Joseph Burkes : "Mission Rahma" の UFO/ET 召喚の歴史
前置き
"Mission Rahma" はペルーで「UFO/ET 召喚活動」を実施していた民間組織(既に分裂、解散)。この組織に詳しい Joseph Burkes がその歴史を語っている。
情報源としたインタビュー動画は過去記事でも取り上げたが、今回は AI で整理した。末尾で私の判断を述べる。
目次
- 概要
- 詳細
- 時系列
- 主要関係者
- Zendra(異次元空間ゲート)体験
- 地球は銀河系で最も偉大な催し物で、地球が他の文明進化を促進
- 銀河連邦
- 組織の内部対立、そして分裂
- 1974年の集団での Zendra 体験
- 情報源
- 文字起こし
- 私の判断:"Mission Rahma"は影響力の高い個人が作り上げた宗教
AI 整理
概要
ラマ・ミッションの起源と進化
このソースは、「エンゲージング・ザ・フェノメノン」というインタビューからの抜粋であり、ホストのJames Iandoliが、ゲストのJoseph Burkes博士と共に、ミッション・ラマというペルーのコンタクトグループの起源と活動について概説しています。
このグループは1974年に設立され、自動書記やテレパシーを通じて地球外生命体と接触したとされています。初期の成功と地球外生命体との遭遇のプロトコル、そしてこれらの活動が後のCE-5イニシアチブにどのように影響を与えたかが議論されています。さらに、ミッション・ラマの活動における精神性、ベジタリアン主義、そしてガニメデのモレラン基地とされる場所への瞬間移動体験についても詳しく説明されています。
音声対話
詳細
詳細ブリーフィング資料:ラマ・ミッショ ンの起源と進化、地球外生命体とのコンタクト
このブリーフィング資料は、ジェームズ・イアンドーリとジョセフ・バークス医学博士のインタビュー「「ラマ・ミッション」の起源と進化」および「地球外生命体とのコンタクト:ラマ・ミッションの旅」の転写に基づいています。
- ラマ・ミッションの概要
ラマ・ミッションは、1974年にペルーのリマで始まったコンタクト活動を行うグループです。米国におけるCE5(Close Encounters of the Fifth Kind)活動に類似していますが、その20年前に開始されました。「近代コンタクト活動の歴史」における重要な存在であり、現在では世界中に数万人の活動家を擁する世界的ネットワークに発展しています。
- ラマ・ミッションの起源と初期の経験
創設者シクスト・パス・ウェルズ:
- 彼の父はUFO研究家で、会議を組織したり講演したりしていました。
- シクストは、32階級のフリーメイソンによるテレパシーによる非人間型知性体とのコミュニケーションに関する講演に参加し、その技術を学びました。
- 彼はハタヨガの実践者であり、瞑想と集中に慣れていました。
- 学んだ技術を実践した結果、自動書記を開始し、非人間型知性体からのメッセージを受け取りました。
最初のコンタクトと物理的遭遇:
- 自動書記を通じて、知性体は特定の日にち、場所、時間での遭遇を指示しました。
- 1974年2月7日、シクストとその家族、友人がチリカの砂漠の指定された場所へ行くと、円盤状のUFOが出現し、光を放ちました。参加者は驚き、逃げ出しましたが、これは彼らの初期のコンタクト体験の始まりでした。
- この遭遇後、テレパシーによる指示で、参加者たちは精神的な準備、瞑想の強化、ベジタリアン食の実践を求められました。「彼らは霊的に自らを築き、さらに瞑想し、次の遭遇のために適切に準備する必要がある、とテレパシーで指示された。」
「プログラミングされた遭遇(Programmed Encounters)」:
- ラマ・ミッションは「プログラミングされた遭遇」という言葉を用いており、これは「人間が非人間型知性体からメッセージを受け取る、手はずの交流」と定義されています。
- 初期には主に自動書記を通じて行われ、特にサイ能力の高い活動家は「アンテナ」と呼ばれました。
