仮説:臨死体験者や大悟/解脱者に「死の恐怖が無くなった」本当の理由
前置き
臨死体験者が異口同音に語るフレーズがある。それは
- 「死の恐怖」が無くなった
というもの。そしてその同じフレーズを古今東西の
- 修行によって高い境地に至ったとされる者や神秘体験者、
- 大悟や解脱した人物
が証言している。彼らの全てが口真似でそう証言しているとは思えず、おそらく彼らにとっての率直な本音なのであろう。
では、臨死体験者や大悟/解脱者が「死の恐怖が無くなった」のはなぜか? たぶん、その当人を含め、誰もが何となく漠然と
- 死によって自分が滅びることは無いと知った、
- 「凄い胆力」がついた、
- 死の本質を深く洞察できた、
- 何か超越的な認知能力によって死を超越した
から、彼らは「死の恐怖」が無くなったのだろうと見なしている筈。
だが、そうではなく、もっと別の具体的な臨床データに基づいた明確な理由があり、その理由を以下で私の仮説として提示する。
具体的な臨床データ
脳外科医の 安芸 都司雄 が著書の中で興味深い臨床事例を記載しているので、まずその箇所を引用する。
そして、その引用箇所はこのサイトの(UFO と並ぶ)主要テーマでもある
- 臨死体験とは何なのか?
- 宗教的な大悟、解脱とは何なのか?
に決定的なヒント、参考になりうると思える。
引用
あるいは意識障害を示す患者を観察していて気になったことに以下のことがある。
そしてこの場合も、意識障害が軽度の例を観察している際に感じたことである。しかも意識障害がさらに進行してもあてはまることは勿論のことである。そしてそれは、意識障害を示す患者の殆どの者は、死への恐怖や不安を抱くことなく、それらの感情が消失しているということである。
意識障害を示す患者が死への恐怖や不安を抱いていると、我々が観察できることはまずないといってよい。しかし意識障害を示さない患者の殆どは、自分が死に直面していると感じたり、死に直面していることを告げられるならば、死への恐怖や不安に強く襲われる。
例えば意識清明な患者が、「癌」であるとか、「脳腫瘍」であるとか医師から宣告されるならば、患者は目の前が真っ暗になってしまう。今までの生活が根底から崩れ去ってしまうと感じることによって、患者は陰欝な気分に陥る。そしてそれからこの意識清明な患者は死への恐怖におののき、死への不安に襲われたままとなってしまう。
彼は今ま で生活していたこととは違って、日々生きた心地なく生きてゆくようになる。患者はまさに今までの患者ではなくなってしまうことに気付き、狼狽し、そして死への恐怖や不安を抱く。勿論さしあたり患者は今迄全く何の心配もなく、ただ日常生活に埋没して生活してきたのであり、日々の出来事に対してそれ相応の恐怖や不安を抱いたことはあるにしても、患者が患者でなくなってしまうことに気付いて、どん底の気分に陥ることはまずなかったのである。
そして死への恐怖や不安に駆られることも、さしあたりないままで生きてきたのである。他人の死によって、一時的にそのような気分に陥ることはあったにしても、それは一時的なことでしかなく、又程度も軽かった。所詮他人の死はよそ事でしかなかった。
しかしさしあたりそのように生きてきただけであって、死が患者の全面に立ちはだかっていると感じるや、患者はどん底の気分に陥り、そして絶えずそれらの感情を抱くようになる。このように意識清明である患者は、死に直面すると感じるや、死への恐怖や不安を抱くのである。さしあたりそれらの感情を抱くことはないにしても、場合によってはそれらの感情を抱くのであり、しかもそれらの感情を抱くことができるのは、意識清明な場合に限られる。
患者は意識清明であるからこそ、病気に苦しみ、恐れ、不安に陥る。しかるに患者が一旦意識障害に陥るや否や、意識障害が軽度であっても多くの場合、彼は死への恐怖や不安を抱いているようには観察されなくなってしまう。
意識障害がさらに進行するならば、勿論のことである。つまり『本当にそして最終的に』死に近づ く際には、彼は死への恐怖や不安といった感情を一切抱かなくなってしまうのである。まさに患者は堂々と死を迎えることになる。そしてもし意識清明な状態に回復するや、彼は再び死への恐怖や不安を抱き、狼狽するのである。そして再び意識障害に陥るや、彼はやはり死への恐怖や不安を抱かなくなってしまう。
意識障害に陥るや、彼にとって死はなにものをも意味せず、しかも死への恐怖や不安はどこかに吹き飛ばされてしまう。彼はさしあたり死への恐怖や不安を抱かないのではなく、絶えず抱くことがない。意識障害に陥ることによって、彼はそれらの感情を抱くことに全く関心を抱かなくなる。だから意識は恐怖や不安を抱くことに関しても、深く関係していることになる。意識は死への恐怖や不安を抱くことを前提することに関与している。
では意識はこのように感情を抱くことに関しても、重要な働きをもっているのであろうか。死に本当に向かう患者は、死への恐怖や不安に襲われることは決してない。そして死への恐怖や不安を抱くことのできる意識状態と、全く抱くことのできない意識状態との間に、意識に関してどのような差があるのであろうか。
以上が意識障害を示す患者を観察していて不思議に感じたことである。
出典
安芸 都司雄、『意識障害の現象学 上巻』、世界書院、1990-10-30, pp. 10-11
仮説:彼らに「死の恐怖が無くなった」本当の理由
まず、これまで過去記事で幾度も述べてきた従来の私の仮説は
- 臨死体験者も、大悟/解脱 者も、神秘体験者も、なべて
- 脳の器質的損傷が生じることで、特殊かつ限定された意識障害を抱え込み、
- その意識障害が、臨死体験、大悟/解脱 体験、神秘体験 をもたらした
だった。この従来の 1-3 に加えて
- さらにその意識障害によって、死の恐怖を感じる「脳の機能が損なわれた」
を今回、追加する。
この 4 ゆえに、彼らは「死の恐怖」が無くなったと感じている。だが、実際は
- 死の恐怖が「無くなった」のではなく、それを感受する「機能が損なわれた」だけ
に過ぎない。つまり、
- 死によって自分が滅びることは無いと知ったからでも、
- 「凄い胆力」がついたわけでも、
- 死の本質を深く洞察できたわけでも、
- 何か超越的な認知能力によって死を超越したわけでもなく
生物として欠かすことのできない、死の恐怖を感じる「能力」が損なわれただけ。言い換えると、
- 「死の(恐怖に対する)超越」ではなく、「生に不可欠な能力の損傷」
だと言える。死の恐怖は、単なる知的理解に過ぎない、
- 死によって自分が滅びることは無いと知っ た
程度で消え去るような生易しいものではない。また、「生に不可欠な能力の損傷」であるがゆえに、自殺率が高くなる1のもうなづける。
(2024-07-09)
Footnotes
-
Grant Cameron : 臨死体験者の 75%は離婚し、自殺率も高い。 - http://news21c.blog.fc2.com/blog-entry-16194.html ↩