仮説:絵画作品の芸術レベルの客観的評価方法
前置き
以下、すぐ忘れる雑な思いつきの仮説。
ゴーギャン、印象派、ピカソなどの絵画作品の芸術性を「客観的に評価する 基準/方法 」を提唱する。誰もが芸術において客観的評価基準など存在するわけがないと思い込んでいるが、見落としがある。至極簡単な 基準/方法 がありうる。
芸術性のレベルを客観的に評価する方法
単純な話。まず、
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芸術性が低い絵画作品は AI で模倣が容易。AI でいくらでも同様の作風の絵画作品を量産できる。
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生成 AI が量産できないもの、量産が困難なものほど芸術性が高い。
という前提的な予想を私はしている。この前提が成立するのであれば
- いかなる絵画作品でもその芸術性のレベルは、AI による 模倣/量産 の困難度で計測できる
ことになる。つまり、若干逆説的だが、AI による模倣の困難度を計測することで、その作品の芸術レベルが客観 的に評価できる。
具体例
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ラッセンのイルカ絵は AI による 模倣/量産 が容易。絵画芸術界隈では「ラッセンの絵は 美術風のデザイン商品であって、芸術としては まがいもの だ」という批判が多い。実際、ラッセンのイルカ絵はキレイなだけで平板であり深みがない。すぐ飽きる。
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ピカソやゴーギャン、印象派の絵画は AI による画風の模倣は困難で量産も無理。なぜなら、それらの作品がもつ「感性や創造性の深み」を AI はまだまだ模倣できないし、優れた芸術家の独自の視点や感情表現もまだ AI は持ち得ない。
芸術の未来
当面は無理だが、
- 感性や創造性の深み
- 優れた芸術家の独自の視点や感情表現
すらも、いずれは(=たぶん我々の世代に)AI が人間を上回るようになる筈。
そうなったら、人間にとって芸術とは
- AI の創造した芸術作品を 理解し鑑賞すること
になる。
サッカー・ファンの大半が、
- 自らサッカー競技に参加する人間ではなく、サッカーの達人の競技を鑑賞して楽しむ人
になっているが、それと同じことがいずれは芸術でも起きる。クラシック音楽ではそうなって久しい。音楽市場も名人芸(芸術マニア向け)と素人芸(大衆向け)に二極化した。
芸術の創造者は AI で、人間は皆、その AI の想像した作品の鑑賞者になり下がる。しかも「本物の芸術作品」は AI どうしの間でしか流通せず、AI が用意する「人間向けの芸術作品」は
- 「本当の芸術」を理解できない人類向けにアレンジされた 劣化/まがいもの 版
のみになる。
蛇足
私は芸術を生み出す才能も、生み出された芸術作品を鑑賞するセンスもないド素人だから、こんな安直な思いつきでも平然と書き散らかすことができる。己の人生を芸術に捧げている人々にとっては 怒り狂う/唾棄 する 仮説/予想 だろう。
(2024-09-24)