- 複数の「アンテナ」が独立して同じメッセージ(遭遇の時間と場所)を受け取った場合、その情報は信頼できると判断されました。これは米国のリモートビューイング・プログラムにおける情報検証手法と類似しています。
- 初期の問題と教訓
プロトコル違反:
- シクストの父が、許可なく友人を大勢連れてきてパーティーのような雰囲気を作り出し、UFOが接近した際にパニックを引き起こしました。
- 「彼らはテントを張り、キャンプをし、ビールを持ち込み、合意に違反してパーティーのような雰囲気を作り出した。…UFOがついに上空を飛行したとき、人々は全く準備ができておらず、パニックに陥り、テントに飛び込んだ。」
- この出来事から、コンタクト活動は「プロトコルに従って、規律と高い意図、非常に高い理想を持って行われる必要がある」という教訓が得られました。
- 精神的発展と「ゼンドラ(Zendra)」体験
修行の強化:
- 最初の失敗の後、ラマ・チームは絶食や厳格なベジタリアン食など、精神的な修行を強化しました。「彼らは何日も前から断食するように指示され、非常に厳格なベジタリアン食に切り替えた。」
- これによりチャクラが開き、精神的な発展が促進されました。バークス博士は、ラマの人々と会った時、「まるで僧侶のようだった」と述べています。
シクストのゼンドラ体験とガニメデへのテレポート:
- 1974年7月、シクストはチリカの砂漠で仲間と離れ離れになった際、光の中から現れた「アクスルト」と名乗る存在と遭遇しました。
- アクスルトは彼を「次元のポータル(ゼンドラ)」に通すと説明し、シクストは体が溶けるような感覚の後、木星の衛星ガニメデにあるとされるET基地「モアランド(Moreland)」にテレポートされました。
- モアランドは数千年前に採掘のために設立された基地で、「推定で100万人の地球外生命体、人間型もそうでないものも、協力して宇宙全体でコンタクトを推進していた」とされています。
- モアランドの社会はユートピア的で、人々は厳格なベジタリアンで、1日4時間しか働かず、貨幣制度はなく、多くの時間を精神的な追求と瞑想に費やしました。
- シクストはモアランドで数時間過ごしたと感じましたが、チリカに戻ると仲間たちは彼が15~20分しか離れていなかったと語りました。これは「時空の歪み」の要素を示しています。
集団ゼンドラ体験:
- その1週間後、ラマ活動家のグ ループ全体がガニメデにテレポートされ、24人の長老からなる評議会と面会したと報じられています。この評議会の象徴(ダビデの星と三叉槍)は後にラマ・ネットワークのロゴとなりました。
- 「バーチャル体験モデル」の提案
バークス博士は、ラマの人々が経験したテレポートが、必ずしも物理的な移動であったとは限らないという「バーチャル体験モデル」を提唱しています。
第1種バーチャル体験(VE1):
- 「空中に映し出されるホログラフィックな投影で、物体のように見えるが固体の構造を持たない。」
- または、「目撃者の後頭葉に投影される画像で、ある人はUFOを見るが、他の人は見ない。」 第2種バーチャル体験(VE2):
- 「個人の意識が知性体によって捕らえられ、まるで映画『マトリックス』のように、現実よりも現実的に感じられる一種のバーチャルリアリティ。」
- この遭遇は物理的な現実ではなく、「意識のレベルで相互作用がある一種のマトリックスのような現実」で起こります。体験者は宇宙船に乗ったと信じるが、実際にはどこにも行っていないと説明されます。
第3種バーチャル体験(VE3):
- 「カップルが夜に車で家に帰り、ベッドに入り、朝目覚めて『なんてことだ、あの遭遇はすごかったね、UFOが上空を飛び、時間が失われたんだ』と言うようなバーチャルな記憶。」
- この知性体は「人工的な記憶、あるいは植え付けられた記憶を作り出す能力を持っている」とされます。
バークス博士は、ラマの「ゼンドラ」体験がこの「バーチャル体験」の一部である可能性を示唆しています。しかし、ラマの人々がその経験を真実として受け止めたことに疑いはありません。「ラマのこれまでの実績を考えると、グループでの遭遇の物語を持って帰ってきた人々は、それが彼らが知っている真実だった可能性が高いと私は考えている。それは作り話ではなかった。」
