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臨死体験

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臨死体験や OBE で 360度の視野を体験したという証言が生まれた理由(+追加)

· 約12分

履歴

(2024-07-25) markdown 形式に合わせて書式変換。ついでに説明を補足。

(2022-06-10) 作成。 仮説:臨死体験や OBE で 360度の視野を体験したという証言が生まれた理由 (2022-06-10)

前置き

Mike Clelland の

臨死体験や OBE では 360度の視野を体験すると言われる。この現実世界には存在しない、鮮やかな色もあちらの世界の特徴だ。

という発言で、タイトルの仮説を思いついた。じきに忘れる筈なので記録しておく。

仮説

結論を先に述べる。

  • 映画の発明と、それに伴う革新的な映像表現が「臨死体験や OBE における 360度の視野」の証言をもたらした。

映画のカメラ・ワーク技法の進化によって、以下のような現実には不可能な筈の映像体験に一般人も慣れ親むことになった。

  • (a) 神の目線や他者の目線から情景を視ること
  • (b) 視界の一部に一気に迫ってズーム・インすること
  • (c) 自在に目まぐるしく切り替わる映像シーン
  • (d) 状況を俯瞰したシーン

通常の夢とは違って、臨死体験や OBE の体験者は「自分は肉体離れた存在になった」と思い込んでいる。なので肉体の制約を離れた映像体験として、それまで慣れ親しんだ上述の映画のカメラ・ワークを無意識に流用することになる。

臨死体験や OBE の体験者は やがて a-d の映像体験にある程度慣れ、仮想的なカメラ視点を高速かつ自在に操れるようにもなる。このカメラ視点のカメラは物理的に存在せず、仮想的なものだから、大脳視覚野の映像処理能力の範囲でいくらでも高速・自在に視点を切り替えることができる。

この映像体験を覚醒後に思い出した時、それはあたかも「360度の視野」として想起されることになる。なにせ、周囲を(体や首を巡らせることなく)一瞬で見渡せるのであるから、あたかも「360度の視野」と感じる。厳密に言えば「同時に」ではなく「一瞬で」なので、同じではないが、そのように錯覚する。

さらに、覚醒後に思い出した情景には「臨死体験の最中や OBE の最中」に見た光景だけではなく、覚醒後に無自覚のまま創作・想起された光景が混然一体となって混じり込み、区別し難いものとなる。

その「創作・想起された光景」には、映画で慣れ親しんだ a-d の映像効果が自ずと反映されることになる。

つまり、映画の映像表現はそれほど影響力が大きい…ということでもある。

反証するには…

この仮説が正しければ、「臨死体験や OBE で 360度の視野を体験した」という証言は 19世紀後半までは無かった(or 皆無とまではいかなくとも一般的ではなかった)筈。そのような証言が映画が発明される前にあれば(or 一般的であれば)、私の仮説は反証される。

補足

この仮説が正しければ、強い催眠暗示によって a-d の映像体験を生み出し、それによって「360度の視野を体験した」という証言が得られる筈。


OBE や臨死体験中の鮮やかな色について

これについては下の過去記事で詳しく述べた。

特殊な意識状態(=深い瞑想、OBE, NDE, DMT/LSD 摂取、高等魔術による高度な意識操作の技法…などがもたらす非日常的な意識状態)で見る情景は、とても印象深く、色鮮やかに見える。たとえば、大沼忠弘は次のように表現している。

これは澄んだ、透き通った、実に精妙、繊細な光と色の交錯から成る視覚像で、顔料の色彩や自然光、人工光の色彩とは全く次元を異にしている感じである。一度この光に照らされたら、地上のあらゆる宝玉、絵画、建築の美もこの光景の無骨な模造品でしかないことを悟るだろう。

大沼 忠弘 『実践カバラ―自己探求の旅』人文書院 1988-02、250~264頁

ref: メモ:薬物と神秘体験と光 (+追加) (2016-04-01)

特殊な意識状態で見る情景が色鮮やかなのは、その世界が精妙だからだと言われてきた。精神世界の定説では日常世界は粗雑で、高い意識状態でのみ到達できる世界(アストラル世界の類)は精妙だとされてきた。だがそれは真逆。

最初に DMT や LSD を経験すると誰もがその色と光の鮮やかさに驚愕する。その鮮やかさに比べると日常世界のそれはまるで白黒だ、死んだ色だ、偽物の色だと感じる。この実感自体に嘘はないが、実際のところは、おのぼりさんが物珍しさに眼を眩まされているようなもの。

DMT 摂取で見る情景も Preston Dennett が OBE で感嘆した情景もネオンの如く派手なだけ。本当は日常世界の色の方が遥かに精妙。幼児や精神がまだ幼い人間は派手な色、純色に惹かれるもの。彼らには利休鼠の色の深みが理解できず、派手なネオンのような光や色に惹かれる。サイケデリックな絵画に惹かれているようでは、墨だけで描いた白黒の禅画のもつ深みは理解できない(禅を全否定する私が言うのも何だが…w)。

特殊な意識状態で見る情景が色鮮やかなのは、それが粗雑な造り物だからであって、その世界が精妙だからではない。精神世界の定説は転倒している。

これをわかりやすく音で喩えると…。特殊な意識状態で見る光と色は、純音、つまり歪を全く含まないきれいな正弦波に相当する。純音は歪を全く含まないのでこれ以上の澄んだ音はない。純音は自然界には存在しないし、一般の楽器でも生み出せない。楽器が出すどの音階の音(たとえば A4 のラ音)も、無数の異なった純音成分が含まれている。つまり純音からは程遠い。

だが、純音には人を惹きつける艶も響きも音色も一切が欠けている。人の歌声、バイオリンの絶妙な艶、ピアノの和音の響きこそが「精妙な音」であり、純音は造り物の「死んだ音」でしかない。

これと同じことが色と光でも言える。DMT や LSD で見る光と色は、特殊な意識状態で見る光と色は、純音のもの珍しさでしかない。ど派手なので目を惹き、自然界に無いから物珍しいだけ。

本来であれば、やがてその単調さに飽きる筈だが、特殊な意識状態は永続せず一時の体験でしかないゆえに、慣れることがない。それゆえ、空虚な光と色を精妙な幽玄な世界の実在だと誤解して飽かずに生涯それを追い求め続けることになる。

このことは UFO や Bigfoot を実在だと信じて生涯追い求めてきた Butch Witkowski の人生を思い起こさせる。

Butch Witkowski もそうだが、彼らは人生の大半を UFO/超常現象/オカルト の追求と解明に費やしてきた。その謎の正体が何も掴めぬまま、その解明の緒すら掴めぬまま人生を終えることになった。それは彼らにとって、とても心残りなことだが、一方で謎が謎のままであり続けることが彼らの「救い」にもなっている。

ref: 追悼:Butch Witkowski が(心臓疾患で)死去。享年 74 (2022-01-14)

ref: Preston Dennett : OBE 中に亡き母に遭遇、母の案内で精妙な死後の世界を訪問 (2022-02-22)

(2022-06-10)