スカイプで話してくれたんだ。彼は古い友人なんだ。彼とのインタビューを聞いたと思うのですが。 ええ、その通りです。サムも同じようにインタビューしたんだけど、何か言っていたよ。 (0:25:31)
彼はアマリナートとミーティングをしていて、誰かが言ったんだ。サムはそれをそのままアマリナートに伝えた。そしてアマリナートは言った。覚醒とはこれを見ることであり、マインドフルネスとはこれを見続けることだ。そして、このシンプルでとても謙虚な無を見る門は、自分で はあまり宣伝していないけれど、谷と呼ばれているんだ。すべてのどん底にある。 (0:26:05)
これに留まることで、一瞬一瞬、ギフトがもたらされる。つまり、今のこの状況は、リックのための能力であると同時に、2つの声の能力でもある。リチャードとしての私はこの声を持っていて、あなたはリックとしての声を持っている。しかし、1つの声として、この開放性、この沈黙、両方の声が私のものなのだ。 (0:26:34)
これは聴き方の違いであり、見え方の違いと同じです。すべては自分の中にある。だから、それを意識し続けることが大事なんだ。 そうだ。海そのものがあなたの血管の中を流れ、あなたが天まで衣をまとい、星を戴くまで、あなたは決して世界を正しく楽しむことはできない。そう、文字通りだ。夜空を見渡せば、それはすべて自分の中にある。 (0:27:01)
つまり、もしあなたがこれを見て、これを見続けるなら、もしあなたが回復しようと仰向けになって時間の半分を費やさなければ。それはいいことだ。 それを続けるということは、統合し、安定させ、より豊かで充実した、より継続的なものにするということでしょう。そして、最終的には、それを考えたり、ちょっとした練習をしたりする必要がなく、呼吸をするのと同じくらい自然にできるようになるはずです。 (0:27:34)
それはあなたが機能する方法であり、あなたが自然に世界を認識する方法なのです。そう、実験とは、あなたにドアを示す道しるべのようなものだと思う。ドアをくぐり、敷居を跨ぎ、敷居に留まってはいけない。中に入って屋内の空間を楽しみ、そこで生活するんだ。だから、実験に執着してはいけ ない。 (0:28:05)
そしてとにかく、とても実用的だ。リックの顔しか見えないのに、画面の下にリチャードがいる。Skypeの小さなウィンドウね。そう、この写真はこの距離であなたがどんな風に見えるかを見せてくれていて、この写真はこの距離で私がどんな風に見えるかを見せてくれているんだ。 (0:28:27)
でも、ここには私の姿はない。だから、私たちはそれをface-to-no-faceと呼んでいる。ただそうなんだ。僕は今、君のために容量があるんだ。目に見えるものだけでなく、感じたり、聞いたり、感じたりするもの、それはとても豊かなんだ。 (0:28:48)
今おっしゃっていたように、動きというのは、私たちは歩き回ったり、あるいは車に乗ったり、あるいは風景が動いたり、あるいは他の国に旅行したりする。
(0:29:08)
そう。そう、今ギーターの一節を考えているところなんだけど、それは、このすべてが浸透している不滅であることを知れ、というものなんだ。私たちが見ているものはすべて、この不滅の存在によって貫かれていて、それは動かない。だから、もし私たちが自分自身をそうだと知っているなら、私たちは動かない。 (0:29:36)
私たちは動くものに浸透しており、物事は私たちを通して動いているように見えるが、私たちを通して動いているわけではない。そしてこれは、今ここで検証可能なことなのだ。 (0:29:42)
ただ注意を払うだけだ。ええ、私は60年代に瞑想を学びました。というのも、私たちが花を見たり何かを経験するとき、脳や神経系ではそれに対応する活動が起こっていて、それによって私たちはそのような経験をすることができるのです。 (0:30:17)
もし私たちが、世界に対する経験の根本的な変容について話しているのであれば、神経系の機能の根本的な変容を意味していることになる。実際、瞑想の実践を通して、私は長年にわたって、知覚する能力を妨げたり、曇らせたりしていたものが一掃されるのを経験してきた。 では、見ることについても同じようなことに気づきましたか?生理的な変化の引き金になりましたか?そうですね、今も続いています。 (0:30:53)
それはあらゆるレベルで人に影響を及ぼし、人はその果てにたどり着くことはないと思いますが、それは深遠で、深く変容するものです。その兆候のひとつは、ただ直接体験することだ。 できることなら、4つのステージについて簡単にレジュメを書きたいんだけど。 いいね。ええ、お願いします。そうですね、そうすることで、文脈が見えてきますから。 (0:31:25)
さて、4つの主な段階があります。赤ちゃん、子供、大人、そして先見者。つまり、赤ん坊は頭がない状態です。あなたはそこにいて、世界に対して空間があり、鏡を見て、そこにある顔と同一視せず、開いていて、構築されていて、頭がない。そしてあなたの感情や思考は、それがどんなものであれ、どんなに発達したものであれ、視界の中で起こっているようなものです。今、あなたは言葉を発する前なので、それに名前はつけませんが、そこにいるのです。 (0:31:53)
これは非常に感染力が強い。赤ちゃんと一緒なら、頭を使わなくてもいいという許可がもらえます。 あなたは大人と話していて、そして赤ちゃんに振り返り、そして振り返る...。つまり、赤ちゃんが、頭をなくしていいという許可を与えてくれるのだ 。私たちは皆、この状態から始まりました。自分が小さな一人の人間であることを知らずに、自分は一人の人間であり、世界のための空間なのです。ですから、第二段階は子供なのです。 (0:32:27)
さて、これらの用語で言うところの成長とは、自分を外から見ることを学ぶことであり、自分には外見があることを理解することであり、鏡は自分がどのように見えるかを見せてくれる。だから、鏡に映った自分の顔を識別することを学び、他人から言われた自分を識別することを学ぶ。あなたは男の子、あなたは女の子、あなたはリチャード、あなたはリック、あなたは...というように。 (0:32:48)
そしてあなたは、鏡に映ったこの箱の中に入ることを学んでいるのです。赤ちゃんのときは、感覚も思考も定位していません。成長するということは、その箱の中に入って、自分の思考をその箱の中に取り込み、自分の感覚を定位させることを学ぶことです。でも、多くの場合、あなたはそれを忘れてしまうのです。 (0:33:13)
それで、あなたは箱の中に半分入っていて、半分はまだ入っていない。でも、入りたい、仲間に入りたい、そうしないと機能しない。そしてまた子供たち、その意識状態は非常に感染力が強い。リチャード、子供たちと一緒に遊ぼうよ。遊べるし、クリエイティブになれるし、何かを作り上げることもできる。 (0:33:39)
飛行機にも列車にもなれる。ほら、私はまだひとつの枠に固定されていない。でも大人になるにつれて、私たちは鏡に映った自分の姿を完全に識別することを学ぶ。大人になった証は、鏡を見て、何も考えずにそれを自分だと思うようになることだ。 (0:34:01)