- ラマ・ミッションの拡大と直面した課題
世界的ネットワークへの成長:
- ラマはペルーの国内で大きな成功を収め、その活動は国内外のメディアで報じられました。
- 「南米やスペインのテレビ局がこれらの遭遇の一部を撮影した。」
- スペイン語で多くの本が出版され、ラマは世界的ネットワークへと成長しました。一時は旧ソ連、エジプト、ヨーロッパ、南北アメリカなど、世界中で活動チームがあったとされています。
- 1993年には、ラマ・ネットワーク全体で「地球外知性体との25,000回以上の個別の遭遇があった」と主張されました。現在では「おそらく数十万件の個別のコンタクト体験が発生している」と推定されています。
内部の対立と資金問題:
- 活動が拡大するにつれて、必然的に「確執が生じ、問題が起こり始めた」とされています。
- 資金集めに関連する対立や、シクスト・パス・ウェルズが話を誇張しているという告発などがありました。これはCE5ネットワークの指導者であるスティーブン・グリア博士にも同様の問題が見られたとバークス博士は指摘しています。
- 「大量のお金があるところには、お金を巡る争いや、広報や注目を巡る争いが起こる。」
- 他のコンタクトグループとの関係(CSETI/CE5との比較)
CE5活動との類似性:
- ラマ・ミッションは、1990年代にスティーブン・グリア博士が設立したCE5イニシアティブと「本質的に同じこと」をしており、しかも「グリア博士がCE5イニシアティブを公に開始する20年前に始まっている」点が強調されています。
グリア博士のラマ・ミッションへの無言:
- バークス博士は、CE5ネットワークの活動家として、ラマ・ミッションの存在と活動をグリア博士に伝えたにもかかわらず、グリア博士が公にラマの活動に言及しなかったことに不満を表明しています。
- 「私は彼が一度もラマ・ミッションに言及するのを聞いたことがなかった。」
- バークス博士は、その理由をグリア博士の「自らの努力への過度な集中」と「過剰なプライド」にあると推測しています。「彼は、彼自身のニーズに単一的に焦点を当てていた。私は彼が当時も今も過度なプライドに苦しんでいると信じている。」
ラマと北米のコンタクトネットワークの連携:
- バークス博士自身は、CE5の「指導部とは別に」、ラマと北米のコンタクトネットワークとの間の連携を築く上で小さな役割を果たしたことを喜んでいます。
- フェルナンド・リマコとの出会いとパイティティ(Paititi)の遭遇
フェルナンド・リマコの背景:
- ラマの重要な活動家の一人で、元歯科外科医。
- ペルーのテロ組織「センデロ・ルミノソ」による娘の誘拐未遂事件をきっかけに米国に移住しました。
- 米国でもラマの活動を続け、特に文書化されていない労働者(undocumented workers)であるコンタクト活動家を支援していました。
パイティティへの旅:
- 1990年、フェルナンドはカリフォルニア州で、空飛ぶ円盤と「パイティティ」という言葉の繰り返しのテレパシーメッセージを体験しました。
- その後、世界中のラマ活動家が同じ「パイティティ」に関するメッセージを受け取り、ペルーでの大規模な国際会議で、未開のジャングルにあるとされる「パイティティ」での遭遇が計画されました。
- フェルナンドを含む6人の活動家が選ばれ、道のないジャングルをガイドと共に、また直感を頼りに数日間かけて旅しました。
- この旅では、ビデオカメラのバッテリーがすべて消耗したり、ガイドが先住民族を恐れて途中で引き返したり、猛毒のヘビに囲まれて眠ったりするなど、多くの困難に直面しました。
先住民族との出会い:
- 彼らは武装した先住民族の猟師たちと出会いましたが、敵対的ではなく、友好的でした。
- 「ETたちは、テレパシーでこれらの猟師たちの夢の中に、都市の人々が来るので助けてあげるべきだと伝えていた。」
- 猟師の一人は平和の証として、自分の弓と矢をフェルナンドに贈りました。
パイティティでの遭遇:
- パイティティに到着する前日、一行は全員が体外離脱体験をし、意識レベルで宇宙船に乗り込みました。
- パイティティに到着した翌日、フェルナンドを含む全員が「青い光線」によって宇宙船の内部に引き上げられました。
- 彼らは「偉大な白き同胞団(Great White Brotherhood)」の代表 者たちと友好的な交流をしました。この名称は、彼らが白いローブを着用し、体が光に包まれていたためです。
- この体験の身体的な要素を示す逸話として、参加者の一人が恐怖のあまり失禁したという話が挙げられています。「もしこの出来事が記述どおりに起こったのであれば、そこには明確な身体的要素があった可能性が高い。」
- ラマの宇宙論(Cosmology)
ラマ・ミッションの活動家がETから受け取ったとされる宇宙論は、以下のような中心的なテーマを持っています。
地球の進化:
- 地球は「急速な変化の時期」にあり、「技術的野蛮主義のレベルから、物質的発展だけでなく精神的発展のより高い段階へと移行している」とされます。
- ETは、地球が重要な進化の時期にあると認識しており、この進化を支援することを「彼らの神聖な義務」と考えています。
振動(Vibration)と精神的発展:
- 高度な技術と精神性を持つETは、より高い「振動レベル」が必要な領域に生息しています。
- 地球の振動レベルに降りてくることは、個々のETの寿命を縮めます。「我々の振動レベルまで降りてくることは、個々のETの寿命を縮める。」
- ラマの人々が精神的発展を重視し、ベジタリアン食や瞑想を実践するのは、地球の「振動」を高めるためです。
銀河連邦と多様なET種:
- ETは地球の「振動を高め、意識を拡大させる」ためにここにいるとされます。
- 「銀河連邦」の存在が示唆され、宇宙全体の文明が「文明の進化」という「梯子の段」を登るにつれて、他の文化を支援する道徳的責任を負うとされます。
- 地球は「銀河で最大のショー」であり、「地球は実は精神的なダイナモである」とされています。地球が次の進化の段階に進むことで、地球を支援する他の文明も進化の梯子を上がることができると考えられています。
ETからのメッセージ:
- ETからのメッセージは「協力と連帯、兄弟愛と姉妹愛」を強調しています。「一つの惑星、一つの人々」という視点。
- 彼らは宣伝を求めず、むしろ「惑星の諜報機関がコンタクトネットワークを数十年間監視している」ため、目立たないように指示されています。
- バークス博士は、ETが軍事組織や多国籍企業、宗教狂信者といった「地上のエリート」とではなく、「平和を愛する人々」とコンタクトを取ろうとしていると示唆しています。
- 真のコンタクトのためには「ある程度の精神的変容」が必要であり、「エゴの悪影響を克服する」こと、「私たち自身の運命だけでなく、私たちの惑星の運命、そして宇宙全体の知的生命体の運命と一体化する」ことが求められています。
- まとめと重要性
ラマ・ミッションは、現代のUFO現象とコンタクト活動の歴史において、CE5イニシアティブに先行し、独自の深い精神的・哲学的基盤を持つ、非常に重要かつ広範なネットワークです。その活動は、単なるUFOの目撃に留まらず、非人間型知性体とのテレパシーによるコミュニケーション、精神修養、そして人類の集合的な意識と進化に関する壮大な宇宙論を包括しています。その成功と課題は、コンタクト活動の複雑さと、それに伴う倫理的・精神的な要求を示してい ます。
ラマ・ミッションの主要イベントのタイムライン
1968年
- 1968年メキシコシティオリンピックとデモの鎮圧: ジョセフ・バークス医師がメキシコ滞在中、政府に対する大規模デモが発生し、トラテロルコ広場で軍が非武装の群衆に機関銃を向け、約400人の学生や労働者が殺害されるという悲劇的な事件が発生。バークスはラテンアメリカの社会変革運動に深く関与するきっかけとなる。
1969年
- グアテマラへの渡航: ジョセフ・バークス医師が反ベトナム戦争、公民権、労働運動の活動家としてグアテマラを訪れ、ラテンアメリカの若者の社会正義を求める闘いに共感する。
1974年
- 1月22日 - ラマ・ミッションの始まり(テレパシーコンタクト): シクスト・パス・ウェルズ(当時10代後半から20代前半の大学生)が、父親が主催するUFO会議で32階級のフリーメイソンによるテレパシー通信の講義に感銘を受ける。自宅でハタヨガで培った瞑想と集中力を生かし、自動書記を開始。最初のセッションで「オキサルト」と名乗る非人間的知性とのコンタクトを確立。オキサルトは自身をガニメデ(木星の衛星)からの地球外生命体と主張。
- 2月初旬 - 家族・友人とのセッション: シクストが自宅で家族や友人と再び自動書記を行い、オキサルトとのテレパシー通信を実演。参加者はオキサルトに質問し、シクストを通じて回答を得る。ある懐疑的な女性の読んでいる本の名前とページ数、そしてそれに対する感情を正確に言い当て、非人間的知性との真のテレパシー通信であることを確信させる。
- 2月7日 - 最初の「プログラムされた遭遇」: オキサルトとの通信を通じて、リマから南へ約60km離れた砂漠地帯のチルカで物理的な遭遇が設定される。シクストを含む7人の若者(ヨガ実践者でベジタリアン食を摂る)が指定された場所に向かう。午後9時頃、ハンバーガー型または円盤型のUFOが現れ、約15分間ホバリングし、光線を照射する。しかし、彼らは動揺し、UFOは精神的な準備不足を指摘し、今後の遭遇のためにより深い瞑想と精神的成長を促す。
- 2月14日 - 失敗した「プログラムされた遭遇」: 前回の遭遇で指示された精神的準備とネットワークの拡大を控えるというガイドラインに反し、シクストの父ガルシア・ウェルズが友人たちを連れて現場に現れる。彼らはテントを張り、ビールを持ち込み、パーティーのような雰囲気を作り出す。UFOは飛来するが、参加者はパニックに陥り、遭遇は失敗に終わる。この経験は、コンタクトワークにおける規律と高い意図の重要性を強調する。
- 数ヶ月後(7月頃) - シクストの単独転送遭遇: ラマチームは以前の失敗から学び、断食や厳格なベジタリアン食、瞑想を強化して精神的な発達を促進する。数ヶ月後、チルカの「ラ・ミナ(鉱山)」で新たな遭遇が設定される。シクスト・パス・ウェルズは仲間と離れ、光の中から現れた「オキサルト」と再会する。オキサルトによって「ゼンドラ(次元のポータル)」を通じて、木星の衛星ガニメデにあるとされる地球外生命体の基地「モアラン」に転送される。モアランは採掘のために数千年前に設立されたとされるユートピア的な社会で、何百万もの地球外生命体が居住し、1日4時間の労働、金銭の不在、精神的追求に重点を置いた生活が特徴。シクストはそこで数時間過ごしたと感じるが、地球ではわずか15~20分しか経過していなかった。
- シクストの転送遭遇の1週間後 - グループでの転送遭遇: シクストの単独遭遇から1週間後、ラマの活動家グループ全体が再びチルカのラ・ミナからガニメデのモアラン基地に転送されたと報じられる。彼らはそこで24人の長老からなる評議会に面会し、その会議室の壁には中国語の表意文字のようなシンボルが描かれていたとされる。メインステージの上にはダビデの星と三又のシンボルがあり、これが後にラマ・ネットワークのロゴとなる。
1970年代から1980年代
- ラマ・ミッションの拡大と成功: ラマ・ミッションはペルー全土、そして世界中に拡大。ラテンアメリカやスペインのテレビクルーが遭遇を撮影し、多くの書籍が出版される。最盛期には旧ソ連、エジプト、ヨーロッパ、南北アメリカなど世界中で活動家チームが活動していたとされる。
1990年頃
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フェルナンド・リマコの米国移住: ペルーでのセンデロ・ルミノソによる娘の誘拐未遂事件を受け、フェルナンド・リマコは米国に移住。言語の問題から歯科医としての再認定は難しいが、技工士として生計を立てる。
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1990年代初頭
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北米コンタクトネットワークの形成: CE-5イニシアチブが発足し、北米でコンタクトワークのネットワークが形成される。